甘美な毒
*二律背反の娘

 こん、と軽い音がして、王を模していた黒い駒が倒れる。王を討ち取ったのは白の駒。騎士の役目を与えられたそれは見事に役目を果たし、勝利を彼女にもたらした。

「――もう一度やりましょうか」
「……いや、いい」

 白い騎士の駒を、細い指先でつまみ上げた娘。
 つまらなさそうに微笑みながら、手のひらで娘はそれを転がす。チェスを持ちかけたのは娘の方だったが――なんとまあ、わがままなことか。もっとも、今に始まったことじゃないからレグルスも気にしない。

 白髪の娘は白の駒を操り、黒銀の髪を持つ男の――レグルスの黒い駒を見事に蹴散らした。優美で繊細そうな顔をした娘にしては、なかなかにエグい戦法だったと思う。見た目詐欺と言っても差し支えないこの娘なら、とりかねない戦法ではあったけれど。

 ――何で俺はここに。

 とある港町にある探偵事務所。《そこそこ有名な》マフィアのボスであるレグルスは、一般人であるはずの娘とチェスをしていた。娘に強請られるがままに。――否、強請られたわけではないだろう。「レグルスがチェスをしなければならないように」娘が仕向けただけだ。レグルスはそれに緩くからめ取られた。

 チェス盤をあっという間に片づけて、ここの探偵事務所の所長である娘は微笑む。微笑んでいるのに親しい空気は流れない。いつものことだ、なんの変わりもなく。
 だされた珈琲を飲みながら、レグルスは沈黙を守り続けていた。
 レグルスはどうもこの娘が――ニルチェニアが苦手だ。
 レグルスに考えを読ませない人間など、片手で足りるほどしかいない。その少ない人間の中で、一番苦手なのがこの娘だ。何しろ、彼女はレグルスの弱みを誰よりも知っている。

 他の人間に比べて遙かに色素が薄いと聞かされている彼女は、風が吹いたら折れてしまいそうな儚げな容姿を持っていたし、どこか深窓の令嬢じみている。
 菫色の瞳は不思議な色を灯し、日の光を知らぬような白い肌は神秘的。深く知れば知るほどのめり込んでしまいそうで、囚われてしまいそうで、レグルスにはそれが不気味だ。

 ――囚われるより捕らえるのが好きだ。

 瞼の裏に浮かぶ翠眼。あの翠の瞳は強気で真っ直ぐで、屈伏させてやりたくなるけれど――この娘は、ニルチェニアは違う。
 穏やかでありながら不穏なものを香らせる菫の瞳は、実体を持たないかのように朧気で、時折背筋の冷えるような光をともす。それは真っ直ぐでも強気でもない。絡めて堕とすような見せかけの優しさに溢れている。
 得体の知れないそのひかりは、屈伏させられようもない。実体のないものは膝をつかせることはできない。

 きっと、《彼女の意思で》彼女に魅入った者は、いつの間にか彼女の腕に堕ち――いつの間にか、絡め取られているのだろう。
 儚い蝶の姿を借りた老獪な蜘蛛。
 レグルスには、ニルチェニアはそういう存在だった。

「――なあ」
「何かしら」

 穏やかに、おっとりと返すニルチェニアの顔は深窓の令嬢だ。間違いない。

「何で俺をここに呼んだ?」
「――お暇でしょう?」

 私も暇でしたから、少し遊んで「貰おう」と思って。

 ――遊んで「やろう」の間違いじゃないのか。

 レグルスのその言葉に、にこり、と色のない笑みを見せる彼女は、艶やかに残虐な女王の顔を見せていた。

 暇だから、の一言でマフィアのボスを呼びつける一般人など、いて良いはずもない。
 一般人のくせに、《裏側》に一番近い一般人はこの娘以外にいないだろうとレグルスは考える。
 彼女を拾い育てた男が《裏側》の人間だったから、彼女はこうなったのだろうか――

 違うな、とレグルスは首を振った。
 きっと、これは彼女の性質だ。環境が拍車をかけたのは否めないだろうが、彼女にはもともとその素質があった。それだけのことなのだろう。

 例えば、レグルスは彼女の養父であるユーレを、スナイパーとして自分のファミリーに加えたい。
 何度となくそのアプローチをユーレ自身にかけているけれど、ユーレは「まっとうな娘がいるから」と裏側に戻ることを拒んだ。ユーレが一時、《裏側》で名を轟かせた狙撃手であることを知っていて、ニルチェニアはそれでも父だと慕っている。
 ニルチェニアはレグルスがユーレを引き戻そうと躍起になっているのを知っているから、こうしてレグルスをいいように扱う。

 ユーレはニルチェニアを娘として真っ当に愛している。娘にレグルスが危害を加えようものなら、ファミリー入りはおろか――レグルスはその身でニルチェニアへの狼藉の対価を支払わねばならないだろう。幾らレグルスが他の人間より丈夫であったとしても、頭部を迷い無く撃ち抜かれたらきっと死ぬ。死なぬにしたって『死ぬ』ほどの傷だ、きっと死ぬほど痛いに決まっている。そんなのはごめんだった。

