閃く銀の刃は、靄の付きまとう悠斗の身体を――右肩から左膝までばっさりと切り裂いた。止める間もなかったその行動に、ヴェインが凛音の身体を引っ張り、悠斗から引き離そうとする。
「リンネ……君は、何を──」
「離して」
悠斗が本当に死ぬから。 するりとヴェインの腕をふりほどき、凛音は斬りつけた弟のもとに近寄る。切り裂かれた際に倒れた悠斗の身体は、少しずつ赤く染まっていたが──
「カウントが、消えてる……」
ぼんやりと呟くミシアに、フィリアが「そうね──」と凛音を見た。 凛音は倒れた弟の傍らに膝をつき、傷口に手を添えている。回復を試みているのは明白で、悠斗の傷口も塞がりつつあった。膝をついて弟に手を添えている少女の傍らには、血のついた短剣が転がっている。
「呪われた短剣《アンラッキー・ダガー》……」
小さく呟いたのはリリーで、凛音はそれに小さく頷く。 そうか、その手があったわね、とフィリアが感心したように頷いた。 事情が良く飲み込めていない悠斗には、フィリアが納得している理由も、姉が自分を切りつけた理由も全く分からない。
ただ、姉が自分に危害を加えようとして切りつけたのではないというのだけは、理解できていた。
悠斗の傷口をふさぎ終えた凛音は、「いきなりでごめんね」と悠斗の腕を取り、彼を立たせる。 いつもより元気の無い姉の笑顔が、妙に悠斗の脳裏に張り付いた。今まで見たことが無いような笑い方。
やはり自分が来る前に、相当に恐い目に遭ったのだろうな――と、悠斗は凛音の法衣の破れた肩口を見た。 こびり付いていた血の赤は、とうに酸化してどす黒い茶へと変わっている。紫紺の生地に目立つそれは、悠斗が思っていたよりも衝撃的だった。
「凛音、」
「ああ、うん、分かってる――えっとね、この呪われた短剣《アンラッキー・ダガー》 は、」
そうじゃない、と悠斗は口にしようとしてやめた。
――俺が聞きたいことはそんなことじゃなくて、凛音、お前は――。
けれど、姉がそれに触れられたくないから、不自然さの無い範囲で話題を切り替えたことぐらいは悠斗にも分かる。 だったら、黙るしかないのだということも、悠斗は知っていた。
姉が被るのは幾つもの“仮面”で、それは凛音が“凛音でいられるように”被るものだ。 何時でも前を進む姉は、涙を見せることを嫌う。 恐怖を人にてらい無く話すくせに、涙を見せようとはしない。 今凛音が被っている仮面は何だろう。 生まれたときから一緒にいる姉は、こんなときでも冷静なふりをしている。
――俺が頼りないから、お前は強がるのかな。
それがなんだか悔しくて、悠斗は唇をかみ締める。 いつだって道を切り開く姉の隣には――前を行く凛音の隣には――
悠斗は並べない、のだ。
「この短剣の特別付与《ギフト》はね、“良い効果も悪い効果も、【斬り付ける事によって】打ち消す”っていうものなの」
「……ああ、じゃあつまり――」
「そう。私は貴方を切りつけて効果を“打ち消した”の」
転がっていた短剣を拾い上げ、凛音は刃についた血を拭う。 悠斗とは顔を見合わせることも無く、凛音はそれを元の鞘へとしまった。
大丈夫か、と声をかけてくるヴェインに、悠斗は一つ頷いて、姉の背中を見つめる。 いつも見慣れている背中が、酷く小さく見えた。 戻りましょうか、というリリーの声が何処か遠くに聞こえる。
おかしいな、と思いながらも、悠斗は凛音から目を離した。
よくやった、と労うように肩を叩くヴェインに微笑もうとして、視界が揺れたのを感じる。 崩れた体勢を立て直すことも無く――悠斗は、再びその場に倒れた。
世界が薄暗く染まっていく中、凛音の蒼白な顔がやけに脳裏にこびりつく。
情けないなあ、俺――。
そう口の中で呟いても、誰の耳にも届かない。
「あー……?」
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、悠斗は自分が自室の寝台の上に横になっていることを知る。何故ここに、とぼんやりと考えてから、自分の身に起こった出来事を思い出した。
姉の肩口にべったりと付いた血。
真っ黒な待ち針のような、“屍の王”。
突き刺した頭は破裂して、黒い靄のような物が自分にまとわりついたのを覚えている。
「──あー……痛かったな」
一閃した銀の刃。
悠斗の肌を撫で、血を吹き出させた短剣の持ち主は自らの姉だ。
