「……今度は普通の部屋?」
「ファンタジーにありそうな部屋だよな」
どちらともなく目を覚ました二人は、自分達が倒れ込んでいた部屋の中をきょろきょろと見渡す。
燕脂色の絨毯は毛足が長く、二人の革靴をすっぽりと受け止めてしまうほどだ。
「今度は本当っぽいわねぇ」
「ガチっぽいな」
夏休み中の全校登校日の帰りに、異世界へ連れて行かれるだなんて、思ってもみない出来事。
沈み込む足元の感触、ひんやりした空気が現実感を持たせる。
広々とした部屋の中には、装飾の施された落ち着いた色合いの、一人がけの椅子が一つ、二人が倒れていた向こう側に見える。
その椅子は今立っているところより少し高い場所に置いてあり、椅子の向こうには薄紫色の、人の三倍はありそうな大きな水晶が煌めいている。
簡単に現すならばそれはまるで――
「RPGゲームの謁見の間、って感じね」
ひんやりした中にどこか歴史を感じるような匂いが混じっているな、と少女は空気を吸い込んだ。
尤も、その空気をを弟の悠斗に表現させれば「埃と黴のにおいを薄めた感じ」になるわけだが。
「ま、『誇り』と『華美』は感じるけどねぇ」
「?」
薄暗くなかったら大層豪華なのであろう部屋を見て、ちょっとした言葉遊びに凛音は興じる。
それに悠斗は首を傾げ、凛音はちょっと笑って手を振った。何でもない、と。
「とにかく出ましょうか。何か扉もあるみたいだし」
それもそうだと、自分たちもろとも異世界送りにされたらしい荷物を持ち直し、二人は立ち上がる。
途端に、扉が勢い良く開いた。
うわ、と悠斗は声を上げる。
開いた扉から差し込む光が目に痛い。
「お前、どこから入った!」
開いた扉の前に立ち、男が声を張り上げる。
逆光のせいで顔や体付きは不鮮明だが、声からして男だ。
「ここは立ち入り禁止区域だ!」
知らねーよ、と悠斗は言いたい。意図的に入った訳じゃないのだから。
つかつかと部屋に入るなり自分を睨みつけるその男に、悠斗は舌打ちを一つ。
腰のベルトに鞘が見える。
ここがファンタジーなら間違いなくこの男は近衛兵か騎士辺りだろう。
この部屋の豪華さからしてそれはある一定の真実味を悠斗に持たせた。
そしてそれが事実ならば、捕らえられて牢獄行き、最悪のパターンで処刑、といったところだろう。
それならば捕まるわけにはいかない。
肩にかけなおしたばかりの竹刀ケースから竹刀を取り出し、悠斗は構える。
真剣を携えた兵士に対して、竹刀でどこまで持つかが心配だが、自分は相手を倒す必要はない。
出来るだけ時間を取って隙を多く作れば良いのだ。
「やはり賊か?」
懐疑的な男の顔目掛けて竹刀を振り下ろす。
どこかでカチカチと音がした。
男に避けられる前に竹刀を引き、足払いを掛けるべく竹刀を斜めに膝に向かって振る。
風切り音の大きさが、悠斗の振りの大きさを表している。
男は飛んでそれをかわすと、悠斗を距離をあけ、腰の鞘に手をのばした。
「なかなか出来るようだが、大振りだな」
隙が多いと呟く男の後ろから、白くてほっそりした手が伸びる。
その手の持ち主は男の首元に刃を出したカッターを突きつけると、ひっそりと囁いた。
「隙、ねぇ?」
「もう一人いたのか」
男ににんまりと笑いかけたのは凛音だ。
彼女は耳が良い。
男が部屋に入ってくる前に薄暗い部屋の片隅に潜み、息を殺し、部屋に入ってくる者の不意を討とうとしていたのだ。
不意討ちは「純粋な力での実力行使」において、性別ゆえに不利に立たされてしまうことの多い凛音の得意分野でもあるし、確実に仕留めるには都合の良い方法。
悠斗もそれを理解していたから、わざと竹刀を取り出して構えた。
相手の視線を、ひきつけるために。
さっきのカチカチという音は、凛音がカッターの刃を引き出した音。
悠斗の大振りな竹刀の振りは、風切り音によってその音をごまかすための行動。
