目の前でしゅるしゅると伸びていく蔦、茨、増え続ける葉。
“彼”が求めているものから“それ”を護るようにして、植物はうねり、獣だったら歯をむき出して唸っているような――そんな雰囲気を漂わせた。
「――邪魔をする気か」
「結果的には、そうなりますね」
春の日溜まりのように穏やかな笑みを浮かべて、銀髪の女が柔らかく囀る。青い瞳は何にも揺れることはなく、静かに黒銀の髪の男を見つめていた。
二人の間に吹き抜けるのは、花の香りを含んだ春風。
女の長いスカートを揺らして、春風は二人の頬を撫でていく。
「“一般人”の貴女を殺めようとは思わない」
だからそこをどけ、と男は淡々と告げる。
「――どうかしら」
怯えることもなく女は首を傾げた。
この場の空気にはそぐわない可愛らしい仕草に、一瞬だけ毒気を抜かれる。
出来ることなら別の形で出会いたかった、と呟いた男に、どうして、と女はまたも首を傾げる。
“魔女”とあだ名されるには、あまりにも清廉に見える。女が何枚もの仮面をつけることなど“彼”はよくわかっていたが、この女は仮面を付けているのだろうか。
演技だとするならたいしたものだろう。“彼”には、まだ彼女が何であるか“解析”できていない。
「そうだな――貴女とは、ゆっくり食事が出来る場所で会いたかった」
存分に口説ける。
そう口にした“彼”に、“女”はゆったりと笑う。
それがどこかで見た誰かの笑みにそっくりだった気がして、“彼”は巧く働かない頭をふった。
――どうして今日に限って。
これほどまでに頭が働かなかった日などない。目の前の人物、事象に解析を加えようとしても、頭がそれを拒否するかのように重く、鈍くなるだけだ。おかしいと思ったところで、それが手遅れであることを“彼”は知らない。
「リピチア・ウォルターはここにいるんだろう? エリシア・フロレンシア――いや、“エリシア・メイラー”?」
「いいえ」
エリシアは柔らかく微笑んで、指揮棒を操るかのように白手袋に包まれた細い指を振った。その動きにつられるかのように、植物がゆらりと揺れ始める。
「ここには誰もいないわ」
銀の髪が風にそよいだ。
「ここには貴方の求める人間は誰もいない」
女の微笑みがひどく、やさしい。
伏せた目の瞼を彩る、繊細なレースのような銀のまつげが美しかった。
「ここにはね、リピチア・ウォルターもエリシア・メイラーも存在しないわ」
女の瞳が開かれる。
その瞳は、花のような――菫色に染まっている。
「お前は――」
「お久しぶりです、“レグルス・イリチオーネ”さん?」
男の青い目をまっすぐに見据え、穏やかに笑ったのは知り合いの娘だ。
名を――
「ニルチェニア・ノーネイム」
にっこりと笑った娘は、そう言った。よく知るその名に、普段は動かされることのない男の表情筋が動く。目を丸くした。
何故君がここに、と呆然として呟くレグルスに、ニルチェニアは淡く笑う。リピチアさんもエリシアさんも、私の知人ですから、と紡ぐ桜色の唇には、かつての彼女にはない色がある。
昔のニルチェニアは、こんな風に微笑んだりはしなかった。
柔らかい雰囲気など持とうともしない、冷たくとがった幼い娘だった。父親のユーレにしか懐かないような、気難しく、凛とした子猫のような娘だったのに。
「やめてくれ、俺は本当に君だけは傷つけたくないんだ」
「ユーレさんの不興を買うから?」
無邪気に微笑んで首を傾げるニルチェニアは、不思議な雰囲気を纏っている。
その通りだ、よくわかっているじゃないかとレグルスは大真面目に頷いた。
かねてより自分の組織に加わるようにとアプローチをかけている、凄腕のスナイパーの娘がこのニルチェニアだ。
あの男は血のつながらないこの娘を、目に入れても痛くないほど溺愛している。そんな娘を傷つけでもすれば、組織に引き込めないのは明白だし、最悪、レグルスはこの身をもってニルチェニアへの狼藉を償わなくてはならなくなる。
人より遙かに丈夫な体質に生まれつきはしたが――頭を撃ち抜かれてしまえば、レグルスとて死ぬ。
