花の龍の住むところ
――深い翠の森の中、白銀の龍の眠る場所。
「やあお姉さん!」
今年もきたのかい、とにこにこと笑う出店のおじさんに、銀髪の女性は嬉しそうにはにかんだ。はい、と転がり出た言葉には、どこか照れたような響きがある。
銀髪の女性から何枚かの硬貨を受け取って、出店の店主は花の蜜で甘みをつけた“花紅茶”を手渡した。
茶葉ならぬ茶花――ある花の赤い花びらを乾燥させたもの――に熱湯を注げば、淡い桜色の湯が出来上がる。それに同じ花からとれた密を垂らせば、“花紅茶”のできあがり。
春色のそれは、この時期にしか楽しめないものだ。
「花祭りだからねえ。遠くから人も来る。お姉さんは今年も一人なのかい?」
「――ええ。ふふ、一番来たい人とは、何度も来ていますから」
今年も都合があわなくて、一緒にはこられなかったのです、と少し寂しそうに微笑んだ女性に、「来年は一緒においで」と店主は微笑む。
毎年、この“花祭り”の時期だけにくるこの女性を、店主はよく覚えていた。柔らかな目尻は優しそうな女性の雰囲気をよくあらわしていて、その銀の髪は顔の左半分を覆っていたけれど、それでも陰気さはなかった。
「“龍の目覚めの頃”だ、――花もよく咲く」
「――“龍の目覚め”。……そうですねえ」
“花祭り”は、この地方に伝わる伝承に基づいた祭りだ。
この町の東の方、緑の深い森の中に住んでいる白い龍が目覚めると、この地には春が訪れるという。白い龍は“花の龍”と呼ばれ、春夏秋と花を咲かし、冬はまた来年の春に向けて眠りにつく。龍が眠り、その瞳から涙がこぼれれば、その涙は“空に咲く花”――雪となって、この大地を包み込み、眠りに誘う。
龍の目覚め、つまりは春を祝って、花の咲き誇る大地に感謝しながら催されるのが“花祭り”で、フロリア地方の祭りとしてはかなり大々的なものだった。国内、国外からも観光客が訪れるほどだ。
「今年は龍の目覚めも良かったのかもしんねえなあ、花が咲くわ咲くわ。一面花畑で華やかなこっちゃ」
「……そ、そうですね……! きっと、良い夢を見ていたのでしょう」
何故か赤くなった女性に首を傾げながら、店主は「そういえば」と女性の顔をまじまじとみつめる。
「お姉さん、色が龍にそっくりだ。――銀髪に青い眼。……春に好かれてるのかもしんねえなあ」
きっと今日は良いことがある、と笑った店主に、彼女はにこりと笑った。
「案外、“花の龍”も人に化けてお祭りを楽しんでいるかもしれませんね」
「だと良いな。龍も楽しんでくれりゃ、俺たちも嬉しいや」
その後も二言三言と言葉を交わし、女性はふらりと人ごみへ紛れる。一瞬だけ髪に覆われた頬に、鱗のような模様を見つけて、店主はくすくすと笑った。
「こりゃ、本物の龍かもしんねえなあ」
***
「……楽しかった」
日が暮れた頃、緑の森が朱に染まり、花が一度閉じる頃。
銀髪の女性は花の咲く地面に直に座り込んで、落ちていく夕日に青い眼を染める。優しい風が吹いて、花をゆらして女性の頬もくすぐっていく。風がめくりあげた銀髪の下には鱗のような模様があった。
ふと眼を閉じた女性が、もやに包まれたようにぼんやりとゆらぐ。
一陣の風が吹いて、女性が、再び目を開けた頃には、女性はひとのかたちをしていなかった。
優美に延びた翼は鱗におおわれたもので、その翼がついているのは――すずらんのようにしろい龍の体だ。
なめらかな曲線を描く背に延びる翼が閉じられて、龍は幸せそうにその青い瞳を細めた。
――あの人とのことを。
幸せ。毎日が思い出に残っている。
少し意地悪をされることもあったけれど、誰よりも愛してくれたひと。
誰よりも愛した人。
彼は最後まで添い遂げることが叶わないと悲しんでくれた。
――幸せ。
今は昔、彼女がひとだったころ。
愛した人はもう、この世にはいないけれど。
それでも構いはしない。本人がいないからといって、その愛まで消えたわけでなし。
エリシア、と彼女の名を呼んだ“彼”の声を思い出し、白い龍は照れたように顔を手で覆った。
――ハイドさん。
ちょっと口の中で名前をつぶやいてから、恥ずかしさに耐えきれずに、龍はぱたぱたと尾を振る。
尾を振る度に花が咲く。
花が咲く度春は来る。
春に溢れる花が、龍の幸せの形だと、ひとは知らなくても理解している。
だからこんなにも、春には喜びが溢れている。