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 結局、あれからニルチェニアは起きてこずに、ジェラルドは大人しく部屋に戻った。無駄足を踏んだ気はするが、ちゃんと心の整理はつけられたはずだと気合いを入れて頬を叩く。彼女が目覚めたら、謝罪も、これからのことについても、ちゃんと言うつもりだ。

 ジェラルドに与えられた執務室に戻れば、そこにはリピチアとリンツ家の当主が何故かいた。

「あ、やっほー!」
「……どうも?」

 にこっと笑って手を振ってくる黒髪の青年はスペルゴ・リンツ。彼の紫色の瞳は愉しげに輝いている。彼はリンツ家の当主、つまりは紫玉卿。何でこんなところに、と首を傾げたジェラルドに、「先生から来るように言われたらしいですよ」とリピチアが説明した。

「ニルチェニア嬢はソルセリルに夢見が悪いって伝えてたらしくってさー。ボクに行ってこいって。こんなことがあった後じゃろくに眠れないだろうし、って言ってたよー」
「……随分早いな」

 連絡をしたのは何時間か前の話だ。そんなに早く対応できるものなのかとジェラルドが首を傾げれば、スペルゴは事も無げに「ランテリウスの子供だからじゃないの?」と返した。良い歳した青年がこてんと首を傾げるのは、普通は気持ち悪いものだが、スペルゴに関しては馴れがあるせいか、あまり気持ち悪さはなかった。

「何かわかんないけど、ソルセリルってランテリウスの子供に甘いよね。ボクが知る限りはルティカルがそうだけど。――ニルチェニア嬢も同じ感じじゃないの?」
「あー、確かに」

 あの白い外道医師は確かにルティカルやニルチェニアには甘い。ルティカルが蒼玉卿を継ぐにあたっての指導や準備も完璧に彼がしたという話を、ジェラルドはルティカルから聞いたことがあった。

 ニルチェさんにも甘かったですもんね、とリピチアが頷いている。確かに、ニルチェニアを見たときになんだか優しい顔をしていたような気も、とジェラルドも頷いて、スペルゴに向き直った。

「せっかく来てくれたのは良いんだが……ニルチェニアは今眠っていて」
「好都合! 夢魔だし!」

 寝てるときに見る夢を何とかしに来たんだしさあ、とスペルゴはにまっと笑って、「ニルチェニア嬢の部屋ってどこにあるの」とリピチアに尋ねる。

「じゃあ私が案内します」
「あ、そう? ありがとー」

 リピチアがそう言えば、にこにこと笑ってスペルゴは席を立つ。リピチアも立ち上がって、スペルゴを案内しようと歩いていく。部屋のドアを通り抜けるときに振り返り、「じゃあ行ってくるね」とジェラルドに笑いかけたスペルゴに、「頼みます」と手短に答えた。

「そういや、エリシアにヤト家に連絡入れて貰わねェと……」

 ついさっき入った連絡では、エリシアはルティカルがしたように地下牢にあの三人をつっこんできたらしい。
 それが落ち着いたタイミングでエリシアに連絡を入れれば、二つ返事で答えが返ってくる。
 すぐにヤト家に連絡を入れるとのことだったから、早ければ今日中に何かわかるかもしれない。

 その時のジェラルドは、これがニルチェニアを救う最後の機会だなんて思ってもいなかった。


***
 
 慌ただしく来客を告げたのはジェラルドの執事で、今日は来客が多いなとジェラルドは首を傾げながらそれに応じる。執事に通されてやってきたのはヤト家の当主のナリッカで、こちらも負けず劣らず慌てていた。
 数時間前にヤト家にはエリシアの方から「メイラー家について調べて貰いたい」と連絡をしたところだったから、それについての報告でもあがったのかと思ったのだが。

「ジェラルドさん――ここにリンツ家の人がきても、とおしてはいけません!」

 開口一番にそう言われて、ジェラルドは「どういうことだ」と思わず声を低くしてしまった。

「ニルチェニア嬢をねらっているのはリンツ家です」
「は――ちょっと待て!」

 顔色を変えて走り出したジェラルドの後ろを、ナリッカが驚きながら追いかける。執事の男はそれに驚いた顔をしながら、二人を追いかけるのを諦めた。方や軍で少将をつとめ、もう片方はこの国で随一の諜報の腕を持つ女性である。多分、追いかけても邪魔になるだけだろう。