件のユーレ・ノーネイムは、ヘッドショットキルを得意としていたから――分が悪いのは明白だ。
「ね、レグルスさん」
甘えたような声を出して、ニルチェニアはレグルスへと近付く。その微笑みが必要以上に彼を揺らすものだとレグルスは知っている。
ニルチェニアはそれを知っているから――やっている。
「今日はもう帰ってくれますか?」
父親に甘えるように、兄に甘えるように。
抱擁を求めるようにレグルスの背に腕を回し、ニルチェニアは上目遣いにレグルスをみやる。
ユーレがニルチェニアの父なら、レグルスはニルチェニアの何なのだろう。
レグルスにはそれがいつもわからない。
ニルチェニアはいつも掴み所がなくて、けれどあのユーレによく懐いている。ユーレの前でだけは実体を持つような――亡霊のような、不可思議な娘だった。
ニルチェニアはレグルスの身分を、所属している組織を知っている。
レグルスがあの「ルポーネファミリー」の頭だと、裏社会で“イル・ルポーネ”と呼ばれ恐れられる男だと知っている。
それなのに、ニルチェニアはユーレに接するときと同じようにレグルスに接してくる。
レグルスの手がどれほど血に塗れていても気にしない、というかのように。
それは彼女の父親がレグルスと同じ穴の狢であるせいだろうか。
きっと違うと、レグルスは信じている。
ニルチェニアはきっと――“本質的なものしか見ていない”。
いくら手が血に塗れていようと、あまたの人を殺めようと。
いくら美しい手を持っていようと、あまたの人を救おうと。
ニルチェニアにはそんなことは関係ないのだろう。
“自分を楽しませてくれそうだから”ニルチェニアはレグルスとまだ関わりを持っている。
レグルスがニルチェニアの期待にそぐわなくなれば、ニルチェニアが抱く“レグルスの謎”を、彼女が全て解き明かしたなら。ニルチェニアはレグルスを簡単に手放すだろう。
ニルチェニアは微笑んだまま、レグルスの瞳を見つめている。その美しい菫色の瞳に得体の知れないものを感じて、レグルスは肌を粟立てた。
「――それを知ってなお、お前につきあう俺はバカなんだろうな」
「ふふ。……レグルスさんは優しいだけ」
「お前は悪い子だな、ニルチェニア」
日に当たらないような白さの頬に手のひらを滑らせても、ニルチェニアは表情を変えはしない。普通の娘であれば、頬の一つくらい染めても良さそうなものなのに。
「――何故あの二人を庇う?」
「答えはもう、でているのではなくて?」
目をゆっくりと微笑む娘は美しい。
この家に住んでいるはずの“魔女”より、よほど魔女だとも思った。
「お前はまだ、あの二人の“謎”を解き明かしてはいないのか」
「――ふふ」
「もう一つ問おう。お前は“魔女”ではないだろう? ――なぜ植物を操れる?」
ニルチェニアはやんわりと微笑んで、レグルスから身体を離した。重力なんて感じさせないような軽い動きでくるりと舞えば、空気を含んだ白いスカートがふうわりと膨らむ。
「私がエリシアお姉さまと仲が良いから」
悪戯っぽく笑ったニルチェニアに、親しげに植物の蔦が絡みつく。
「――お前の【変化】は、色までは変えられなかっただろう?」
「質問は一つではなかったの?」
「この際忘れろ」
「仕方のない人。……青い色をね、【補填】してもらいました」
「《ツォッタ》も一枚噛んでるってか」
私がそうしてくれと、頼んだの。
また美しいわらいを浮かべて、銀髪の娘はレグルスの視界で淡く存在している。
「――しばらくみないうちに美人になったじゃないか」
背筋が凍るほどの、得体の知れない美しさを持ったように、レグルスには見える。
ニルチェニアは穏やかさと柔らかさを手に入れたのかもしれないが――それは同時に、彼女の中にあるなにかを目覚めさせたのではないだろうか。
一瞬、ニルチェニアの瞳が青く輝いた気がした。
ニルチェニアの顔で、優しく残酷に微笑む娘を見た気がした。
娘の桜色の唇がゆるりと動く。
「――知ってるわ」