ある春の夢
 日溜まりの中に存在する、大樹の影でうつらうつらと船をこぐ少女。
 屋敷の渡り廊下、大きな窓から見えるのはニルチェニアだろう。
 あの穢れを知らない白い髪に、儚さをはらんだ容姿の娘などそうそういるものではない。そもそも、ウォルター家の中庭で穏やかに午睡に微睡む娘は彼女くらいだろう。
 仕方ないなと優しい笑みを口元に浮かべ、ウォルター家の次男であるジェラルドは、自らの婚約者の元へと向かった。

 柔らかい春の日差しは、目の見えない彼女にも優しいものなのだろうか。生まれ持った色素が常人のそれより遙かに少なかった彼女は、いわゆるアルビノに近い。青く染まるはずだった瞳は血を透かして紫色だし、銀色だったはずの髪は銀を通り越して白い。肌だって雪と大差ないのでは、と思ってしまうほど白かった。その肌は日に当たれは、焼けて色が濃くなることもなく赤く腫れてしまう。
 日陰にいるならまだ安心、とジェラルドはニルチェニアに駆け寄って、その白い髪を手で梳いた。
 起こさないように慎重に抱き上げ、屋敷へと戻る。その間にも日陰を選択して通っているのは、ニルチェニアがジェラルドにとって大切な存在だからだ。

 けれど、婚約者とはいえ、ジェラルドはニルチェニアに恋愛感情は抱いていない。
 それは、ニルチェニアがジェラルドの部下であるルティカルの愛妹だからだ。ジェラルドは貴族の出には珍しく、このフロリア国の軍で少将をつとめている。
 ルティカルはそのフロリア軍中佐だ。有能で万能なこの部下を、ジェラルドはずいぶんと可愛がっていた。
 そのルティカルの愛妹がどうしてジェラルドの婚約者になったのかといえば、ややこしい事情が絡んでくる。

 ルティカルは有能な軍人を数多く輩出してきた「メイラー家」の出身だ。メイラー家は血と伝統を重んじる家柄で、その伝統のひとつに「メイラー家の者は皆銀の髪に青の瞳を持つべし」というものがある。
 つまりは、銀髪青目でなくてはメイラー家とは名乗れない。メイラー家に存在することすら許されないのだ。それは勿論、他の家から嫁入りする娘も例外ではない。

 運悪く紫色の瞳をもって産まれてしまったニルチェニアも、その伝統通りにメイラー家から追い出されることとなったのだが――それに悩んだルティカルが、ジェラルドに相談したことから、ニルチェニアがジェラルドの婚約者になることが決まった。

 どこだかわからない場所に捨て置かれるよりは、見知った者の家で保護された方が良いだろう、というジェラルドの提案だ。
 ウォルター家といえばメイラー家にも劣らぬ名門であるし、その家の次男とはいえ男児であるジェラルドに嫁入りできるとあるなら、そうやすやすとニルチェニアを捨てる訳にもいかなくなる。
 そこまで見越したジェラルドに、ルティカルは感謝しっぱなしだった。

 ――けれど、ルティカルは知らない。
 ニルチェニアを婚約者として迎え入れた理由が、「ニルチェニアを助ける」、それ以外にもあることを。


 屋敷まで運んだニルチェニアを、今度は自分の部屋へとジェラルドは連れてくる。ニルチェニアの部屋がどこだか知らないから。
 ニルチェニアの部屋の場所を知っているのは、世話係の娘たちだ。それから、世話係の娘たちに混じってニルチェニアを甘やかしているジェラルドの従兄弟のリピチアと――ニルチェニアの兄であるルティカルくらいだろうか。
 大切には思っていても、恋愛感情のない女性の部屋を知るのはなんだか気が引けて、ジェラルドはニルチェニアの部屋を知ろうとはしなかった。

 あの部屋は――“彼女と彼女を真っ当に愛する者”が知るべき聖域だ。
 
 自分の部屋に連れて来ても、やましい思いは一切ないし、今後もそんな気持ちを抱くことはないだろう。
 ジェラルドにとってニルチェニアとは、可愛い妹のような存在でこそあれ、恋をするような対象ではない。
 いくらニルチェニアが美しく、また魅力的な女性であれど、彼には心に決めた女性がいたのだから。


 そっと自らの寝台にニルチェニアをおろし、ジェラルドはふと息をつく。このところ、急務ばかりでろくに休めてなどいない。
 もうそろそろ歳か、と自虐的に笑ってから、ニルチェニアの頬にかかる髪を払いのけた。柔らかな頬は薔薇色に染まり、まるでお伽噺の眠り姫のようだ。
 シーツに広がった白い髪からはふんわりと花の香りが漂っていて、眠りにつくニルチェニアの顔はあどけない。
 すうすうと穏やかな寝息を立てていることに安心して、上下に微かに動いている豊かな胸を見て、また息をつく。