何故凛音がカッターを都合よく持っていたかといえば。
手先が器用で工作を好む彼女は、制服のポケットにカッターを入れて持ち歩く癖があった。
そのカッターは時として護身用の武器ともなる。
大企業の社長令嬢ともなると、誘拐犯から引く手数多だ。彼女が用心するのも無理はない。
彼女の不意討ちもそこから生まれた自衛策の一つであっただけのことだ。
「武器、捨ててくれません?」
首元に銀色の刃を突きつけた凛音に、男は寧ろ不適に笑った。
「そんな物で俺を退かせようとは恐れ入る」
首元に近づけられた刃など意にも介さず、男は自らの手を後ろに伸ばし、凛音の腕を掴んで捻り上げる。
「痛ったぁっ」
「忍耐はあるみたいだな」
捻り上げてもなおカッターを手放そうとはしなかった凛音をそう評し、男は腕を掴んでいる手に力を込めた。
ミシミシと嫌な音がするが、凛音は歯を食いしばって男の背に蹴りを入れる。
「凛音っ」
竹刀を放り投げ、確実に男の顔を狙って繰り出した悠斗の拳は、男の顔に当たる寸前でガラス質の壁のような物に遮られた。
「話は後でゆっくり聞かせて貰おう」
男がそう言った瞬間に、二人の体に黒い縄がまとわりついた。
もがけばもがくほど締め付けるそれは、ロープや縄というより、伸縮自在のゴムといった感じだ。
ただ、ゴムと違って、そこには質感が無い。影を固めて伸ばしているような、おぼろげな感触。
そのくせ、千切れないのだから腹立たしい。
凛音と悠斗をそれぞれ片手で抱え、男は部屋を出ていく。
なおも抵抗し続ける二人に舌打ちをした男は、何事かをはっきりと呟いた。それを意識するか否かの瞬間に、二人の思考には靄がかかる。
何も考えられなくなって、大人しくなった二人に冷たい視線を向けると、男は冷たい石廊に靴音を響かせ、この国の『王』とも呼ぶべき存在に、二人の処遇をどうするべきか問いに行った。
*
「質問に答えろ。真面目にだ!」
「答えましたって」
「俺達の方が信じられないくらいだっつの」
菫色の美しい眼を限界までつり上げ、黒衣の男は双子に辛抱強く答えを求めた。
対する双子は半ばうんざりとしながら、通算八回目の男の質問に答える。
「……もう一度聞くぞ。どうやって入ったと聞いている」
「いい、よく聞いて頂戴ね? 『帰宅途中に変人に声をかけられたらいつの間にかあの場にいた』の!」
凛音の説明も最初こそ丁寧だったが、八回目ともなると粗雑になる。
そりゃあそうなるよな、と悠斗も疲れた顔をした。
何をされたのかは分からないが、自分の攻撃は確かに防がれたし、ここにくるまでに行動はおろか思考の自由まで奪われた有様だ。
おかげでいまいち現状の確認が取れていない。
それなのにほぼいきなりの状態でああいう応酬を交わせる姉が羨ましく思う。度胸は前からあったが、命の危機かもしれない状況でここまで吠えるとは。
度胸どころの話ではないのかもしれない。
「ああもう!埒があかないわ!」
うんざりした調子で凛音がため息をついた。長い睫に縁取られた目をきりりとつり上げる。
「話の分かる責任者を呼んでらっしゃい」
「……あのなあ、クレーム入れてる訳じゃないんだぞ」
危機感をどこかにおいてきたような、少しずれた言葉に悠斗の危機感も殺がれてしまう。
「そうは言ってもこの人、頭堅いんだもの。話の分からない人に話しても無駄でしょ?」
「そうだけどさ……」
「良い? 『異世界から来ました』なんて普通言わないよな、って思われるのはしかたないと思うわ。私もいきなり言われたらそう思うもの。でもねぇ、『服装がおかしい』『持ち物に解読不可能な言語が混じっている』、の条件を提示された上でもそれを信じないのって、頭が堅いかバカのどっちかよ?」
まあ私だったらそんなヒト、狂人として処理しちゃうけど。
