つかつかと部屋に入って来たソルセリルの顔は、いつも通りの無表情だ。「面倒なことになりましたね」と淡々と紡ぐ彼の顔から、面倒そうなところは見受けられない。
ソルセリルはジェラルドの顔を見てから、ふっと息を吐く。やっと、面倒くさそうな顔になった。
「君のせいじゃありませんよ。遅かれ早かれ、いずれは彼女もあの家を出ねばならなかったんですから」
凹むより前にすることがあります、とソルセリルは言う。
「手遅れになる前にニルチェニア嬢を取り戻さなくてはなりません――紫玉卿がしたいことは定かではありませんが、わざわざ星詠の力を使うのだとするのなら、狙いは死者の蘇生でしょう。彼は破滅主義でも野心に溢れた存在でもありませんし」
世界を滅ぼしたり、この国での実権を握ろうとは思わないはずだとソルセリルは付け足して、ジェラルドの顔をじっと見る。それから、ジェラルドの手にしていた血濡れのナイフに目を向けた。
普段は細められることも少ないその真珠色の瞳が、剣呑な光を宿したのをジェラルドは見た。勇猛な番犬ですら逃げ出すような、そんな目をしている。
「――そのナイフは?」
「ニルチェニアがスペルゴに操られたみたいで――リピチアと、クルスを」
「――そうですか」
ひんやりと冷気すら伴うような声は、その場にいた全員を凍り付かせるには十分だ。何が切っ掛けだったのかは分からないが、ソルセリルが怒っているのは明白だった。
「蒼玉卿を呼び戻さなくてはならないでしょうね……ああ、それから黒玉卿、この国の中で一番、星が多く見えるような場所――いや、開けた湖を使うのもアリでしょうね……すみません、大きな湖と……できたら、崖があるような場所を探して貰えませんか」
「わ、わかりました」
ソルセリルにそう言われた途端に部屋から出て行ったナリッカを見送りながら、何で湖なんですか、とリピチアが首を傾げた。
「星に願いをするときは、沢山の星に囲まれる必要があるのですよ。空と、水面に映る星と。それから、出来るだけ星に近い場所――高いところで行うと良いともされています」
「詳しいんですねー、先生。……ナリッカさんのお話だと、星詠を知ってる人は少ない、みたいな感じでしたけど」
「知ろうと思えば大抵の事柄は知ることが出来ます」
それがごまかしだったのか、それともそれ以外に語ることがなかったからなのかは分からないが、ソルセリルはそれきり星詠について話すことはしなかった。
ただ、こうなると口に鍵をつけたかのようになってしまう師のことを、リピチアはよく知っていたから、それを追求しようとは思わない。
「ジェラルド・ウォルター」
ひんやりとした声にジェラルドは背筋を伸ばした。白い悪魔が、哀れむような視線を自分に向けている。
この男がこんな顔をするところなんてみたことがない。何かの間違いだろうと思いたかったが、それは紛れもなく現実だった。
「君に選択肢をあげようと思います」
「――急に何ですか、心臓に悪い」
茶化したわけでもなく、本心だった。
ジェラルドはこの男のことを好きでもないが嫌いでもないし、従姉妹のリピチアの師でなければ一生関わることもなかっただろうと思っている。
聞くところによればこの男が知らぬことはこの世に存在しないという話だし、彼が数多の才を持ってなお、誰かに仕えるという選択肢を取っているのは、王に仕えているというのは――彼が純粋に誰かの上に君臨するのが面倒だから、という一点にすぎない、という話も聞いている。
この国の寛大な王がそれを認め、「ソルセリルが王の血筋に生まれていなくて良かったかもしれないね」と微笑むほどだ。彼はそれに「勿体のない言葉です」と気怠げに返したという。
誰が望まなくてもソルセリル自身が周りの総てを屈服させる才能を持っていた。
そのソルセリルに「選択肢をあげよう」などと言われたら、選択しないという選択肢はその場でかき消える。何を言われるのだろうとジェラルドは身構えた。
「君はリラとニルチェニア――どちらを取りますか?」
問われた言葉にジェラルドは言葉を失った。
――どうしてこの男が、それを知っているんだ。
***
うれしそうに黒髪の男が微笑んでいる。
いつもの、あの夢だ。
前は五日に一度見るか見ないか、という程度だったのに、最近は毎日この男の顔を見ている気がしていた。
男の黒髪は闇のようであったし、その顔に収まった二つの眼球は神秘の紫に彩られている。この人は誰なのだろうとニルチェニアはいつも不思議に思っていたけれど、リピチアの言葉で誰なのか、おおよその見当がついた。
夢と紫色の瞳。
この二つの要素から導き出される答え。
おそらくは――。
「リンツ家の方……?」
「正解! 詳しく言うなら紫玉卿――スペルゴ・リンツだよ」
おはよう、よく眠れたかな?
