最初に異変に気づいたのは、治療を施されていた青年悪魔だった。
彼は、凛音によって治された腕を曲げたり伸ばしたりしながら、ふいに首を傾げ、「なんか、なあ……」と声を漏らす。
凛音は、治療の具合でもおかしかったのだろうかと青年に声をかけた。
「おかしい所でもありましたか? ごめんなさい、まだこういう治療には慣れていなくて――」
「ん?ああ、治療はバッチリだよ。ありがとな。――いや、何かさぁ、変な空気を感じるなと思ってね」
そうかしらと凛音は首を傾げ、無駄かなあとは思いつつも耳をすませ、目を瞑る。
別に何が変、というわけでもないのではないか――凛音がそう思った瞬間に、凛音の中の魔力が騒ぎ始めた。まるで何かに対する警告かのような騒ぎぶりだが、生憎と初めての体験であったが故に、凛音はそれを警戒する前に狼狽えてしまう。
全身を鉛筆の先で軽くちくちくつつかれるような、何ともいえない不愉快さ。思い切り顔をしかめた凛音に、青年の方が「大丈夫かい」と気遣わしげに声をかけてきた。凛音はそれに肯定を返したが、不愉快な感覚は消えることなく、凛音は「確かに変」と言葉少なに青年に同意する。
ちょっと俺外見てくるよ、と立ち上がった青年に、凛音含め他の回復役を務めていた者達が気をつけてねと声をかけた。どうやら、皆変な空気には気付いてはいたらしい。ただ、感じた異和は凛音ほど大きなものではなく、気のせいかと思うほどだったのだ――と凛音は後に聞いているし、凛音ほどの異和を感じていたら誰も外には出なかったであろうことも聞いている。
青年の叫びがテント内にも響いたのは、彼が外に出てすぐのことだった。
「お前ら、全員逃げろッ!」
その言葉にテント内はざわめき、非戦闘員である回復専門の者は裏口から、治療を終えた一般兵は正面の入り口から、次々と外へ出ていく。勿論、青年の悲鳴の原因を探るため。
凛音とてそれは例外ではなく、突然の警告により混乱し始めた者達の間をすり抜けて、真っ直ぐにテントの出口へと向かう。
本来ならば凛音も他の者達と同じようにテントの裏口から逃げて、安全な場へ行くべきだったのだろう。けれど、凛音はそれが出来なかった。
治療を終えたばかりの体で、それでも他の者を逃がそうとした青年悪魔が気がかりでならなかった。ほんの少し話しただけの赤の他人ではあるが、凛音は彼の腕を治療し、彼は凛音に礼を言ったのだから。
「嘘っ……」
テントから飛び出した凛音の目に映ったのは――。
人が何人も倒れている。濃く香るのは鉄で、足下の短草を染めるのは赤くて少し粘り気のある、べったりとした、鉄臭い液体だ。
こみ上げる吐き気をこらえることは難しかった。
倒れた人、悪魔、魔女の胸には黒くうねったゴム状の何かが突き刺さっている。それを思わず目で追っていけば、黒く光沢のある布に身を包んだ、真っ黒なマネキンのようなものと目があった。
目があう、というのは少しおかしいかも知れないなと凛音は一瞬だけ思う。それに目はなく、鼻も口もなく、ただ人の頭に似た、丸くて細長い固まりが首の上に乗っていただけなのだから。
凛音の中で魔力がひどく暴れていた。体を突き破って逃げようとするかのように、 体を内側から突き刺して暴れ回っている。
「かばねの、おう……?」
誰に言われずとも凛音は察する。目の前にいる黒一色のこれこそが屍の王なのだと。
ざわりと肌が粟立つのは、それから発される死の匂いが余りにも強いからだろう。王と言うだけあって、他の屍兵や骸骨兵とは雰囲気も威圧感も全く違う。
「ばかっ、逃げろ……!」
あの、青年悪魔の声だった。はっとして声のする方に顔を向ければ、青年が息も絶え絶えに凛音に呻く。
その体も、粘り気のある赤に染まっている。
――どうすればいい?