凛音が悠斗を切りつけたのは、他ならぬ悠斗のためだったのだけれど。
「そうだ、凛音──」
痛みはないが気だるさに顔をしかめて、悠斗は半身を寝台から起こす。
“首無し騎士の誇り≪デュラハン・ハート≫”。
悠斗が与えられた剣──刀の名だ。
戦場に赴く前に何度か試してみたのだが、この刀はどうやら、魔力を流すことによって攻撃力を高める物だったらしい。また、攻撃力を爆発的に高めるのには魔力以外にも“自分の体力”をするらしかった。“ギフト付き”には魔力以外の代償を必要とすることもあるのだと、フィリアが教えてくれたのを覚えている。
当然、体力を代償にするということは、その後の身体にかかる負担は──大きい。
だからこそ、それを調節できるようにと悠斗は指導を受けていたのだが──。
姉の傷を見たときに、すべてが頭から吹っ飛んだ。
──“彼奴を赦さない”。
怒りに身を任せて、“アレ”を滅ぼすためだけに放った一撃。刀の使い方としては間違っていたかもしれないが、力をかき集めて放った刀は、見事に屍の王の頭へと突き刺さった。
だからこそ、こんなにも身体がだるいのだが。
「いてて……」
いつまでも寝ているわけにもいかないと、身体を起こして、寝台から降りようとしたときに軋むような痛みが両足へと走った。
いわゆる筋肉痛、だ。
「あー……」
これもまた“ギフト付き”の影響なのだと知る。
悠斗が履いていた“死神の長靴≪タナトスブーツ≫”。これは、簡単に言ってしまえば移動速度を上げる装備だ。
けれど、移動速度が上がったからと言って、装備の使用者の身体能力が上がるわけではない。器に収まりきらない力は、どこかで必ず歪みを生むものだ。
今回は、悠斗の運動能力より装備の力が勝ってしまったから、こんなに酷い筋肉痛が起こったのだろう。運動不足ではなかったはずなんだけど、と頭をかいてから、隠居した老人のようにそろそろと立ち上がった。
「凛音、」
最後にみた姉の顔が、脳裏に絡みついて離れない。
あれほどまでに顔を白くしたところを、悠斗は見たことがなかったから、心配でしかなかった。
ああみえて姉は繊細だ。繊細さの裏返しで豪胆な行動に出ることが多いだけで。
時間をたっぷりとかけてから、悠斗は部屋の外へ出る。
与えられた自室は、“約束の塔”付近にあるエリュシオン兵の寄宿舎の中の一つだ。表向きは“異国からやってきたヴェインの弟子”だから、兵でなくとも寄宿舎にいるのはおかしくない──らしい。
この寄宿舎にいる兵は、和気藹々としていたが、その反面、“ヴェインの弟子”に対する興味を隠そうとはしなかった。
新学期にやってくる転校生に対する興味のようなものなのだろう、と悠斗は諦めている。往々にしてよくあることだ。あちらもこちらもそういうところは変わらないのだろう。
「おう、ユウト。具合はどうだ?」
「筋肉痛が酷い」
げんなりした悠斗の顔にけらけらと笑うのは、金髪がまぶしい青年悪魔だ。件の戦にも出陣し、屍の王の攻撃を受けたとも訊いている。
「筋肉痛か、まあそれくらいで済んだことをありがたく思えよ」
「……だな」
「そういえば、お前の姉に会ったよ」
「……戦場でか?」
「ああ。お前の姉に救われたよ」
「そう、か」
その姉に悠斗も救われている。
始めての戦場、けれどそれでも凛音は自分の役目を果たしたらしい。
マイペースな姉だからこそ、役目を果たせたのかもしれない。
青年悪魔は笑いを引っ込め、一転して真面目な顔になる。なあ、と青年悪魔は悠斗の目をまっすぐに見た。
「──そのお前の姉さんに……会いに行って貰えないか」
「え……?」
──あの日から自分の部屋に籠もりっぱなしなんだ。
眠り続ける弟に、部屋からでない姉。
リリーを始め、悠斗たちと深く関わった悪魔や魔女が二人を酷く心配しているのだと彼は語る。
特に姉の方はものも食べていないと聞いて、本格的にまずいのではないかと悠斗は顔を青くした。
あの姉は風邪を引いてもきっちり三食食べるし、大食らいとは行かないまでも、平均的な女子よりは食事量が多い。
その姉が食事をとらないとなると──ことの深刻さの程はかなりのものだ。
「……行ってくる」
「ああ、頼む。──リリー様は、慣れぬ戦場で負担をかけたのではないかと酷く心配しておられたが……俺には、別のところに原因がある気がしてならないんだ」
あの化け物を前にして、逃げなかった娘が戦場の不慣れごときで潰れるとは思えない、と青年悪魔は語ってから、悠斗を見て「すまない」とあわてた。