さらっと小さな声で付け足されたそれに、この黒衣の騎士はよほど辛抱強いんだろうなと悠斗は思う。
確かに、二人が連れてこられてすぐに、この黒衣の騎士に持ち物検査をされた。
夏休みの登校日にこの“異世界”につれて来られただけあって、荷物は限りなく少なかったのだが、それでも筆箱やプリントの束、ノートなどは入っているわけで。
特に、文学少女を自称する凛音の鞄からは、文庫本が三冊ほど。
中をペラペラとめくった男が、「どこの言語だ?」と聞いたのは事実だ。
その前にも、「見かけない服装だな」と男は二人を怪訝な顔で見ている。
別に、二人は妙な格好をしていたわけでもない。ただの制服を着ていたのだが、この世界では制服はものめずらしいものである、ということが分かった。
分かったところで、何の役にも立ちはしないが。
「でも、常識的に考えたらあり得ないことではあるし、この人が信じないのも仕方ないんじゃないか、凛音」
「『常識ではありえないことがあったから』こうなっているんじゃなくて? そうなった以上、常識の元に話を続けるのなんてナンセンスよ、悠斗」
二人の言い争いに眉を顰め、男が制止をかける。
その顔には色濃く困惑と疲労が現れていて、双子も大人しく口を噤んだ。
「……お前達の話はまあ、何となくだが理解はした。信じられそうにないが」
「俺達だって信じられないって」
「理解したのが驚きだわ」
あっさりとそう言い放った凛音は、どこか拗ねているようにも見える。
何かあったのかと悠斗は考えて、すぐに思い至った。後ろ手に縛られた姉の左手首は、人の手形の形に赤黒く変色している。
嫌な音がしていたから、もしかすると骨にヒビ位は入ったのかもしれない。考えたくは無いけれど。
手先を使うことに喜びを見いだす姉からしたら、拘束より酷い仕打ち、というものだろう。
「手ぇ、酷い色してんな」
「嘘ぉ」
凛音が不意に泣きそうな声を出す。
男が目に見えて慌てた顔をした。
必死に取り繕っているが、表情を読むのに長けている悠斗からすれば丸分かりだ。
どうやらこの男、女に弱いらしい。
とは言っても、いわゆる「色仕掛け」に弱いタイプではなく、女性に力を行使できないタイプ、という意味での「弱い」だ。
「凄く腫れてるってか、色がグロい」
「ええ……どうしよう、私手が使えなくなったら死ぬ。死ななくても自死する」
手が使えなくなったら生きている意味なんて見いだせない、と俯いて啜り泣きをし始めた凛音に、悪かったと男が慌てる。
ぐすぐすと泣いたままの凛音にどう声をかけるべきなのかと戸惑っている男を後目に、悠斗は案外チョロいもんだな、と冷めた目でそれを見ていた。どうやら、うまくいったらしい。
凛音の涙の大方は、いわゆる「女の武器」だ。
悠斗の知る限りの凛音は、「左手がなくても右手で頑張る」の考え方で、「両腕なくしたら口使って頑張るわ」と言うタイプの人間だ。断言できる。
気づけば良いな、と言う程度で手の色を指摘したのだが、凛音はうまくそれを活用した。
涙声は思わず悠斗もビビる完成度。
おそらく、凛音も薄々「この男は女の涙に弱そう」と気付いていて、とっさに演技したのだろう。抜け目無く狡猾な姉のことだから、間違いないなと悠斗は断定する。
――こんな感じで騎士なんて務まるものなんだな。
逆に心配してしまう。
悠斗の眼前では、凛音が完全に男を騙しきっていた。
先ほどまで高圧的だった男のまとう空気が、今やどうにかして凛音を泣き止ませようという空気に変わっている。
――女ってホント怖い。
涙には騙されないようにしようと悠斗は誓う。
「お待たせしました」
部屋の扉が開いて、双子と同年代か少し上くらいの少女が入ってくる。
入ってきてすぐに、少女は困った顔をした。
それを見て、黒衣の騎士が一瞬うろたえる。
「ヴェインさん、泣かせるのは良くないと思います」
涼やかで聞き取りやすい声だ。