初めて見る人生最悪の光景に、凛音の頭は真っ白になった。
逃げるべきだという自分の利己的な部分に、凛音は目を瞑る。
逃げられるだろうか? ――いいえ、きっと無理。実力差がありすぎる。
凛音は向こう見ずとも、無鉄砲とも、無茶をするとも弟の悠斗はよく言うが、それでも無茶をする対象を選んでいる、ということは知らないようだ。
凛音が無茶をするのは、楽しむとき、成功する確立のほうが高いとき、そして、諦めたときだけだ。
人とは死ぬ覚悟さえあれば、何でもやってのけてしまえる“イキモノ”だと輪廻は信じて疑っていない。だからこそ。
だからこそ、逃げ切れないのなら――いっそ。
――この人を助けなきゃ。
冷静な思考は吹っ飛び、凛音は血で赤く染まった青年に手を伸ばす。もう何も考えていなかった。もう何も考えられなかった。
凛音の頭には、それ以外何も浮かばなかった。
「にげ、ろって――」
伸ばした手が青年に触れるか触れないかのところで、青年の目が大きく見開かれる。あ、と凛音は小さく声を漏らす。伸ばしかけた腕がだらりと垂れ下がり、凛音の右頬を鋭い風が撫でる。ぺちゃん、と生温かい液体が張り付いた。
「あ、あああ」
掠れた声しか凛音の口からは出ない。それを見て目を見開いた青年悪魔の顔には、赤い液体が飛び散る。
あまりの痛みに凛音の体はそのままうつ伏せに倒れた。痛むと言うより赤く焼けた鉄を肩に押しつけられたような熱さを感じる。
凛音には見えなかったが、青年悪魔からは|少女《凛音》の右肩を、屍の王の黒い触手が突き破ったのが見えていた。
ゴム質の触手が気だるげにずるりと抜かれた直後に、彼を治療した少女は痛みで倒れる。掠れたような微かな声が、風に流され、吹き出た血潮が風にさらわれることもなく、水気のある音を立てて地に落ちた。
ばかやろう。かすれた声で青年が、行き場のない罵倒を漏らしたときだった。
「――リンネ!」
緊迫感はあっても、絶望感のない声。
|この国《エリュシオン》の希望の象徴である、少女の声。
それと共に、少し遠くのテントの中から、紺色のふわりとしたドレスの少女が躍り出たのを見届けたところで、青年悪魔の彼の意識は黒く染まった。
――だから逃げろって、いったのに。
*
隣のテントから、ざわざわとざわめきが聞こえた後、多数の悲鳴が上がったのを、リリーは聞き逃さなかった。兵の叫びと同時に彼女はテントから飛び出そうとしたが、治療中の魔女が苦しそうに呻いたのを見て、一度手を離した患部にまた手を添えなおす。
「いいです、リリー……早く行って」
「ごめんなさい、少し体に負担をかけてしまう」
治療を受け持っていた魔女の言葉に一瞬躊躇い、だめ押しのように白の魔力を流し込んでから、彼女はテントを飛び出した。
彼女が飛び出た瞬間に目にしたのは、異世界から来た、と名乗った少女の右肩に、黒い触手が突き刺さる、まさにその時。
ばたりと倒れ込んでいく少女の、顎あたりまでに切りそろえた短い髪が、持ち主を追うようにして、するりと宙を泳ぐ。たまらず少女の名前を叫んだが、少女は動く気配を見せなかった。
リリーは魔法で、足元に無数の蔦を這わせると、倒れている者の元へと一本一本伸ばしていく。触手によって体に空けられた穴に蔦を沿わせ、リリーは自分と怪我人の体を蔦を介して繋ぎ、傷口に魔力を流し込んでいった。
屍の王が暗闇を体現したような顔をリリーに向ける。リリーの中には死に魅入られるような恐怖はない。
だから、リリーはそれに怯むことなく一定のペースで白の魔力をそそぎ込む。蔦の一本一本に小さな白い花が咲いていった。
ふわりと香るそれは、リリーに染みついて消えない花の香りだ。
屍の王が口のない顔で唸る。暗闇の手がすっとリリーに向かって伸ばされた。
――くる。
多数の者を地に伏させた、死そのもののような黒い触手が、リリーに向かって伸ばされる。
槍のように尖った先端を彼女は認識しながらも、逃げようとはしなかった。
腹に二本、胸に一本、空気に縫い止めるようにして両腕に一本ずつ。右足の太股に二本刺さったのをリリーは感じたが、倒れることもなくそこに立っていた。
足元からは白い花がびっしりと咲いた蔦が伸ばされ、リリーは祈るように手を緩く組んで、指を絡ませている。
まっすぐに屍の王に視線を向ければ、一瞬だけそれは怯んだように見えた。
「|死なぬ者《私》は貴方には脅威でしょう」
――貴方は死者の王だから。
自らの支配下には|絶対に《・・・》おかれない者に恐怖を抱くのでしょうとリリーは静かに紡いだ。