 ――この子は生きている。

 ジェラルドがニルチェニアを引き取った理由。
 

 彼は昔、恋人を亡くしている。
 彼の恋人であった娘の名はリラで、彼女はジェラルドより四歳ほど年上だった。月の光のような銀髪に、美しいリラの花のような紫色の瞳を持った彼女は、瞳の色から名前をとってリラと名付けられたのだという。

 穏やかで時には大胆だった彼女は、ウォルター家より一つ爵位の低い家柄の出だったけれど、リラの優しさや穏やかさ、時折見せる剛胆さに惚れ込んだジェラルドは、結婚をするのならリラだと――妻にするにはリラしかいないと決めていた。リラもそれを了承し、ジェラルドは彼女を護るために軍に所属することを決めて、頑張ってきたというのに。

 別れは随分とあっさりしていた。
 ある冬の日、彼女は暴走した馬車にひかれて死んだのだ。
 
 奇跡的というべきなのか、馬車にひかれたというのに彼女の顔には傷一つなく、まるで眠るかのように遺体が安置されていた部屋の寝台に横になっていたのを覚えている。

 ――丁度、この子のように。

 微かに上下する胸から目をそらし、ジェラルドは花の香りの漂う白い髪をすくい、さらりと寝台に落とす。滑らかでつっかかりのないそれからは、ラベンダーの香りがする。リラがよく身に纏っていたのは、確か花の香りではなくて――柑橘系のさわやかな香りだったはずだ。

 ――けれど、あの時は死の匂いがした。

 大佐になるまでは結婚はしないと決めた、中佐の頃の冬だった。

 最後にしたキスは冷たい死の匂いがして、髪から漂う柑橘系の香りが、首をかきむしりたくなるほど切なくて。
 もう動きもしないリラの体は、それでも息を呑むほどに美しかった。
 土に埋められる彼女の胸に、季節はずれのリラの花を抱かせて、ジェラルドは彼女を見送った。
 姉のようであり母のようであり、可愛い妹のような恋人だった。
 彼女以外に女はいらないと、そう言えるほどの恋人だった。

 ――それからは彼女の思い出から逃げるように、遊ぶことに時間を費やした。

 ジェラルドは、かつての真面目な青年とは打って変わって、どこかふざけた印象の、食えない軍人として軍に居続けることになった。リラを失った以上、この世に未練などなくて、でも死ぬ気にはなれなかったから。居場所はとうに無い気がしていた。自分が居たかった場所は軍でもウォルター家でもなくて、リラの隣だけだったのだから。

 けれど、リラの思い出から逃げれば逃げるほど、賭博、酒、女、煙草に安らぎを求めようとすればするほど、彼の中のリラは寂しそうに微笑んでこういうのだ。

 ――逃げるほど辛いなら、忘れてくれて良いのに。


 忘れられる訳がなかった。あれだけ愛した人を、簡単に忘れられるわけがなかった。だからジェラルドは気を紛らわせたくて遊ぶことに熱中しているふりをしていた。
 何をしたって満たされるわけはない。リラに代わるモノなんてこの世にありはしないのだから。
 大切な者を喪った痛みを、周りに知られたくなかったから、いらぬ心配などかけさせたくなかったから――彼は、飄々としてふざけた人間を演じることに決めた。

 転機はいつだったろう、と考えて、ジェラルドは眠るニルチェニアのすぐそば、ベッドの縁に腰掛ける。
 少なくとも、ニルチェニアに出会わなかったなら――こんな風に穏やかな日を知ることもなかったのではないだろうか。

 ルティカルに相談を持ちかけられて、ジェラルドがニルチェニアを引き受けると決めたのは、ニルチェニアの容姿が深く関わっている。
 リラの代わりにするようで申し訳なかったけれど、銀に見える白髪と、いつも閉じられているけれど綺麗な紫色らしい瞳は、“リラ”を思い起こさせるようで――懐かしかった。
 
 ニルチェニアが産まれたのがリラを喪った一月後、というのも何だか運命的だとすら思った。
 彼女はもしかして、リラの生まれ変わりではないのか。
 そんなことを思うこともあった。

 けれど、ニルチェニアと話せば話すほど、リラとは違う人間だというのがよくわかった。
 穏やかで優しいのは彼女と変わらない。けれど、剛胆ではないし繊細で、箱入り娘と言って良いほど無垢だった。
 
 “触れればすぐに壊れてしまいそうな砂糖菓子の娘”。従姉妹のリピチアがそんなふうに表現していたけれど、それは的確な比喩だろうとジェラルドは思った。
 そんな砂糖菓子の娘は、何も知らずにジェラルドに笑いかけるのだ。
 一時の気の迷いとはいえ、己の中に別の女を求めたジェラルドに、ひどく優しくやわらかに。

