婚約、と口の中で呟いてから、ニルチェニアはきょとんとした顔をした。いきなりそんな話になったのが不思議でたまらないのだろう。つい先日までは家を出ていくか否かの押し問答を繰り広げていた兄の口から、まさかそんな言葉が出ようとは。
「婚約が決まったんだ」
ニルチェニアには兄の顔は見えない。一度として見えたことはない。けれど、その声はいつもニルチェニアを優しく見守ってくれるような気がするから、きっと優しい顔をしているのだろうとニルチェニアは思う。
その優しい声にありありと苦渋の響きを感じ、ニルチェニアは眉尻を下げた。
「――お兄さま、お気になさらないで。私は大丈夫ですから」
「しかし、だな」
「お兄様が望んだ方なのでしょう? 私のことは構わず、幸せになって下さい」
口元に弧を描く。両親が亡くなってからは唯一の心のより所だった兄が、自分の側からいなくなってしまうことは本当に悲しくてならないけれど、元々わがままを言える立場にないことも理解している。
自分の顔を見たことはない。けれど、この前の話で自分の瞳の色が他の人と違うことを知った。兄とも、両親とも異なる紫の瞳。兄はそれを美しいと言ってくれたけれど、この家にいる資格がないというのならそれは――
「いや、ニルチェニア――そうではない」
少し焦ったような声を出して、ニルチェニアの思考を優しい声が邪魔をした。え、と小さく漏れた声に「俺の婚約じゃないんだ」と困惑を乗せた声が返す。
「婚約が決まったのはお前だ――ニルチェニア」
え、と今度こそニルチェニアは大きく声を出してしまった。
「わ、私なのですか」
「ああ。――その、相手の方は俺の上官に当たる方でな、お前のことを相談したら、これが一番良いだろうと。もちろん、拒否権も君にある」
「こ、婚約って――私を、その人が貰って下さると云うこと?」
目も見えませんし御迷惑になるでしょうに。
呆然と呟いたニルチェニアに、ルティカルはそっと歩み寄る。ニルチェニアの座る椅子の足下に跪いて、ニルチェニアの手を取った。
「どうか、自分を卑下しないでほしい」
「で、でも、私は」
「ウォルター上官……お前の婚約者になる方がニルチェニア、ほかならないお前を望んだんだ」
「ウォルター様……ウォルター家の方ですか?」
「ああ」
ウォルター家といえば、メイラー家と同じ七大貴族のひとつだ。急にそんな話が降って湧いたことに、戸惑いを隠し切れていないニルチェニアを落ち着かせるように、ルティカルはその白く小さな手のひらを握る。
歳の離れた妹の手のひらはいつもいつも小さくて、ルティカルのてのひらにはすっぽりと収まってしまう。細いゆびも柔らかな手のひらも、どんなに成長してもルティカルの手には小さくて儚かった。
「ウォルター家の次男、ジェラルド殿が君の婚約者になる。――私の上官にあたるひとなのだが、本当に面倒見も良く器の大きな方だ。君の瞳の話もしたし、メイラー家における話もした。――君を救いたいと、あの方は言って下さった」
――“メイラー家の狸爺どもも、ウォルター家と婚約結ぶ娘を追い出せやしねェだろ”
――“言っちゃなんだが、次男でもウォルター家の一員だしなァ……。メイラー家に並ぶ名門貴族のウォルター家の顔に泥なんか塗れねェだろうし――誇り高いというならなおさら、ウォルター家の顔に泥なんか塗れねェだろうよ”
至極あっさりと婚約しようと言いはなったジェラルドを思い出す。頭の回るジェラルドにしてはシンプルな答えであったし、それ以上のものはルティカルには思い浮かばなかった。
――“あ、もちろん、妹さんの希望があるならの話だけどな。無理矢理は良くねェ”
俺もお見合いさせられなくて丁度良いし、と頷いたジェラルドに、ああ確かにとルティカルもひっそり頷いてしまった。
何か問題があるわけでもないのにこの歳になるまで結婚しようともしてこなかったジェラルドだ。まわりもさぞ気をもんでいることだろう。それが通じるのは他ならぬ次男だからなのだろうが。ともあれ、利害は一致したのだ。ルティカルも知らぬ男の元に嫁がせるよりは信頼できる上官のジェラルドに嫁がせた方が安心だった。
――“でも俺としたって、純粋に助けてやりたいとも思うんだよ。ひでえ話だと思うしな”
見たことがなくても、お前の妹なら安心だろうし。
にこりと笑ったジェラルドは、頭を下げたままのルティカルに苦く笑って手を振ったのだ。そんなに感謝されるようなことはしてねェぞ、と。
「妹はやらん、くらいの展開を希望してたんだけどな」。そう言って笑ったジェラルドは、「話が纏まったら教えてくれ」と綺麗なウインクを一つして、「妹さんを護ってやれよ」とルティカルの背を叩いた。
本当にいい上官を持ったと思う。
この恩に報いねばとルティカルは決意し、ニルチェニアにことの顛末を詳しく話して聞かせた。
「そんな……とても嬉しい話」
「だから君に決めて貰いたいんだ。君は、どうしたい?」
臆病な聞き方だと思う。結局、最終判断を彼女に押しつけているのだから。
けれど、ルティカルはニルチェニアを傷つけたくはなかった。望まぬ結婚を押しつけて彼女の笑みが曇るのも、縁談の話を破棄して彼女が追い出されるのと。どちらも選べないから、本人に選んで貰うしかなかった。
「私は――」
ニルチェニアが柔らかく微笑んで、唇を動かす。
どこかほっとしたような表情に、ルティカルの心も凪いだ。
「その方の元へ。ジェラルド様の元へ、参りたいと思います」