覚める頭/兎狩り/震える兎
*覚める頭


「起きてるか?」

 兄代わりの青年に話しかけられて、エリシアは「ん、」と小さな声を漏らした。常に――戦場以外でなら――眠そうに半目しか開かないエリシアを、ルティカルは苦笑いで揶揄する。
 ルティカルの方もエリシアが起きていることなんてわかっているけれど、問わずにはいられないのだ。
 とろんと眠そうな青い瞳は、ルティカルではなく他の場所を見ている。

「だいじょうぶよ、おきてる……わ」
「それならいいんだがな――ほら、いくぞ」
「はあい。――いってきますね、ニルチェニア」

 エリシアの瞳の先にはすやすやと眠る白髪の少女がいる。その髪を一撫でしてから、エリシアはゆっくりと席を立つ。枕元に兎の大きなぬいぐるみをおくことも忘れない。
 ちょっとしたおまじないのような、お守りのようなものだ。

 ――どうか、良い夢を見られますように。

 夜中の召集は今に始まったことではないし、エリシアも特に気にしない。気にしていたらきりがないから。
 音も立てぬようにと寝室を辞して、エリシアは背の高いルティカルの隣をちょこちょこと歩く。
 
 寝室に寝かせたままのあの子は、目覚めたときに一人であることを泣くだろうか。普段気丈に振る舞うニルチェニアだから、休みの日ぐらい甘やかしてしまいたかったのに――こうして緊急で仕事が入るから、休みなんて無いようなものだ。
 
 眠そうな目とは裏腹に、エリシアの頭はすっきりと冴えている。
 今晩退治するべき相手をどう戒めてやろうかと考えながら、エリシアは長い銀の髪を一つに縛った。
 狩りの時間だ。


***


*兎狩り

「ほら、早く逃げて御覧」

 くすくすと笑いながら追い立てれば、もつれそうになる足を懸命に動かして走り出す少女。
 時折転ぶ姿が愛らしい。子供のようなそれ。立ち上がって走り出すのを待ちながら、またバトラーは微笑みを浮かべる。
 銀に見える白の髪がしゅるりと揺れて、少女の流した涙と共に宙を泳ぐ。
 狭い部屋の中を見えない瞳で懸命に逃げる少女は、時折部屋の調度品に体をぶつけていた。痛そうだなと思う反面、この愉快な“兎狩り”にぞくぞくしているのも事実だ。
 壁に当たらないようにと腕を前に伸ばし、こわごわと走る少女の背中をゆっくりと追いかけた。
 走る必要はない。自分はただ、ゆっくりと革靴の音を立てながら、一歩ずつ追いつめていけば良いだけだ。
 耳に入る靴の音にびくりと肩を跳ね上げる少女が、可愛らしくてたまらない。こつ、こつ、とわざと大きな音を立ててしまえば、少女は彼の思ったとおり、壁際に追いつめられてしまう。

「兎狩りはもうお仕舞い? おれが君を捕まえたら俺が君と遊んであげるって話は、忘れていないよね?」
「ば、ばとらー、さん」

 わざと遠くから距離をとって話しかけているけれど、少女――ニルチェニアの震えは大きい。令嬢らしい臆病さだと思う。儚いのは見た目だけではなかったのだろう。

 ――だからこそ、壊してやりたくなる。

 彼女を壊してしまえばきっと、あの男はバトラーを赦さないだろう。彼女と遊ぶついでにあの男に喧嘩を売れるなら――それは一石二鳥だ。二兎を追う者一兎も得ず、なんてことにはならない自信がある。
 こつり、と音を立てて近づいた。

 俯いたまま、ずるずると壁に沿ってニルチェニアが床にへたり込んだ。俯いてしまっているから顔は見えないけれど、きっと子供のような顔をして恐怖に震えているのだと思う。
 彼女は今、おれのことしか考えていない。そう思えば、薄暗い満足感がじわじわと心に染みていくのを感じ取ることが出来た。

「もうお仕舞いかい?」

 音も立てずに近寄って、俯いている顔を無理矢理あげさせる。開かれることのない瞼の端から、ころころと水滴が転がり落ちた。
 それを親指ですくい取ってから、ねえ、と声をかける。

「どうして泣いているんだい? そんな顔をしていると、悪い狼に食べられてしまうよ」

 唄うようにそう紡げば、ひくりと喉が震えたのがわかる。白く柔らかな頬に手を添え、残念だね、と紡げばいつもは穏やかな微笑みを浮かべる顔に恐怖の色。背筋がぞわりと粟立つのを感じて、バトラーは暗い笑みを浮かべる。

「どうして泣くの? おれは何も悪いことなんてしていないよ? 君が転んでも立ち上がるまで、ご丁寧に待つくらいさ。ねえ、どうして泣いているんだい」

 聞けば聞くほど、問いつめれば問いつめるほど。柔らかい曲線を描く頬に涙が転がり落ちて、頬に手を添えたままのバトラーの手の甲に落ちた。
 白い髪に指を絡めて、額に口づけを落として。

