黙り込んでしまった青年を見れば、どちらに軍配が上がったのかは明白だ。
儚げな令嬢がここまで淡々と話し続けたのは驚きだが、よく考えれば一癖も二癖もあったランテリウスの娘である。それならば確かに一筋縄の令嬢ではないだろうとジェラルドは納得した。
「死なずに、貴方の誇りをわたくしにみせてほしいのです。どうか、わたしにあなたなりの誇りを見せて下さいませんか」
一転、声が随分と柔らかいものに変わる。優しい笑顔を浮かべたニルチェニアに青年は一瞬戸惑ったような顔をして、頭を垂れた。
ジェラルドの脳裏に、エリシアから聞いた話が浮かび上がる。
メイラー家としては末席の方で細々と暮らしていたエリシアの父と母が相次いで無くなり、幼かったエリシアは途方に暮れたという。生きていくにもどうしたら良いのかもわからず、末席の娘には誰も手をさしのべることはなかった。そこに手をさしのべたのが当時は当主になりたてだったランテリウスだ。エリシアを引き取り、息子のルティカル、娘のニルチェニアと同様に、実の子のように育ててくれたという。
数年後にエリシアがそれについて礼を述べれば、ランテリウスは照れたように笑って、当たり前のことをしただけだよとエリシアを抱きしめたという。
「当主はね、一族の全員に責任を持っている。一族の誰をも死なせないのは、救うのは――本家の、当主の役目なんだよ。当主は家の主。一族の主だからね。“死なせない”。それこそが誇りなのだと、私は思っている」
だから気にしなくて良い。伸び伸びと育ってくれたらいいんだ。
エリシアはそれを大切な思い出だと語ってくれた。軍部での良くも悪くも破天荒なランテリウスしか知らなかったジェラルドは、それを聞いて驚いたものだ。
――ニルチェニアもそうなのではないだろうか。
青年を死なせないために、わざと死になさいと言う。見下していた娘からそんなことを言われて、死ぬような奴はメイラー家にはいない。
一族に一族として認められていなくても、ニルチェニアは先代当主の娘として、また、現当主の妹として、一族に責任を持っているのだろう。ランテリウスの教えは、正しく子供たちに受け継がれている。
「では、彼が大人しくなったところで話を進めましょう」
相変わらず、淡々とした声だ。ちらりとソルセリルがニルチェニアを見て、それから頭を垂れたまま突っ立っている青年を指さした。ニルチェニアには見えていないのは明白だから、これは多分、リピチアやジェラルド、ルティカルへの“話を進めても良いか”という合図だ。三人とも、大人しく頷いた。
「流石に、僕も何もせずにこの青年をニルチェニア嬢のもとにやろうとは考えていません。元が元です、何が起こるかわからない」
遠慮のない言葉だが、誰も口を挟もうとはしなかった。
「よって、僕と彼との間にいくつかの契約をした後にニルチェニア嬢に身柄を引き渡すこととなるので――了承を願いたい。良いですね?」
「はい。メイラー家にとって不利な条件でなければ」
「結構」
ふ、と楽しげに笑ったソルセリルは、懐から一枚紙を取り出す。何事かが書き連ねてあるそれを朗々と読み出した。
それが青年とソルセリルの間に交わされた“契約”であることは明白だ。
「ひとつ、クルス・メイラーはニルチェニア・メイラーに危害を加えないこと。ひとつ、クルス・メイラーはニルチェニア・メイラーの身代わりを一度引き受けるものとする。ひとつ、クルス・メイラーはニルチェニア・メイラーに隷属する。ひとつ、クルス・メイラーはニルチェニア・メイラーまたはソルセリル・システリアの同意なしにこの隷属を取り消せないものとする」
隷属、と言う言葉にニルチェニアはぴくりと眉を動かしたが、口を開くことはなかった。ソルセリルが読み上げた時点で、この契約は彼以外には取り消せない。
ヴァルキリー相手に契約を交わすとはそう言うことだ。何よりも清く潔白なヴァルキリーと交わす契約は、ほかのそれに比べて強制力が強い。契約の言霊は見えぬ鎖となって、青年を契約に縛り付けているのだろう。
「契約の再確認は以上です。では、クルス・メイラー。ニルチェニア・メイラーに隷属の意思を示して下さい。僕はそれをもってニルチェニア嬢に身柄を引き渡します」
面倒だった、という顔を隠そうともせずにソルセリルが長い足を組む。視線でソルセリルに追い立てられた青年――クルスは、ニルチェニアの元へと歩み寄る。ニルチェニアの側にいた侍女があからさまに嫌そうな顔をした。
クルスがニルチェニアの足下へと跪く。音で感じ取ったのだろうか、ニルチェニアがびくりと身体を震わせた。
足下へと跪くクルスは、ニルチェニアの左足を少しだけ持ち上げる。ちょうどクルスの顎下あたりのいちで持ち上げるのをやめて、クルスは足の甲に唇を落とした。何が起こったのか理解したニルチェニアが、ひっと息をのむ。驚いたせいで振り上げられてしまったニルチェニアの左足が、クルスの鼻先を強かに打った。クルスが呻く。ニルチェニアは慌て、椅子から転がり落ちそうになっていた。侍女が咄嗟にそれを支える。
「くっ」
一人肩を震わせて、笑いを噛み堪えていたのはソルセリルである。まさか貴様これを狙っていたのでは――と疑い深い目を向けたルティカルに、「それでは僕はこれで」と愉快そうな顔をして出て行った。
「だ、大丈夫ですか!?」
「うるさい! 平気だこれぐらい!」
「で、でも鼻だったでしょう、血は? 血は出ていませんか?」
「出てない! 騒ぐな!」
赤くなった鼻を手で押さえ、涙目になりながらもクルスは強がった。あれは痛いですよねとリピチアは淡々と述べている。
一瞬にして滅茶苦茶になった部屋の騒ぎぶりに、ジェラルドは半笑いを浮かべていた。
――まさかあの男、本当に引っかき回すために来たんじゃあるまいか。
やりかねない、という結論に陥ってから、ジェラルドはさっさと立ち上がったクルスに近づき、にっこりと笑う。
「白玉卿とも契約は交わしたみたいだが――俺ともきっちり約束しろよ。ニルチェニアに危害を加えたら、まずこの家じゃ生きていけねェからな」
ニルチェニアには聞こえない距離で、低く囁いたそれにクルスがびくっと怯える。リピチアもにこにこと笑いながら、それでもクルスに向ける眼差しは冷めている。
神妙に頷いたクルスに、「それならこれからよろしくな」とポンと肩をたたいたジェラルドは、未だに慌てているニルチェニアに苦笑いを浮かべながら「平気そうだぜ」と声をかけた。
「鼻には当たったみたいだけどな。血は出てねェし、本人もけろっとしてる」
「――そ、そうですか……よかった」
ほっとした顔を見せたニルチェニアに、ルティカルがようやく口を開く。
「――大丈夫か」
「はい。私は何とも」
「そうか」
妹の頭を一度撫でて、ルティカルは優しく微笑んだ。
そんな兄の手のひらに小さな指を絡ませて、ありがとう、とニルチェニアが呟く。
「お忙しいのに」
「いや。まだそれほどじゃない。復興支援に回るのも仕事のうちだからな」
密やかにかわされたそれはリピチアにしか聞こえなかったけれど、特に気にとめなかった。それが後々に大事件を起こすことになるなんて、誰も知らない。
bkm