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 ナリッカから「条件にぴったりの場所を見つけた」と連絡が入ったのは、ニルチェニアがさらわれた次の日のこと。夕暮れに近くなってしまったことをナリッカは謝ったが、誰一人として責めようとはしなかった。広い国土からこの早さで条件に即した場所を正確に見つけただけでも素晴らしいものだ。

 スペルゴには幾度となくルベリオスが「王の身辺警護についての話」をしたいと話をでっち上げて連絡を入れたそうなのだが、その連絡に返事が返ってくることは一度としてなかったという。

 新月の日まで後一日、という日の夜だったが、急遽ウォルター家で他の公爵家の当主を呼んで協力をあおぐことにした。
 面倒見の良いルベリオスにはナリッカが事前に根回しをしてくれていたおかけでスペルゴに連絡を入れることをして貰えたし、シトリーはスペルゴの捕獲に全力を貸すと宣言した。
 ナリッカは一族の力を貸すとも言ってくれたし、情報の収集をやってくれている。

 感謝の言葉を述べたルティカルやジェラルドに、「気にしなくて構わないぞ」とルベリオスが微笑んで、シトリーも「あのガキには少しお仕置きしないとねー」なんて軽口を叩いている。

 夢魔は眠りを誘うことができるから、とシトリーたちアルテナ家の錬金術師たちは眠気覚ましの生成に取りかかり、ルベリオスやナリッカたちは宵闇に紛れてスペルゴを叩きに行くルティカル価値のサポートをしてくれるという話に落ち着いた。

 エメリスは何かあったときの「もみ消し役」として待機しながら皆の帰還を待つ、と言ってはいたが、いい加減過労で倒れそうだからとリピチアもそこに残ることにした。

 実際に儀式を行うであろうスペルゴを叩きに行くのはルティカルとソルセリルとジェラルドだ。
 エリシアはそこに加わりたがったが、ルベリオスたちサポート組に回ると言うことで決着が付いている。

 エリシアを巻き込みたくなかったのは相手が夢魔だからだ。異性に関しては絶大な力を持つ夢魔。その家の当主である男を叩きに行くのに、それは少し怖い、と主張したのがジェラルドだった。彼は操られたニルチェニアを間近で見たから。

 作戦を立てる頃にはジェラルドはいつもどおりの冷静さを持っていたし、ルティカルもいつもの調子でジェラルドの話を聞いていた。
 時間との勝負ですよ、とソルセリルが告げれば、「上等だ」とはっきり返ってきたから、連れて行くには問題ないだろう。
 まだこの状態でうじうじでもしていようものなら、ソルセリルはジェラルドをあっさりこの計画から下ろすつもりだった。足手まといはいらない。

 
***


 観光で来たのだったら、目の前に広がる光景は素晴らしく美しく、また何度でも来てみたいと思うようなものだったのだろうが、生憎とそう思える余裕は無かった。

 星が煌めく夜空の下には小高い丘のような場所がある。草花が生い茂るそこは端の方へ行くと切り立った崖のようになっていて、その下には澄んだ湖。
 湖はまるでもう一つの夜空かのように星を映し出し、水面に煌めく星は湖に宝石が撒かれたようだった。

 森に囲まれるようにしてひっそりとそこにある湖は神秘的で、水の精霊がダンスをしていてもおかしくないような雰囲気だ。

 新月の夜だから、星より明るい月がない。月がないというのに星が余りにも光り輝いていて、あたりも明るくて――いっそのこと不気味だった。
 まるで星が喜んでいるようだ――といったのは誰だったか。ルベリオスだったのかもしれない。

 星は、ニルチェニアを心待ちにしているかのように美しく光を纏っている。

 ぎゅっとジェラルドは拳をつくった。あの少女を、必ずこの腕の中に連れ戻してみせる。星に誓うのは癪だったから、ジェラルドは自分自身に誓った。
 ジェラルドの隣にいるルティカルの瞳はいつもよりも厳しく細められていて、ニルチェニアがくるであろうとソルセリルが予測した崖の上を見つめている。

