25
 

 ジェラルドは二人の消えた虚空を見つめて舌打ちをした。


「ジェラルド兄様」
「――平気か」
「私は。――それより、クルスさんが」

 脂汗をかきながらも、リピチアは自分の肉体を【補填】している。ゆっくりと塞がる傷口に、ジェラルドは安堵の息をついた。クルスの方はリピチアより傷の程度が深い。溢れる血液は敷かれた絨毯に染みを作り、彼の顔から赤みを奪っていく。
 止血をしなくてはと手を伸ばすリピチアを、ナリッカがおさめる。

「――私が」

 ナリッカは躊躇わずにクルスの服を引き裂いて、傷口に唇を寄せた。目を見張っているクルスに、「吸血鬼の唾液には止血効果があることをご存じですか」とナリッカは声をかけて、傷口を舐めていく。
 溢れていた血が止まる頃にはクルスは気を失っていて、ナリッカは血で汚れた自分の顔を服の袖で拭う。

「リピチア様、彼に血の【補填】を」
「――っ、はい!」

 まさに吸血鬼とでもいうべき血濡れの顔に見入っていたリピチアだが、ナリッカの声に応じてクルスの血を【補填】し始める。
 鉄臭い部屋の惨状を、ジェラルドは顔を歪めながら見ていた。
 毛足の長い絨毯に転がっていたナイフを手にとって、ジェラルドはスペルゴに連れて行かれたニルチェニアを思う。

 血がべったりと付いている。粘っこいその赤は、もっとも忌まわしい液体だろう。軍人なんかをやっていればなおのこと。だからこそ。

 ――何で。

 何故スペルゴはニルチェニアをさらった?
 無理矢理連れて行かねばならない理由は?
 
「どうして……!」

 どうしてニルチェニアばかり。

 壁に拳を打ち付けたジェラルドに、ナリッカがびくりと肩をふるわせる。リピチアは痛ましげにそれを見ながら、クルスの血を増やし続けていた。クルスは一日に二度も深く体を傷つけている。出て行った血液は少なくない。

「――白玉卿に伝えて下さい。……ニルチェニア嬢はやはり紫玉卿が……ええ、間違いなく白玉卿の読み通りです」

 ふと目を閉じて、一人で話し始めたナリッカ。それをみても、ジェラルドやリピチアは何も言わなかった。それが吸血鬼の特殊な能力である“心話”だと知っているから。話の相手はヤト家の人間だろう。

 吸血鬼たちは仲間内で誰にも知られることなく連絡を取ることが出来る。ナリッカ曰く“コウモリが超音波で仲間と連絡を取るようなもの”らしいが、彼女がわざわざこうして話の内容を口に出しているのは、ジェラルド達を安心させるためだろう。

「……新月まで、あと二日しか。それまでに手を打たないと――」

 ナリッカの話には時折焦った様子が見られて、それがなおさら不安を煽る。話が終わるまで黙っていたリピチアが、ナリッカが目を開いたとたんに話しかけた。クルスの体には未だに手を添えたままだけれど、リピチアは気持ちを抑えきれなかったようだった。

「何でニルチェさんはさらわれたんですか――なんで紫玉卿は、ニルチェさんをさらったんですか」
「……ニルチェニア嬢は、少々特殊な人であるということを知っていますか……?」
「目が見えないということですか、それは」

 リピチアの問いに、ナリッカはいいえと返す。

「目が見えないのは正解ではありません。が、それに関する話です――お二人は、“星詠”をご存じですか」
「ほしよみ?」
「この国にいた騎馬民族の中に、時折、星を詠む力を持ったものが産まれていたそうです。星を詠む――即ち、星の声を聞く――私も詳しくは知らないのですが、星詠の力は時として、この世の理すら覆すことがあったと」
「この世の理……?」
「星詠は星と話し、何万年とこの世を見続けてきた星から知識を得て、この世の総ての知識をその身に刻むといいます――また、星詠は星に愛され、“星しか見えないように”光に弱い目を持ちます。夜に浮かぶ光の粒、それに照らされる景色しか見えないような、弱い目を」