ずるりずるりと抜けていく触手の後には白い光が満ち溢れ、リリーの体に空いた穴を一つずつ埋めていく。血は一滴も零れない。
視界の端で、倒れていた少女が上半身を起こしたのを見てリリーはゆっくりと笑った。
「リンネさん」
「あ、リリー……」
何か言いたそうな凛音にしい、と人差し指でリリーは唇を塞いだ。突っ走ってしまいたくなる時もあることくらい、リリーは理解している。
それも、こんなに若い少女なら仕方のないことだろう。痛い思いをしたのだから、今度から気をつければいい。
けれど、凛音が再びリリーに言葉を紡ぐより早く、凛音から白い靄のようなものが吹き出て、屍の王へ向かう。向かったそれを見て、リリーはほんの少しだけ焦った顔をした。
「|怨念の結晶《ファントム・リング》――」
凛音の|怨念の結晶《ファントム・リング》は、与えられたダメージに応じて、持ち主の敵にダメージを少しずつ与える呪いのかかった指輪だ。それは一見便利そうなものにも思えるが、ダメージを与え続けるということは、敵に持ち主の存在を意識させ続けるということでもある。
顔のない、黒い待ち針のような、ぬらりとした頭が、ゆっくりと凛音のほうに向く。
これは不味い、とリリーが舌を打とうとした時、一陣の風が凛音の前へと滑り込む。
黒い服を身に纏った、黒髪の男。
多数の屍を切り捨ててなお、その鋭い輝きを曇らせない剣を手に、紫の瞳が顔のない闇を睨む。
ヴェインさん、とちいさくリリーが呟けば、「すまない」とだけ男が返す。
「不手際を。貴女からは“二人を傷つけるな”との命を頂いた身であるのに」
「いえ――こちらの読みが甘すぎました。今は、この場の処理をお願いします」
「――言われずとも」
一つ頷いて、屍の王に向かっていく黒衣の騎士は、紫の瞳を緩く細める。
獣が獲物を見定めるようなその行為に、屍の王が反応した。
屍の王をひきつけるようにして、怪我人から遠ざかっていくヴェインと、それを追うようにして凛音から離れていく屍の王を確認し、リリーが凛音へと伸びる蔦を増やした。
白い花の咲く蔦は、凛音の体を包むようにして撒きついていく。白い光が凛音を包み込んだ頃、凛音は詰めていた息をふ、と吐き出した。
「ごめんなさい」
「謝るのは帰ってからね――ごめんなさい、本当に遅くなってしまったわ」
俯いた凛音に、フィリアが声をかける。何故ここに、と顔を上げた凛音に、「転移術で帰ってきたの」とフィリアは苦く笑った。
「二人も運んじゃったから、ほとんど魔力が残っていないのだけれど」
「二人?」
首を傾げた凛音に、クラドとヴェインよ、とフィリアが後ろを振り返る。派手にやられたな、とクラドが痛そうに顔をしかめていた。
法衣の肩口は破れているし、当然、その周りは血でべっとりだ。
ほんとに呪われてるんじゃねえかその装備、と漏らしたクラドの頭を、フィリアが無言ではたく。
凛音自身もうっすら思っただけに、今の言葉は胸に刺さった。
――それはいってほしくなかったかも。
ひくりと引きつった口元を見て、「少しは落ち着いたか?」とクラドがからかうように笑う。ヴェインがあの化け物と相対している今、そんな余裕は無いはずなのに、凛音は少し笑ってしまった。シャレにならないような気もするが、彼なりのジョークだったのだろう。
「ええ、大丈夫」
「ふーん? やっぱり肝据わってるよなァ、リンネ」
普通なら笑えやしねえよ、と妙な笑いを浮かべながらも、赤茶色の悪魔の青年は、リリーのほうへと向き直る。
|アイツ《・・・》はどうするのか、と問うクラドに、「現状はヴェインさんにお任せするしかなさそうですね」とリリーはさらりと答える。先ほどまで猛威を振るっていた相手を、酷くあっさりと一人に任せてしまったリリーに、凛音は目を丸くした。一人でどうにかなるような相手には、とてもではないが見えない。
確かに、初遭遇時にヴェインの攻撃も受けているし、魔力の制御訓練の際にも彼の“|武力行使《気付け》”を受けている凛音には、彼の戦闘術が高度なものであるというのは分かっている。それでなくとも、この国の“|建国者《王》”たるリリーの護衛を任されている騎士だ。強いことは分かっている。けれど――
「ヴェインさん、一人で平気なの?」
「平気……と言い切ることは出来ませんが、今のところ、屍の王を抑えておける実力を持っているのはあの人だけなんです。――フィリアさんは転移術で、クラドさんは屍兵の一掃の際に使用した、『炎の竜巻を生み出す術』で魔力が一時的に無いはずですし――何より、きっとお二人の魔法では屍の王を|倒してしまう《・・・・・・》」
「倒しては駄目なの? ――あ、捕まえて動機を吐かせるとか」
