頬に口づけ
 本の上を滑る指先が、なんともいえぬ甘い光をともしている。
 それがどうにも気になって、青年はその手を取った。

 点字の本を指先でなぞっていた、青年の妻である女性は、するりとその手のひらを青年にとられて困惑を顔に浮かべる。 

 恐らく手を取ったのは、夫だろう。
 そう彼女は思った。目の見えない彼女には、それも定かではないのだけど。

 やわやわと揉むように手のひらに触れた後、壊れ物にでもふれるかのように、彼女の細い指にそっと青年の指が重なった。
 もちろん、彼女には見えていないし、彼の方もそれは理解している。だからこそ、最初に気づかせるように、手のひらをとったのだ。目の見えない彼女を驚かせないように。

 それはちゃんと、妻である彼女にも伝わっている。
 普段は少し意地悪で、泣きたくなることもあるけれど、彼は基本的に彼女には甘い。胸焼けしてしまうのではないか、なんて馬鹿なことが頭をよぎるくらいに、愛されている自覚が彼女にはあった。
 それも、自意識過剰とかそういったものではなく――彼と彼女を知る知人、友人の共通の見解だから、認めざるを得ない。恥ずかしいったらないのだけれど。
 
 青年が手に取った、彼女のしなやかな指の先、形の良い爪に乗せられていたのは甘い桃色の染料だ。とろりとした光を放つそれは、まるで彼女の指先が今の今まで、蜜にでも浸されていたのではないか、と思わせるほどの艶やかさ。

 実際に蜜に浸されていたのかと確かめるわけではないが、妙に気になって、青年はその指先を口に含んだ。

「え、ちょ、ちょっと……」

 困惑というよりは混乱している妻を軽くいなし、青年はその指先に舌を這わせる。甘くもないが、苦くもない。
 彼の口の中よりも低い温度の彼女の指に、熱を分け与えるように三往復。みるみるうちに赤く頬を染めていく女性に吹き出して、彼はその爪の先に小さくリップノイズを響かせた。

「なんて顔してるの?」

 林檎より赤くなっているよ、とにやりとわらった青年に、誰のせいよ、と女性も膨れる。
 膨れるとますます林檎だ、と愉快そうに笑った彼に、彼女はそっぽを向いた。

「爪、誰が塗ったの?」

 きれいに塗られたそれを、指先で一つ一つなぞっていく。しげしげと見つめながらの一言に、彼女は少し困った顔をした。
 女性には視力がなくなってしまったから、爪に色を乗せる、などという芸当はできない。
 やってくれた人は分かり切っているのだけれど、彼女は夫が少々独占欲が強いことを知っている。
 指先に舌を這わせるなんて真似をいきなりしでかしたのも、「爪を彩った第三者」に嫉妬してのことだというのは明白だ。
 そんななかで、告げても良いのかどうか。

「どなたかは──その、怒らないで下さいね? ネリィさんが。“魔法をかけてあげるわ”と」
「ネリィか」

 結局は嘘をつくのもなんだか嫌で、彼女は夫に正直に告げる。夫から返ってきた反応は意外にも淡泊で、別にどうでも良いと言った様子だ。ネリィが彼もよく知る近所の娘だったのが大きいだろう。これが男だったら、彼女の夫は笑顔でその男の家に殴り込みに行くくらいはしかねない。全く危険なことに。

「……魔法、か」

 彼女を気にかける近所の娘の名前が出てきたことに、彼はほっとした。最近やたらとせっつかれることが多かったから、青年には簡単に想像がついた。
 ネリィはやたらと彼と妻の仲を良い物にしようと躍起になっているみたいだが、夫婦関係を結んだ時点でお互いにベタぼれであることには気付かなかったのだろうか。
 自分で言うのも間抜けだが、彼は妻に骨抜きにされている自信があるし、妻を骨抜きにしている自信もある。

 ――大体、魔法って何だ。マニキュアが魔法になるとでもいうのか。

 随分とお手軽な魔法だな、とは思わないでもなかったが、事実、魔法にかけられたようにその指に引き寄せられたのだから、青年としては苦く笑うほか無い。
 男にしては細く、けれど無骨さを残す指を、しなやかな彼女のそれに絡めて、彼女の赤い顔を自分の胸に押しつけた。

「今度は俺が塗ってやろうか?」

 耳元で甘く囁けば、彼女はさらに顔を赤くしながらそれを断る。
 可愛いなあ、と頬をゆるませながら、青年は愛しい妻の頬に口づけを落とした。


 



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