「合図をしたら飛び出て下さい」

 弓を用意しながらソルセリルは言う。闇の中でも目立つような白い服だが、いつもの白衣ではなくてどこか礼服じみている。気配を絶って木々の中に紛れ込んだソルセリルは、白い服にも関わらず見つけにくかった。

 それぞれ持ち場について、ニルチェニアとスペルゴがいつ来るのかと息を殺して待ちかまえる。穏やかな風がそっと頬を撫でたけれど、落ち着くことはなかった。心臓はどくりどくりと音を立てて、武器を持つ手は汗に濡れている。

 ジェラルドは持っていた剣を一度手放し、着ていたコートで指先の汗を拭う。指ぬきの手袋だから手のひらの汗は全て手袋が吸ってくれるが、指先ばかりはそうはいかない。もういちど剣を持ち直して、野生の獣のように息を殺した。

 そより、と風に木の葉が揺れる。
 見つめていた崖の上、空間が揺らいだのが分かる。何もないところから足から順に少女が現れた。その少女を支えるかのように腰に手を回しているのは、紫色の瞳の青年だ。ルティカルは歯を食いしばる。今すぐ飛び出してしまいたいところだったが、そうすればニルチェニアがどんな目に遭わされるかわからない。

 遠くから見た妹はやっぱり儚くて、うつくしかった。
 神に捧げられる乙女のように清廉な白いドレスを身に纏い、ニルチェニアは一歩一歩崖へと近づいていった。歩く度に少しずつ瞼が開かれて、崖の先まであと三歩、といったところでニルチェニアは完全に目を開ける。

 現れた目の色――スミレ色に、ジェラルドが息をのんだ。
 
 ニルチェニアの傍らに佇むスペルゴのそれとは全く違う色だ。
 スペルゴの瞳は濃厚な紫で、見つめていれば飲み込まれるような色をしていたけれど、ニルチェニアのそれは淡く、どこかあたたかい雰囲気すら感じられた。

 かつての恋人の紫によく似ている。名を呼ぼうとした唇は中途半端なところで声にならずに形を作り、ジェラルドはきゅっと唇を噛みしめた。

 ニルチェニアが胸の前で手を合わせ、指を絡め、祈るようなポーズを取る。
 スペルゴはそんなニルチェニアからそっと離れた。

 星空と少女と湖。
 絵になりそうなその光景に見入る前に、ソルセリルが動く。問答無用で放たれた矢は狙い違わずスペルゴの利き腕へ。
 空気に縫いつけるようにして貫かれた腕をまじまじと見ながら、スペルゴは魔術で障壁を創った。再び放たれた矢は見えない壁に遮られては地に落ちていく。

 スペルゴの腕に矢が刺さった瞬間に、ジェラルドとルティカルは飛び出ていた。それに気がついたのか、スペルゴが大急ぎでまた壁を展開する。美しい夜に不釣り合いな金属音がした。

「――何だよ、場所……バレてたんだ」
「場所どころかお前のたくらみまで見抜いているぞ」
「ああそう!」

 淡々としたルティカルの言葉に苛ついた顔を隠さず、スペルゴは炎の玉をルティカルにぶつけようとした。それを叩き切るように剣の一振りで打ち消したジェラルドが、障壁をぶち壊そうと何もない空間に剣を振るう。

「ニルチェニア!」

 ジェラルドが大声で呼びかけても、ニルチェニアは振り向かない。

「無駄。彼女にはもう君たちの声なんかきこえない」

 魔法をかけてしまったからね。にこりと笑うスペルゴは、ルティカルにむかっておどけたように頭を下げた。

「ランテリウスがいたからこの計画は実行できたんだ……礼は言うよ、ランテリウスの息子殿」
「――うるさい」
「嗚呼、怖い顔だ。きっとランテリウスがいたらそんな顔をしているんだろうな。――大丈夫、君の妹は私が有効活用してやる」

 普段の子供じみた口調はなりを潜め、スペルゴの顔は壮絶な美しさを持った夢魔のそれに変わってきている。本性見せやがったか、とジェラルドは憎々しげに呟いた。

「ふざけたこと言ってんじゃねェよ……!」
「何を言っているんだ? 君にとっても良い話じゃないか。姉さんが――リラが返ってくる。目も見えやしない面倒な少女より、ずっと良いだろう?」
「黙れ」