そうなるとヴェインさんやフィリアさんが拷問でもするのかしら、怖いわねぇ――などと考え、口にした凛音にクラドが「割とお前は悪魔よりの考え方だよな」と苦笑いをして、「もっと重要なことだよ」とフィリアに目配せをする。
「屍の王はね、ある意味で“死なない”のよ」
「どういうこと?」
「厳密には死ぬのだけど――屍の王を倒すとね、倒したものが次の屍の王と|なってしまう《・・・・・・》のよ」
つまり、とフィリアはいったん間をおき、クラドを指差す。
「今の“屍の王”がクラドだと仮定するわ。で、その|クラド《屍の王》を私が倒したとしましょう」
フィリアがクラドを突付けば、赤茶の髪の青年悪魔は、ううう、と芝居臭く呻くと、その場に膝を着く。少々オーバーリアクション気味だが、分かりやすくはあるのかしら、と凛音はそれを見ながら、フィリアの話に頷いた。
それを理解の合図として受け取ったフィリアが、膝を着くクラドの胸元にかかるホイッスルを手に取り、「これが呪いね」とホイッスルを指差す。例の、龍を呼び出したあの笛だ。
「屍の王を倒すとね、《呪い》が倒したものにかかるの。その呪いは、『対象者を屍の王にする』。――つまり、|クラド《屍の王》を倒した|フィリア《私》が、新しい屍の王になってしまうってことね」
ホイッスルを首元につけたフィリアが、「わかる?」と凛音に微笑む。もちろん、と凛音は答えて、「じゃあ誰が倒すの」と聞けば、「リリーしかいないのよ」とフィリアがあっさりと答えた。
「この呪い、一つだけ逃れられる|術《すべ》があるのよ。屍の王になるためには、まず|死ねること《・・・・・》が必要なの。屍の王になるのは死者のみだから。つまり――あら、もう気付いちゃった?」
だからこそ“屍”の王、なのだけれど、とフィリアは言うと、凛音の顔を見て、くすりと笑う。
「理解できないって顔ね。――ううん、信じられない、って顔かしら?」
死ねることが必要、という点、「逃れられる」という言葉。そして、「リリーしかいない」。
凛音の脳がはじき出した答えは酷くシンプルで明快だったが、凛音にはそれが信じられなかった。
けれど、先ほどまでの屍の王の攻撃に耐えていた|この少女《リリー》の姿、彼女が屍の王に語りかけた言葉、それらが合わされば、凛音が信じようとしなかった答えはますます強固なものへと変わってしまう。
「リリー、あなた、もしかして」
凛音の言葉に、リリーは淡く微笑んだ。それが肯定であることを凛音は理解したから、何も言わずに口を噤む。
多分、それはリリーにとって、何か大きな転機の象徴だったのだろう。それも、負の方向での転機。だからこそ、笑うだけで何も言わない。
「あなた――“死ねない”のね」
死|な《・》ないといわずに、死|ね《・》ないと凛音が小さく呟いたのは、リリーの微笑が寂しそうだったからだ。
“死なない”のは、ともすれば素晴らしいことなのかもしれないが、“死ねない”のは永遠の拷問だろう。死のうとしてもそれすら許されない、終わりの無い時を貪り続け、さまよい続ける苦痛。そんなものは、きっと|この少女《リリー》にしかわからない。
リリーはその問いかけに柔らかく微笑んで、「だからとどめは私が刺します」と静かに宣言をする。
「私は、皆さんとは違って、攻撃手段に秀でていないんです。だから、こうやって人を頼り、人を利用し、人を危険に晒して――自分の目的を達成する」
どこか戒めのような、呪詛の言葉だと凛音は思う。
「とは言うけどな、リリー? お前がいなきゃ、俺らは|アイツ《屍の王》を黄泉路に送れやしねえんだぜ? だったら、多少この身を危険に晒してでも、お前に利用されてやるよ」
そう卑下することもねえよ、“女王様”?
一瞬、慈しむような視線をリリーに向けて、クラドはその頭にぽんと手を置いた。
「あのなァ、少しは“跪いて足でもお舐め”くらい言えっての。国の指導者――建国者がそんなに卑屈じゃ、明るい国を創ろうたって創れねえだろ。もっと強気に出ろよ」
少なくとも俺の知ってる帝王学はもっと強気だった、とクラドが大真面目に頷けば、「悪魔の帝王学は強気を通り越して横暴だけれど」とフィリアがぼそりと呟く。
なんだか分かる気がする、とやたら攻撃的な悪魔の暴論を聞きながら、凛音は苦笑いを零した。
跪いて足をお舐め、ね。
違った意味での女王様だ。この世界にもそんな文化はあるのだろうかと考えそうになって、凛音は首を振った。なんだか和やかな空気が流れてしまったが、ここは一応戦場のど真ん中。いつ敵に襲われてもおかしくは無い。