薄氷色の眼を困ったように細め、少女は三人に近づく。
紺色のふんわりしたワンピースがふわりと揺れる。
こつこつと黒い編み込みのブーツを動かす度に、彼女の背中で豊かな髪が跳ねた。背中の中程までの長さのそれは一見黒く見えるが、光が当たると紺色に色を変える。
さらさらと髪の流れる音が聞こえるまでの距離になると、彼女からふんわりとした花の香りが漂っているのに気がついた。
「『約束の間』にいた方達?」
「はい」
「どうやって入ったのかは?」
「……信じられない話かと」
「そうですか?うーん、とにかく、ちょっと拘束を解いて下さい。ええと、そちらの女性だけで良いので、一応」
柔らかく微笑んで、少女は凛音の手首を指した。
しかし、と言ってから、諦めたように頷いた男は、手を宙で横に薙ぐ。
あっと言う間に消え去った黒い縄を見て「助かります」と少女は微笑むと、凛音の左手首を優しく自らの手のひらに乗せる。
黒くさらりとした生地に包まれた手に凛音は探るような目を向ける。
「ごめんなさい。ヴェインさん、力が強くて仕事熱心なだけなの」
凛音の手が乗っていない方の手で、少女はくるくると円を描くように手首をなぞる。
青白い光がパラパラと舞って、凛音の手首は元通りの白さを取り戻した。
「凄い…」
思わず凛音が呟く。それに可愛らしくありがとう、とはにかんだ少女に、凛音も丁寧に礼を述べた。
「どうしてあの場にいたのか、教えて貰えますか?」
ちょっと申し訳なさそうな少女に、凛音が頷いて丁寧に話し始める。
帰宅途中で黒ずくめにシルクハットの変な男にあったこと。
『異世界に招待する』と言われたこと。
暗闇に飲み込まれ、気がついたらあの場にいたこと。
子細取りこぼしのない説明は、男に最初していたものと同じだ。
顔をしかめて「真面目に答えるように」と告げた男と違い、少女の方は真剣な面持ちで二人を見つめた。
「何一つとして嘘でないです」
「本当ですか」
呟かれた言葉は男に向けられたものらしく、男はすぐに顔色を変えて二人を見ると、悠斗を縛っていた縄を消した。
「手荒な真似をした。申し訳ない」
「いや、あなたの仕事なんだろ」
仕方ない事だと悠斗も凛音も口にする。理解して信じてもらえばそれで良いのだから。
男が「すまない」ともう一度謝ってから、「それよりその人の話を簡単に信じたことの方が私は気になるかな」と、凛音は男に目を向けた。
「この方は、嘘を見抜く能力があるんだ」
「そうなの?便利ねぇ」
悠斗からしてみればびっくりするような言葉だったのに、凛音はそれが当たり前かのようにさらりと納得してしまったらしい。または「そんな事あるわけないじゃない」と疑っているのか。
「昨日の夕飯、カレーだったんだ」「ふーん」という会話くらいの軽さ。
もう少し衝撃を受けても良いんじゃないのか。
「凛音は「嘘を見抜く」とか簡単に納得出来んのか」
「え?だってほら、事態は私たちにとって、良い方向に向いてる訳だし?ここで否定するのもなんか変じゃない?」
確かに、「嘘をついていない」と言う主張は事実であると証明されている。それでも悠斗が少し気後れてしまうのは、やはり「頭が堅い」のか。
「常識…『私たちの世界での』常識はここじゃ通用しなさそうだし。異世界に飛ばされた時点で『ああそういうもんなのね』って納得するものじゃないの?」
「常識って言えば、凛音はあっちでも常識知らずだったけどな」
「失礼ねぇ、常識は身につけてたわよ?ただ、縛られるつもりがなかったってだけ」
それはそれでどうなんだ。
二人の会話に耳を傾けていた少女と男も、今や何とも言えない顔で二人を見比べている。
元通りの白さを取り戻した手首をしげしげと見つめて、「医者要らずねぇ」と呟く凛音は、完全に吹っ切れたようだった。
声に感心は混じっていても、畏怖や驚愕はない。