 障壁を叩くジェラルドの剣は、どんどんと勢いを増していく。それをせせら笑うようにスペルゴは眺めながら、ゆったりと口を開いた。

「愚かなまでに純粋で素直な子だね、その子は。――星に願わせる前に少し味見しても良かったかもしれないな」

 見た目も良いし。
 くすくすと笑いながら紡がれるそれにルティカルは完全に切れたようだった。無言で持っていた槍を落とすと、今はない月に向かって低く唸った。みるみるうちにルティカルは龍へと姿を変えて、その鋭い爪で障壁を殴りつけ始める。バチバチと耳障りな音がし始めた。

「少し同情を誘えば簡単に星に願うことを許してくれるのだから。――ジェラルド、君はもっと早く彼女に乞うべきだったのかもしれないな。そうすればリラにもきっと早く会えた……」

 うっとりと紡ぐスペルゴを目の前に、ルティカルとジェラルドは障壁を破壊することだけを考えていた。スペルゴの狙いは二人から冷静さを奪うことだろう。シトリーから渡された眠気覚ましと精神剤を飲んでいてなおぶち切れたルティカルを見るに、スペルゴの話術は巧みだ。人の嫌なところを的確に突いてくる。

 ばりん、と大きな音を立てて壁が崩れる。
 スペルゴは意外そうに笑ってから、「もう遅い」と二人に残酷に笑った。ルティカルに殴られるより前にニルチェニアのところまで下がり、祈ることをやめていたニルチェニアの腰を抱き、二人に引き合わせる。

「――ニルチェニア、きみのだいすきなひとたちがお見送りに来てくれたよ」

 そう言ってスペルゴがニルチェニアの白い頬を撫でれば、ニルチェニアは夢から覚めたかのようにはっきりと二人を目にうつし、寂しそうに微笑んだ。一度、彼女は目を閉じる。

「ニルチェニア――」
「ごめんなさい、お兄様。ジェラルド様――でも、私、こうすることでしか恩を返せないのです」
「何を馬鹿なこと言ってんだよ! こっち来いよ! お前俺の婚約者だろ!」
「――ジェラルド様、それは返上いたします。……どうか、リラ様と幸せなあの日の続きを」

 馬鹿やろう、とジェラルドが叫んだ。
 龍の姿のまま、ルティカルがニルチェニアを抱きしめようと手を伸ばした。ニルチェニアはそっと閉じた目を開ける。

「望まなかった私より、望まれたリラ様を、どうか」

 その目は橙色に輝いている。死にかけた星の発する、あの赤っぽい光によく似ていた。するりとスペルゴがニルチェニアから手を離した。ニルチェニアは微笑んで、涙をこらえながら綺麗に笑ってみせる。
 ニルチェニアを抱きしめようと、捕まえようと走ったジェラルドの手からすり抜けるように、ニルチェニアは崖から飛び降りた。

 月の光はなくとも銀色に輝く白い髪が、宵闇に溶けていく。湖に映った星空を抱きしめるように彼女は手を広げて、落ちていく。

 彼女が水面に叩きつけられる寸前、星が一斉に輝いた。まぶしいと思った瞬間にはニルチェニアの体ならほろほろと淡く光る魔力は剥離していて、そのまま星になるように、星におぼれるように、ニルチェニアはいくつもの光球となって空に舞い上がる。

「“星に願いを”。――ほら、もう君たちの手には届かないよ。星は彼女を歓迎し、彼女は星になる。願いと引き替えに星にとらわれた彼女は、もう戻って来やしない……ああ! リラ!」

 ニルチェニアが空に溶けきった頃、空からゆっくりと落ちてきたのはルティカルの見たことがない女性。柔らかな銀の髪を持ったその女性に、ジェラルドが息をのんだのがわかった。

「――っ、リラ……」

 舞い落ちてきたその人をスペルゴは大事そうに抱えている。リラ、リラ、と甘く囁くその様子は幼い子供のようだった。
 力が抜けたように龍化を解いたルティカルが、がくりと膝をつく。

「……ニルチェニア……?」

 滅多に泣くことなんてしないルティカルが、ぽたぽたと地に雫を落としていた。


 


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