 ――ニルチェニアの瞳。

 ジェラルドの前では一度として開かれたことのないそれが頭によぎる。

「星詠は、星にとらわれることを条件に、星に願いを叶えて貰うことも出来るそうです。“星に願う”という言葉は、ここからきていると――いえ、今は良いですね……“願い”によっては、死んだ人をこの世に呼び戻すことも、大地を創り変えることも、この世を無かったことにすら……出来るといいます」
「……ニルチェニアが、その星詠だってのか」

 ナリッカは頷いた。

「星詠伝承なんて、信じているものは極僅か……かの騎馬民族がこの地に消えるようにして散り散りになってしまった今、その伝承を知るものもあまりいません……高位の錬金術師や魔導師が、暇つぶし程度に調べるくらいです。実際に存在していると知っている者なんて、まずいない。星詠は夢物語と同義なんです、“本来ならば”、ね」

 リンツ家は魔導師の家系でしたねとリピチアが呟く。クルスの顔には赤みが戻っていた。
 まさか、とナリッカの顔を見たジェラルドに、ナリッカは無情にも頷く。ナリッカの黒曜石のような黒い瞳に、ジェラルドの顔が映っている。驚きと猜疑が隠し切れていない顔だと他人事のようにジェラルドは思う。

「……信じられねェ」
「私も、白玉卿に言われるまでは信じられませんでした……でも、あの人は幾ら非道であろうと嘘はつきません。あの人がいるというのなら、この世に星詠はいるんです」

 ナリッカの言葉にリピチアが神妙に頷いた。弟子という身では嫌と言うほどにそれを知っているのだろう。現に、リピチアはその話を信じている。信じがたい、この世をひっくり返すことも可能な力を持った者の存在を認めている。

「……星詠の力が一番強くなるのは、星が一等輝くとき……月のない夜、即ち新月の夜です。紫玉卿は魔導師の家系ですし、何か儀式めいたことをするときには一番その儀式に適した環境でことを進めようとするはず」
「儀式めいた、か……星詠が星に願うときって、どんな儀式をするんだ?」
「私も、それは知りません――ただ」

 ナリッカの声が低くなる。
 部屋の中はしんと静まった。
 紡がれる言葉にリピチアは声を失い、ジェラルドは息をのむ。

「星に願うということは、死を意味します」

 ナリッカの声が部屋に落ちる。持っていたナイフをジェラルドは握りしめていた。

 ――あの子が、死ぬ?


「――だからか」

 ぞわりと背筋に冷たいものが這う。もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。珍しくふるえたジェラルドの声に、リピチアが気遣わしげに声をかける。

「どうか、したんですか」
「――おかしいと思ってたんだ……ニルチェニアの目が見えないからって、あの子の父親は――ランテリウスは、部屋に閉じこめたり、屋敷の外に出さないような男じゃなかった。ニルチェニアがどうしてあんなに世間知らずなのか、メイラー家を知らないのか……そうか」

 星詠だったからだ。

 星詠の力を何かの切っ掛けで他人が知ったとしたら、今回のようなことになるのは目に見えている。ランテリウスはそれを阻止しようとして、ニルチェニアを人目に付かない場所におくことに決めたのだろう。誰かに利用されて娘を死に至らしめるくらいなら。
 そんなことになるくらいなら、娘から世界を奪ってでも――彼は「娘にとって居心地の良い箱庭」で娘を育てたかったのだろう。その気持ちは、ジェラルドにも分かる。

 ジェラルドとルティカルはそれを知らなかったから、ニルチェニアと婚約を結ぶということで――彼女を数多くの人の目にさらした。
 あのランテリウスですら箱に閉じこめる方法をとるしか無かった娘を、ジェラルドは知らずに箱から出してしまった。

「――俺のせいだ」
「違いますよ」

 愕然としたジェラルドの声に、かぶせるようにして凛とした声が響く。
 遅くなりましたね、と続けるその声に、リピチアが目を輝かせた。

 随分早く来ていただいて、とほっとした声を扉側に向かって出したナリッカにつられるようにして、ジェラルドも部屋の入り口に顔を向ける。

 染み一つない白衣を身に纏った、外道な医師がそこにいた。




 


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