 そんな娘を、そんなニルチェニアを、リラでないからと拒否することはできなかったし、恋慕でないにしろ、愛おしく思い始めたのは事実だ。
 だからこそ、こうして面倒を見られる。
 盲目の彼女は人を頼らねば生きていけないし、ニルチェニアが今、一番頼りにしているのは、かりそめであれど婚約者であるジェラルドだろう。
 兄のルティカルはまだメイラー家にいるし、リピチアも屋敷を留守にすることは多い。彼女にとって、この屋敷で一番親しいのがジェラルドであることに彼は気づいていた。

 雪のように無垢で、菫のように美しい娘。
 
「君に幸あれ、ニルチェニア」

 ――今だけは俺の腕の中にいてくれ。

 いつか彼女が望む日が来たなら、彼はこの関係を解消しても良いと思っているし、彼女が望まないのならこのままでも構わない。ただ、彼女の兄とジェラルド自身が安心できるまでは、この屋敷にいてほしいとは思っている。
 もし、彼女が他に望む人間ができたのなら、その時は彼女に支援は惜しまないつもりだ。
 だって彼女はもう、ジェラルドの可愛い“ニルチェニア”だから。

 
***


 ひどく優しい手つきで、髪をさらさらと撫でるのは誰だ――。

 眠りの池に片足を突っ込んだまま、未だゆらゆらと揺れる意識。薄く片目をあけたジェラルドの視界に、優しく映り込んだのは銀髪の娘――。

「……リラ?」

 朧気に口にしたそれに、娘は返すことはしない。その代わりに優しい手つきでジェラルドの髪を撫で続ける。
 母のような、姉のような、どこか優しい手つきは、彼の愛した娘によく似ているけれど――彼女でないことなんて分かり切っている。

 寝ぼけてんな俺、と小さく呟いてから、ジェラルドは起き上がろうとして――小さくて白い手にそれを阻まれた。

「お疲れでしょう? もう少しお休みになって下さい、ジェラルドさん」

 未だ覚醒には至らない彼の顔を覗き込むように、白髪の娘が笑いかける。柔らかな手のひらで頭を撫でられて、ジェラルドはもう一度、眠りに落ちそうになった。

「――ニルチェちゃん?」
「ええ」

 羽を舞い上がらせるより、もっと優しい音がする。寝返りを打とうとして、ジェラルドは自らの頭がニルチェニアの膝にのっていたことに気がついた。
 どおりで柔らかいはずだ、と思ったあたりで目が覚める。
 
 ――自分はいつから寝ていたのだろうか。

 急務が立て続けに舞い込んだとはいえ、警戒心もなく他人の膝の上で眠りこけるとは何事か。軍人としてはあるまじきそれに、ジェラルドは小さく呻いた。

「大丈夫ですよ」
「……何が?」

 膝にのったままの、まだ何もわかっていないジェラルドの目元を、ニルチェニアの細い指が慎重に辿っていく。目が見えないからと言っても、ニルチェニアの指がジェラルドの瞳をつつくことはなかった。
 ジェラルドの目元からは、一筋、水が流れている。ニルチェニアに触れられて初めてわかったそれに、ジェラルドは顔を赤くした。

 ――泣きながら眠るなんて俺はガキか! 

 ニルチェニアの目が見えなくて幸いだったと、ジェラルドは一人赤くなって耐えた。年下の、しかも女性に泣き顔を見られるのは彼のプライドが許さないことではあるのだが。

「だいじょうぶですよ、ジェラルドさん」

 ニルチェニアはそう優しく呟いて、ジェラルドの頬を撫でる。
 普段は開かれない白い瞼が、柔らかに押し上げられて、菫色の瞳を覗かせていた。
 それはジェラルドの目をぴったりと見据えることはなかったけれど、その菫色がひどく優しくて、ジェラルドの目尻にまた熱い雫が伝う。

「だあれも、“見てません”から」

 再び閉じられた瞼は、菫色をかくして長い睫を伏せている。
 そっか、と小さく呟いて、ジェラルドは膝を貸すニルチェニアのスカートに、点々と涙の雫を落とした。白いスカートがぽつぼつと、色の濃い部分をつくっていく。

 ――ごめん。ごめん、リラ。君を護ってやれなくて。

「ジェラルドさんと、わたしだけの“夢”の話です」

 ――君によく似た子に助けられてるけど、どうか嫉妬しないでくれ。俺には君しかいないのだから。

「このことはだぁれも知りません。だって夢ですもの」

 ――愛してるよ、リラ。一生忘れてなんてやらないからな。

 ニルチェニアの手のひらは、変わらずジェラルドの鷲色の髪を撫で続けている。

「おやすみなさい、ジェラルドさん」

 優しい声が耳に届いて、幼子のようにジェラルドは体を丸める。
 


 ――春の日差しが届くジェラルドの部屋、子を慈しむような微笑みを浮かべながら、彼を見守る娘が一人。 
 

 
 


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