そう声をかけられて、ニルチェニアはここが夢の中ではないことを知る。それに気づいた途端にニルチェニアは自分の目を疑った。――確かに、目が見えている。
「驚いちゃったかな。今はもう夜なんだよ、ニルチェニア」
「――よ、夜……? どうして、私」
「どうしてここにいるのかって? 答は簡単だよ――ボクが連れてきたんだ」
にこにこと人懐こく笑うスペルゴだが、その実その目は笑っていない。ニルチェニアが横になっている寝台のそばに椅子をおいて座っているスペルゴは、ニルチェニアとそう大して歳も変わらぬ青年に見える。
――これが、話に聞いていた紫玉卿だろうか。
ニルチェニアの聞いていた話なら、彼はニルチェニアが生まれるより前に紫玉卿となっているはずだ。
「……んん? ああ、ボクが若いのが気になるんだね? 君は周りが見えなかったから仕方ないんだろうけど、結構この国の公爵家って年齢詐欺が多いんだよねー。ボクも君と大して変わらない歳に見えるだろうけど……ええと、多分君の婚約者のジェラルドと変わらないか、彼より少し年上のはず」
心情を簡単によまれていることはあまり気にならなかった。夢魔の血を引くリンツ家のものなら、他人の心情くらいは簡単に読めると聞いている。
スペルゴはうっとりとニルチェニアに笑いかけながら、やっと会えたね、とニルチェニアの頬に手を添えた。
「ああ、やっぱり可愛い顔してる。メイラー家の女の子はレベル高くて良いよねー。ボクの家の女の子も種族柄美人揃いだけど、みんなセクシー路線だからさあ……メイラー家みたいな神秘的な女の子はあんまりいないんだよね。システリアの清廉そうな女の子も良いけど」
何故人の顔について話しているのだろう、とニルチェニアが思うより早く、スペルゴが柔らかく微笑んでニルチェニアに告げる。
「そんな可愛い君にお願いがあるんだ。――ねえ、ボクのために星詠の力を使ってくれない?」
気軽に告げられたそれに、ニルチェニアは驚きを隠せなかった。
両親との秘密だったはずのそれを、何故この青年が知っているのだろう。かけられていたブランケットを握りしめ、寝台の端へと後ずさったニルチェニアに、紫色の瞳の青年は迫る。
じりじりと逃げれば逃げるほど、青年は愉しそうにニルチェニアを追いつめる。最終的に逃げ場がなくなった頃には、ニルチェニアはスペルゴに覆い被さられているような状況だった。
薄暗い部屋の中では、カーテンの開いている窓に浮かぶ月光ぐらいしか光源がないのに、そんな中でもスペルゴの瞳は妖しく紫色に輝いていた。どこか人離れした夢魔特有のその美しい顔は、仮面のようですらある。
「何で知ってるのか、って言いたいんだろう? あのね、星詠って存在自体はかなりマイナーだよね。今はもういなくなっちゃった騎馬民族に伝わる伝承だったし。でもさ、調べようと思えば幾らでも出てくるんだよ。高位の魔導師や錬金術師なら暇つぶし程度に調べることも少なくない」
「……でも、ただの伝承です。実在するなんて、そんなことはまずないでしょう」
「そうだね――ボクも実際は信じてないのかも。でもさ、藁にもすがりたいときって……あるだろ?」
ね、とスペルゴは寂しそうに笑う。仮面が剥がれる一瞬をニルチェニアは見た気がした。
「ねえニルチェニア、ボクの願い事、聞いてみるだけ聞いてみない? ――叶えるかどうかは君が決めればいいよ。ボクが藁に縋りたくなる気持ち、きっと君なら分かってくれると思うんだ」
bkm