「捕まえた」

 ゲームオーバーを突きつけるように抱き締めてやれば、ほら。

 ――震える兎の出来上がり。


***

*震える兎

 何かから身を護るように、身体を丸めて眠る婚約者にジェラルドは面食らった。
 なんでここにこの子が。そう呟いたところで誰も返さない。
 ジェラルドの部屋の寝台に縮こまっているニルチェニアをのぞき込んで、ジェラルドは更にぎょっとした。泣いている。
 起こすべきか寝かせておくべきか。ジェラルドはしばし考えて、起こすことを選択した。

「――どうした」

 気の利いた一言を添えてやれればよかったのかもしれないが、そんな余裕はあいにくどこかに吹き飛んでいる。
 慰めるように背をとんとんと叩き、抱き起こして声をかけてやればニルチェニアの瞳からは涙が溢れた。

「……お兄様? お姉さま?」

 混乱しているらしい。そのどちらでもないんだ、悪いな――そうは思いながらも、「ジェラルドだ」と声をかければニルチェニアは縋るように、控えめにジェラルドにくっついてくる。
 普段から臆病そうな娘だとは思っていたけれど、ここまでおびえる姿を見たことはない。何事かと思いながらも、ちいさくて華奢な身体を胸に抱く。
 
「ジェラルド、さん」
「おう。厭な夢でも見たか」

 すっぽりと収まってしまう小さな身体は、力を込めて抱きしめたら壊れてしまいそうだ。ふう、と息をついて、ジェラルドは胸に顔を擦り寄せてくるニルチェニアの髪を撫でた。
 いつだったか、泣いている自分の顔を見られたことがあったけれど。その時はニルチェニアが穏やかに抱きしめてくれたから、自分もそうしてやりたいと思う。

「あ……あ、あの」
「どうした、遠慮せず言ってみろ」

 腰に手を回して、後頭部にも手をやって。恋人たちがやるような抱きしめ方かもしれないが、その実二人ともお互いに恋などはしていないのだから――すこし歪、なのだろうか。
 とっ、とっ、と小さく早く刻む鼓動に、ジェラルドは合わせるようにして背中を優しく叩く。

「あの、あのね、ジェラルドさん、わたし、バトラーさんを怒らせてしまったかも、しれなくってっ……」

 囁くような小さな声でニルチェニアは話し始める。

「ほお……あンの野郎……」

 バトラーに追いかけ回されたこと、酷く怖かったこと、自分は何か彼の気に障ることでもしてしまったのかという心配、それなら謝りたいという希望。涙とともなこぼされるそれに、ジェラルドは思わず低い声を出してしまった。びくっと跳ねる華奢な肩にやってしまったと舌打ちをしてしまったが、この際は見逃して欲しい。

 ニルチェニアの心配は杞憂だ。彼女は何一つ悪いことをしていないし、あの男は使い勝手が良い代わりに人として大切なモノをすべてひっくるめてどこかに捨ててきたような男だから。

 ――ニルチェニアの泣き顔が可愛くて、ニルチェニアの怯える顔が見たかったんだ。

 己が問いつめたところでそうとしか口にしないだろう。そこに浮かぶのが恍惚の表情であることくらい想像に難くない。
 あの変態め、と吐き捨ててから、ジェラルドはニルチェニアを落ち着かせることにした。

「ニルチェニア、君は何も悪くないし、誰かに謝らなきゃいけないこともねェから――だからそう、泣くな」
「で、でも」
「落ち着け。酷い目に遭わせちまったな、悪い。バトラーには君に近づかないようによく言っておく。――あいつな、すげえ悪趣味なんだよ。ニルチェちゃんみたいな子を見かけると泣かせたくなる……とかなんとか」
「ひっ」

 息をのんだニルチェニアに、ジェラルドはもう一度髪をなでた。

「俺は笑ってるニルチェちゃんの方が好きだからさ――だからほら、泣き止んでくれ」
「じぇ、ジェラルドさん」

 ちょっとからかいの意味も込めて耳にキスを落とせば、狙い通りにニルチェニアの頬が赤く染まる。

「もっかい寝とけ。厭だったこと全部忘れちまえ。で、起きたらルティとエリスとリピチアも呼んで、五人で晩餐にしよう」

 な、と宥めるように背を撫でて、ジェラルドはニルチェニアを寝台に転がした。何だが気恥ずかしくて少し気が引けたけれど、しっかり上掛けもかけてやってからぽんぽんと頭を撫でた。

「俺はここで書類整理してる。だから、安心して」

 おやすみ。

 そう声を落とせば、少し涙の滲んだ目でニルチェニアが微笑んだ。

「おやすみなさい」



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