 普段の飄々とした雰囲気はどこへやら、切羽詰まった表情で廊下を走り抜けるジェラルドに声をかける使用人はいない。ただ、何かあったのだろうと察し、不安げに顔に影を落としていた。ナリッカはそれに遅れることなく続き、「何があったんですか」と冷静に問う。

「さっき、スペルゴが来た。ニルチェニアの部屋に通したところだったんだ」
「ど、どうして通しちゃったんですか……!」
「スペルゴが白玉卿に“ニルチェニアの夢見が悪いから、なんとかしてこい”って言われた、とか言ってやがったからな……白玉卿の頼みなら間違いねェと思ったんだが……チッ、嘘か」

 早すぎると思ったんだが、と苦々しげに舌を打ったジェラルドに、部屋にはニルチェニア嬢だけですか、とナリッカが尋ねる。

「いや、リピチアがいるはずだ」
「あ……白玉卿のお弟子様でしたね……それなら或いは……とにかく、行ってみないと」

 息を切らせながら全速力でたどり着いたニルチェニアの部屋は、いっそ不気味なほどに静かだ。扉を大きく開け放ち、部屋の中をのぞき込んだジェラルドは、思わず息をのんだ。

 人が二人、うずくまっている。

 立っているのはニルチェニアとスペルゴだけだ。ニルチェニアは眠っているように目を閉じている。ニルチェニアの、その小さな手に握られていたのは彼女には似合わぬ血濡れのナイフ。滴り落ちる血が、淡い色だったドレスを真っ赤に染めていく。

 彼女は幽鬼のように佇んでいた。

 床に転がっているのは――クルスと、リピチア。

 二人とも、痛みに顔を歪め、額には脂汗をかいている。腹部を押さえるクルスの手のひらの間からは、血が滴り落ちていた。リピチアは太股を押さえている。かなり深く切ったのか、立ち上がるのは困難そうで。

「あ、ナリッカも来ちゃったんだねー。……これ以上人が増えると面倒だし、ボクは帰ろうかな。いこ、ニルチェニア」

 ニルチェニアは言葉を返さなかったけれど、こくんと確かに頷いた。柔らかな絨毯の上にナイフを落とし、膝を曲げてドレスの裾を少し摘んで礼をする。普段は優雅に見えるそれも、血濡れのドレスでやられたのでは不気味な印象しか持たせなかった。

 白くて細くて、命を摘み取ることなんて出来そうになかった指先が、鉄臭い赤に覆われている。惨状なんて腐るほど見てきた軍人のジェラルドも、目の前に広がる光景のおぞましさに吐き気を催した。

 ――この子は、こんなことをする子じゃねェのに……!

 じゃあね、と笑うスペルゴは、ニルチェニアの腰を抱いている。大人しく従うように身を任せているニルチェニアからは、自分の意思というものが感じられない。「操られています、ね……」とナリッカが悔しげに呟いた。

「待て!」
「待つわけ無いだろ」

 ジェラルドの叫びに返ってくるのは、普段のスペルゴからは考えられないような低い声だった。

「邪魔できるものならやれよ。ボクは今ここでニルチェニアの自我を破壊して、人形にすることも出来るんだからね。夢に入り込んだ夢魔が、その人間を好きに出来ることくらい知っているだろ?」

 そっと、壊れ物でも抱くかのようにニルチェニアの頭頂部を撫でるスペルゴの顔は、狂気に満ちた優しさに溢れている。ニルチェニアの頬についた返り血を、スペルゴは優しく親指で拭った。

 ――おぞましい。狂っている。

 ジェラルドから見るスペルゴの瞳は紫色に輝いていたけれど、そこには狂気と異質な物を感じる。それは執着なのだろうか、それとも憎悪なのだろうか。
 ニルチェニアを見る目はどこまでも優しいのに、彼はニルチェニアを見ていない。

「ランテリウスには感謝しないと。こんなに素敵な女の子を今までずっと隠してきてくれた……」
「何、訳わかんないこと言ってんだよ」
「この子は必要とされるべき者に譲渡されるべきだ。だろう?」
「ニルチェニアを物みたいに言ってんじゃねェよ……!」

 スペルゴはジェラルドをあざ笑いながら、空中に指先で魔法陣を描く。攻撃されるのかと二人が身構えたときには、スペルゴとニルチェニアは魔法陣から広がる空間の中に身を投げていた。

「安心しなよ、ジェラルド。君にとっても悪い話じゃない」

 くすくすと笑うスペルゴの声を残し、魔法陣は収束していった。




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