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「……ニルチェさん」

 自分の部屋に戻った途端に、ニルチェニアは小さく嗚咽を漏らし始めた。限界だったのだろうとリピチアは悟る。ルティカルがいたならまたもう少し変わっていたのかもしれないが、彼女が一番慕っている兄は、今この国にいない。
 どうして、とニルチェニアは小さく呟いていた。

「ニルチェさん」
「望まれないって、こんなにも辛かったんですね」

 ドレスにぽたぽたと涙を落としながら、それでもニルチェニアは微笑んでいた。そこまでして笑うことはないのに、とリピチアはニルチェニアを抱きしめる。

 リピチア個人としては、ニルチェニアはいい子だと思う。それは確かに「メイラー家なのに」威張っていない、だとか「メイラー家なのに」分け隔てなく優しい、だとか、「メイラー家」が文頭についてしまう事柄だけれど。
 でも、それでもクルスに正面から言葉をぶつけた勇ましさや、何かをする度にかけられる感謝の言葉、他者を気遣う優しさはニルチェニアにしかないものだ。メイラー家だとか、そんなことは関係なく。

「今までは、ずっと母か兄がそばにいてくれました。――父は仕事で忙しかったので、私が成長してからはあまり会えませんでしたけれど、それでも」

 それでも良かったとニルチェニアは言う。
 愛しか受け取ってこなかったから。両親も兄も、外でニルチェニアにかけられている言葉を、彼女に知らせようとしなかったから。

「小さいときはずっと不思議に思っていました。どうして私は外に出られないんだろうって。でも、見えないから外に出ては危険だと、だから駄目、と両親に言われて、納得していたんです。でも……」

 実際は違った。ニルチェニアはあの夜に葡萄酒を頭から浴びせられて、それを理解した。
 自分は望まれていなかったのだと。
 外に出ては駄目だったのは、ニルチェニアが傷つくからだ。両親はそれを理解していたし、兄はニルチェニアを護ろうとしていた。

 我が儘なんです、とニルチェニアは小さく笑った。
 
 愛しか与えられてこなかったから、負の感情を向けられるのが怖くてたまらない。だから、出来るだけ人に「良い人」だと思われるように行動している。ニルチェニアはそういって俯いた。
 
 リピチアはそれを我が儘だとは思わない。誰だって嫌われるのは嫌だろう。あの師ですら「嫌われるのは面倒」と言っていたくらいだから。

「私、ここまで嫌われているとは思っていなくて――」
「メイラー家のひとがおかしいだけですよ。ニルチェさんはなにも悪いことしてないじゃないですか」
「違うんです」

 ニルチェニアは弱々しく首を振った。

「生きていること自体が、罪なんです。あの人達にとっては」

 ふふ、とニルチェニアの口元に浮かんだのは微笑みだが、リピチアはそれをみてぞっとした。こんな風に薄暗く、自虐的に微笑む彼女は見たことがない。
 
「ねえ、リピチアさん」

 話しかけられて、すっとリピチアの背中が冷える。
 彼女は笑いながら泣いている。ドレスにいくつもの涙の染みが残っていて、風呂に入ったばかりだというのにその顔は上気することなく青ざめている。
 桜色の唇が動いている。気怠げに、苦しげに。

 聞かせないでくれとリピチアは叫びたかった。
 次の瞬間にどんな言葉が出て来るのか、想像できないような馬鹿ではなかったから。

「解消します。――婚約」

 ごめんなさい、と優しい声でニルチェニアは微笑む。もう彼女は泣いていない。
 口の中から水分が一気になくなったように、リピチアの舌はもつれた。からからの口内に舌が引っかかる。

「ニルチェニアさん、考え直して下さい」
「――いいえ。少し前から考えていたんですけれど、やっぱり私はこの家にも要らないと思うんです。こうやって迷惑もかけているし、この家に悪いものしか運んでいない気がしますから」
「何言ってるんですか!? 私もエメリス様も、ジェド兄様だって――駄目です、もっと考え直して!」

 いいえ、とニルチェニアはもう一度首を振った。

「ジェラルド様をこれ以上悲しませたくないので、私はこの家から去るべきです」
「何を――ニルチェニアさん、何を言ってるんですか、ニルチェニアさんがいてどうしてジェド兄様が悲しむんですか」

 リピチアの心に引っかかるものはあった。けれど、それはニルチェニアが知っているはずのないものだ。その話を聞いたときに、リピチアは侍女達にそれをニルチェニアの前で話さないようにと言ったのだから。もちろん、誰も元から話すつもりなんてなくて、だからリピチアは安心していたというのに。

「ジェラルド様は、まだ立ち直られていないのでしょう?」

 ――何から、なんて聞けやしなかった。ニルチェニアは、“リラ”のことに気がついている。

「ニルチェニアさん」
「この家の方はその話を私にしていません」
「そうじゃないです!」
「リピチアさん」

 宥めるような優しい声で名前を呼ばれる。何故だか、リピチアは泣きたくなってしまった。

 ジェラルドはあまり悪くない――と思う。話に聞く限りではジェラルドと“リラ”は本当に仲が良くて。そんな愛しい人を失ったら、やはり引きずってしまうのではないだろうか。女々しいと笑えはしなかった。それだけ愛していたということだから。

 じゃあニルチェニアが悪いのか? ――それも違う。
 ニルチェニアはジェラルドがリラを引きずっているのが見えていたのだろう。それも、きっとリピチアより先に気付いている。最近はジェラルドがニルチェニアをみるたびに少し残念そうな顔をしていて、それが気になってはいたけれど。

「ニルチェニアさん、とにかく考え直して――お願いです」

 ニルチェニアのことだから、迷惑をかけてまでここにいる必要なない、とでも判じたのだろう。
 リラのことはただの口実に違いない。確かにジェラルドの心をニルチェニアがかき乱しているのかもしれないが、ジェラルドもリピチアもニルチェニアの瞳の色なんて見たことがない。色がリラに似ているだのなんだのといっても、そんなもの見た目だけだ。
 リラのことを知っている侍女に聞いた限りでは、ニルチェニアとリラは似ても似つかないそうだし。髪の色が似ているくらいで、背格好も違うと言っていた。

「リピチアさん――我が儘で、ごめんなさい」

 ニルチェニアが寂しそうに笑った。
 リピチアより背の低い少女は、リピチアにぎゅっとしがみついた。その華奢な肩が震えているのをリピチアは知っている。

「ニルチェさん、ごめん」

 これ以上は見ていられなくて、リピチアは《本領》を発揮する。ミントグリーンの光がニルチェニアを包み込んで、ニルチェニアはぐったりとリピチアにもたれかかった。

「――対象に《眠気》を【補填】」

 ニルチェニアを抱き抱えて寝台に横たわらせる。直ぐに部屋を出て、ジェラルドの元に向かった。途中ですれ違ったクルスにはニルチェニアが眠ったことだけを伝えて、リピチアは廊下を走る。
 
 ニルチェニアが自分のことを我が儘だと思うのは勝手だ。ニルチェニアが我が儘を言うのも勝手だ。
 だから、リピチアも我が儘を通す。それだけのことだ。




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