 ニルチェニアはそれを知っていて、レグルスで遊んでいる。
 謎を解くことを至上の喜びとするニルチェニアからしてみれば、謎の多いレグルスは丁度良い玩具か何かだろう。だから、レグルスがニルチェニアの期待通りの動きをしている間は、レグルスはニルチェニアの機嫌をとり続けていられる。

 この美しい女王様のご機嫌を損ねたら、どうなることかレグルスは知らない。
 身内や親しい者には惜しみないほどの慈愛を向けるニルチェニアは、他人や疎ましい者にはいっそ清々しいほどに冷淡だ。

 優しさと残虐さ。配慮と無関心。慈愛と冷酷さ。背反する二つの要素を無理無く兼ね備える娘。
 二律背反の娘。矛盾だらけなのに矛盾を成り立たせる娘。

 一番の謎はこの娘だろうし、この娘は自分の謎を解こうとはしないだろう。

「ねえ、レグルスさん」
「何だ」

 砂糖菓子を舌先で転がすような甘さを持って呼ばれた自分の名は、死刑宣告を受けるかのように冷たい。
 彼女から愛を囁かれる男がいたとしたなら、そいつに会ってみたいとすら思う。この娘の白い頬を赤く染め、何の裏もなく穏やかに微笑ませる男がいたとしたなら、の話だが。

「ある一つの集合体を、完全に砕く方法は何があるかしら――例えば、国」
「国、か?」

 何故そんなことを問うのかとは問わない。
 そこに意味はないからだ。きっと、ニルチェニアはレグルスで遊びたいだけだから。

「貴方が王だとして。私が貴方の国に攻め込むとするでしょう?」

 先ほどのチェスの勝敗が浮かぶ。彼は鮮やかに負けた。

 チェスはそこで終わるわ。ニルチェニアは鮮やかに微笑む。毒を何滴も垂らしたような笑みだ。

「実際の戦争は終わらないわね。国を解体し、そこに息づく者たちを吸収したところで戦いはお仕舞い。私の国は肥大し、貴方の国は滅びる」
「――そうだな」
「でも、亡国の民はそう簡単に支配を受け入れるでしょうか?」
「受け入れないだろうな」

 ふふ、とニルチェニアが楽しそうに笑うから、その答えが正解であることをレグルスは知る。これは高度な謎かけだ。答えは《問われた内容》に即したものではない。ニルチェニアが望む《レグルス》に即したものでなくては。

「そうね。きっと受け入れない――なら、どうやって支配しましょうか」

 ことり、と傾げられた首。可愛らしいその仕草は、全く持ってこの雰囲気には似合わない。

「力ずく、は一番手っ取り早いが――それをお前は望まない」

 笑みが深められた。桜色の唇は魅惑的だが、そこにはどうしても毒があるようにしか思えない。
 口づけた瞬間に死ぬ。
 そんな雰囲気の娘。

「俺なら、言葉を奪う」
「言葉、ね。面白い解答。理由は?」
「意思の疎通を阻むため。いくら同士であれど、いくら同じ志を持とうと――意思の疎通が図れないなら、それは後々に大きなズレを生む。それが致命的であるのは明白。だろう? 人は言葉に縛られ、言葉にすがる生き物だ」

 そうね、とニルチェニアは可愛らしく微笑んだ。背筋が凍ったのは気のせいではないだろう。
 この答えは正解ではないが、誤答でもない。

「私ならね、文化を奪うわ。思い出を、習慣を、土地に根付く風習を奪う。知っていて? 言葉が違えども、同じ神を奉る者たちの団結は時に驚異だわ。でも、拠り所にしている神を奪えば、地に引きずり堕とせば、人は容易くその団結を失ってしまう。言葉も文化の一つね。【同じモノを持っている】、その意識は仲間を仲間たらしめる効果がある。そこから【同じモノ】を奪ってしまえば、そこにあるのは【同じモノ】で繋がれていた《個人》の《集合体》ではなく、《個人》のみが残る」
「成程な」
「貴方の《ファミリー》も似たようなものね?」

 優しく微笑んだニルチェニアに、レグルスは薄ら寒いものを感じる。何がいいたい、と口にすれば、チェスの結果、と返ってくる。

「王である貴方を倒せば、貴方の《ファミリー》は貴方という【同じモノ】を失うわ――ねえ、ところで」

 珈琲は美味しかった?

 そう問いながら、ニルチェニアは柔らかく微笑む。
 慈愛に満ちたような聖母の微笑み。
 その裏に隠されているのは死神の口付けだとレグルスは感じ取っている――だから、真っ先に珈琲の中身を疑った。

「――まさか、お前」
「冗談ですよ、そんなに怖い顔をなさらないで。……私が入れたのは白い粉。けれどそれは甘味をつけるためのお砂糖です。人を殺めるための毒など、一匙も。誓っても良いわ、貴方にね」

 毒のある微笑みを向けられて、レグルスは思わず舌を打った。

 彼女はレグルスで遊んでいる。
 きっとそれは、これからも変わらない。


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