「お前の姉を侮辱しようと思って言ってるわけじゃないぞ?」
「分かってる。俺も同意見だから──ただ、何で凛音がそんなことになってるのか、その見当はつかない……」
でも原因は自分で考えてみる、と悠斗は悲鳴を上げる筋肉を叱咤しながら、姉に与えられた部屋へと向かう。
凛音に与えられた部屋は、悠斗とは違って塔の中にある。凛音は悠斗と同じ扱いで構わないと申し出たが、男ばかりの寄宿舎に少女を放り込むのは絶対にしたくない、とリリーやヴェインが口をそろえて言うものだから、凛音もその勢いには負けた感じだ。
「この国の兵はそんなことを起こさないとは思うが」とヴェインは苦い顔をし、「それでも万が一ということはありますから」とリリーがその後を引き継いだ。
悠斗とて、流石にそんな寄宿舎に姉をおこうとは思わなかったが、姉ならそれはそれで合っているような気もしてくるから──このあたりは感覚の違いだろう。そもそも、姉なら何があってもうまくすり抜けそうな気もする。
塔へと急ぎ、姉のいるはずの階層へと転移する。普段は気持ち悪くなる独特の感覚も、今は気にならない。それは悠斗が慣れたのか、それとも他に気にかかることがあるからなのか。
ドーナツのようにぐるりと円を描く廊下を走り、目的の部屋へ。
すれ違う人は少なかったが、誰もそんな悠斗を止めようとはしなかった。
姉の部屋はすぐに分かる。本来なら、似たようなドアが並んでいるから姉の部屋なんてわかりはしなかったのだろうけれど──
「なんだあれ」
ドアの前に、食事が浮かんでいる。元の世界で見かけたことがあるような、いわゆるそれはハンバーガーというやつだったのだが、そのハンバーガーがシャボン玉のような薄い玉に包まれながら浮いている。ラップみたいなものかなと考えてから、凛音が食事をとらない、という話を思い起こす。
これはつまり、今日も食事をしていないということだ。太陽の高さから言って、もう昼は回っているというのに。
浮くシャボン玉をそっと押しやり、悠斗は扉をノックする。
返事はないが、部屋の中で誰かが動く気配を感じる。
「凛音?」
声をかけても、声はかえってこなかった。もう一度ノックをしてから、「開けるよ」と言ってドアノブに悠斗は手をかける。がちゃん、と音がする。鍵はかかったままだ。
参ったな、と頭を掻いて、悠斗は「聞きたいことがあるんだけど」と少し大きく声を出す。
しばらく間が空き、答えはないものか、と悠斗があきらめたところで小さく声が返る。
「……ごめん、暫く一人にして」
「……いいけどさ、食事くらいとれよ」
シャボン玉浮いてんぞ。
なんと声をかければいいか分からず、悠斗は思わず見たままを告げてしまう。何を言ってるか分かんないだろうなあ、と言った本人ながら呆れていれば、くすりと笑いが返ってきた。
「寝ぼけてるの?」
「かもな。丁度起きたとこ」
「──そっか。……起きてよかったわ」
ごめんね。
何で謝るんだよと悠斗が突っ込めば、色々とね、と曖昧な答えが返ってくる。
「暫くしたらちゃんと顔を出すから──ご飯も食べる」
「うん」
「だからちょっと、もう少しだけ一人にして」
「うん。わかった。──後で会おう。多分、“職員室”にいると思う」
「うん。了解。──リリー達にはごめんなさいって言っておいて。後でまた、自分でも言うけど」
それに了承を返して、悠斗は“職員室”へと向かう。
“職員室”とは、悠斗たちがヴェインとリリーに初めて案内されたあの部屋だ。そのときに受けた印象をそのままに、二人の間ではあの部屋は“職員室”で通っている。
まずは自分が起きたことも伝えなきゃな、と悠斗はゆっくりと廊下を歩く。
──俺がもう少し強かったら。
あの凛音とて、死の恐怖に向かうのは精神的に疲れたのだろう。だからこそ、こうやって一人になって自分を落ち着けている。
──誰かの前だと、気を張るタイプだからなあ……。
見栄っ張りでもあるのかもしれないが、凛音は他人に弱いところを見せたがらない。だから疲れたときや精神的に参った時にはひとりで過ごすことを好む。今までで何度かはあったから、悠斗は今回もそれだと思いこんでいた。
──その勘違いが、後々に大きなすれ違いを産むことに気がつくのは、これからもっと後のことだ。
今の悠斗はそれを知らないし、またその可能性にも気がついていなかった。
bkm