変な女だと思いながら、クルスは黙ってその場に立っていた。視線の先には先日、彼の主となった娘がいる。陽光に弱いその瞳は、噂によると紫色で、メイラー家にはあり得ない色彩をしているという。
気にくわなかった。
青い目でもないのにメイラー家を名乗るその娘が。よりによって、あのランテリウスの娘だというそれが。
ランテリウスはメイラー家の中でも変わっていたから、良く思う同族はあまりいなかったけれど、クルス・メイラーはそうではなかった。
堂々とした立ち居振る舞いに、良く回る頭。大将として軍に在籍していたその男にひっそりと憧れていた。破天荒そうに見えて思慮深い――そうなってみたいと思うこともあった。
ランテリウスは彼の叔父に当たる存在で、そんなランテリウスが蒼玉卿をつとめているのは誇らしかった。息子のルティカルとはたまに顔を合わせるような間柄だったし、それほど仲も悪くなかった。
ある日、ランテリウスが逝去し、それを追うようにしてランテリウスの妻であるサーリャもこの世を去った。後に残ったルティカルが蒼玉卿を継ぐと聞いて、ほっとしたような、残念なような気分にもなった。そこにもう、ランテリウスはいないのだと。
ルティカルが蒼玉卿を継いでから、ルティカルの妹の話があちこちでされるようになった。ランテリウスが生きていた頃にはあまり聞かれなかった話だが、ルティカルの妹のニルチェニアは目が悪い上に、メイラー家のあかしである青い瞳を持っていないという話だ。その妹が父という後ろ盾を失った今、メイラー家から出て行くというのはクルスや他のメイラー家の者にとっては当たり前のことだったのだけれど、ルティカルはそれに猛反対した。
気にくわなかった。
ルティカルがそんなことを言い始めたのが。
あのランテリウスの息子であるルティカルが、メイラー家とは言えないような娘を擁護し続けるのが。
今から思えばそれは多分、ただの嫉妬だったのだろうけれど。
「クルスさん、本を取っていただけないでしょうか」
その娘に名を呼ばれる度に、苛々するのがわかる。あの白い悪魔とでも言うべき男にこの娘の下男になるように命じられた。
そこに至るまでのことを考えれば、確かに良心的な罰だったのかもしれない。侮辱されることを殊更に嫌うメイラー家だ。それも女。頭から葡萄酒をかけられて、相手を生かしておくというのは――他の家ならまだしも、この家においては異例だろう。
どうして酒なんかかけたのだったか、と目の前の娘の顔を見る。閉じられた瞼以外は他の何とも変わらずに、まあ髪が白すぎることを除けば十分にメイラー家の顔つきをしている。白くて滑らかな肌は思わず触ってみたくもなるし、美貌揃いの一族の中でも十分に通用する顔だろう。
桜色の唇は柔らかい言葉しか紡がなくて、それが何だか腹が立つ。
「さっさと受け取れ」
「ありがとうございます」
求められた本を押しつけるように手渡せば、娘は細い指でそれを開いて点字をゆっくりとなぞり始める。
あの顔に酒をかけたときの表情が忘れられない。
白い肌を滑っていく赤い雫が、彼女の白髪を濡らしていった。喪に服していた黒いドレスには葡萄酒の染みは目立たなかったけれど、白髪に混じる葡萄酒は想像していたより赤くて、それがまるで血のようで、どこか肝が冷えた。
何をされたのか理解していなかったかもしれないその顔は、それでも悲しげに歪められて、その時に自分の持っていた何かが壊れるような気がした。それは、ひそかに尊敬していたランテリウスの娘を害してしまったような――そんな、心躍る落胆、だろう。
ルティカルに投げ飛ばされて、殴られて、地下牢に入れられたことも覚えている。その頃には酔いもすっかり醒めていて、頭の中にあるのはルティカルの憤怒の形相と、ニルチェニアの悲しそうな顔だった。
「クルスさん」
「今度は何だ」
「お腹がお空きでしたら、食べに行って下さい」
「あなたは」
「今日はいらないです」
やたらと気遣うところも嫌いだ。メイラー家の女らしく、堂々と構えていればよいものを。怯えているわけでも、媚びているわけでもないのに。“龍”にあるまじき甘ったれた性格だと思う。
「食わせろと言われている。あなたは細い」
「食べる元気がありません」
システリアの当主からは、ニルチェニアに宣言されていた事以外のものも契約として言い渡されていた。まず、食べさせること。ルティカルからも言われたことだが、ニルチェニアは食が細い上に偏食だと聞いている。馬鹿な兄が甘やかすからこうなるんです、とはあの白い悪魔の言葉だ。本当かどうかはどうでも良い。
出来うる限りそばにいろ、とも言われた。ウォルター家からもこの娘に侍女がつけられているが、何かあったときに対処が出来ないからと。つまりは、体の良い護衛役だ。過保護に守られすぎだとも思った。特に何があるわけでもないのに。
「――甘ったれるな。与えられた役割をきちんとこなすのが今のおれの誇りだ」
吐き捨てるように言ってしまえば、ニルチェニアからは反論が無くなる。
儚そうに見えてこの娘は案外頑固で強かだった。それを知ったからこそ、従者の真似事くらいはしてやろうとも思ったのだが。
舌を噛みきって死ね、と言われたときはぞっとした。まさかそんなことを言うまい、と舐めてかかっていたせいでもある。過保護に育てられた令嬢ごときに、屈するつもりもなかったからだ。
信じていた誇りを傲慢だと切り捨てられたときに、この娘は確かにあのランテリウスの娘なのだと理解した。
だから、仕えてやるのも悪くはないのかもしれないと思った。
「おれに誇りを見せて見ろと言ったのはあなただろう、ニルチェニア」
「……そうでしたね。では、あなたが食事をとりたい時に食べに行きますか」
「勝手にしろ。引きずってでも連れて行くからな」
おれに出されるのは使用人用の食事ではなくて、ニルチェニアと同じ内容の食事だ。それを望んだのもこの小娘だと聞いて、同情されているようで、甘やかされているようで、酷く腹が立った。それと同時に、「許し続けることで苦痛を与える」というこの小娘の言葉を思い出した。
そちらがその気なら、その気が折れるまで付き合おうと思う。負けるわけにはいかないし、こんな小娘から逃げるわけにも行かない。売られた喧嘩なら最後まで買ってやる。
「引きずるのはやめて下さいね」
「知るか」
困ったように笑っている、この儚げな娘から「もう十分」の言葉を貰うまで、おれは。
あのランテリウスの残した娘に、仕え続けようと思う。
bkm