傷つけるのと奪うのとではこんなにも違うものなのか。手にした刀の柄が、汗でぬるりと滑る。付けていた手袋を外してしまったことを少しだけ後悔した。
じわじわと足元の方から近寄ってくるこの薄暗い脱力感は一体何なのだろう。見たこともない光景を目の前にし、悠斗は自分の背に汗が流れ落ちていることを忘れていた。
広がる草原は、朱にぬれている。
朱は戦いの炎であり、犠牲の血であり、夕日だった。
ほぼ強制的につれてこられた戦場で、彼と彼女だけは呆然としてそれを見つめるしかなかった。
「二度と攻められぬようにしてやれ!」
一際大きく、そして低く響き渡ったその声は、悠斗や凛音の面倒を見てくれていた黒い騎士のものだ。厳格だったその声に、無慈悲な色を滲ませ、彼は部下に指示を出している。知性の光を抱く菫色の切れ長の目も、獣のような獰猛な光を灯すだけだ。
そこには、二人が時折見ていたような優しさはない。騎士の纏う衣のような、深い闇を感じる。
「ヴェインさん……」
戦場を、黒い一陣の風と化した騎士が走り抜ける。滑らかな動作で、するりするりと敵の間を駆けていく騎士は、銀色の光を翻しては大地に紅い雫を垂らしていく。
夕日の中でも色あせたりしないその紅は、風が吹く度に鉄のにおいを振りまいた。
「ちょっと、平気?」
「……凛音こそ」
平生からちゃらんぽらんな態度をとっている姉が、吐きそうな顔をしながらも気遣ってきたことに、悠斗は意地を張ってしまう。弟とはいえ双子だし、女である凛音の前で、弱音を吐いてはいられなかった。
次第に濃くなっていく血の臭いと、響く雄叫び、武器のぶつかり合いで発生する金属音、魔術の炎や雷によるものの焦げる臭い、倒れている味方や敵。
空気にすら鉄の味を感じて、悠斗は思い切り顔をしかめる。
「やっぱり、違う世界なんだね」
ぽつりと、まるで自分に言い聞かせるようだった凛音の言葉に、悠斗はゆっくり頷く。
何もかもが平和で、ともすれば退屈だった元の世界。
全てが珍しく、しかしその裏では危険なこの世界。
「……怖い?」
姉にそう問えば、凛音は意地を張ることもなく、首を縦に振った。
「怖い。……この世界にいる限り、私たちは絶対にあちら側に行く。今までは傷つけるだけだった、けど」
「奪うのが、怖い……だろ。俺もだ」
覚悟なら数日前にしていた。戦いの場に赴くと姉が改めて意志を表明し、今は戦場に鉄の匂いを振りまいている黒衣の騎士から装備品を受け取ったときに、悠斗も覚悟した。
いくら護衛に“氷雪の魔女”として恐れられている|女性《フィリア》をつけられても、恐ろしいものは恐ろしい。視覚的なものだけなら、『映画のワンシーンだ』と言い聞かせられたかもしれないが、濃い鉄の匂い、時折上がる絶叫が、これを現実として認めるようにと二人に訴えかけてくる。
眼前では、物言わぬ骸骨兵と、暗い呻き声を上げる|歩き回る屍兵《ゾンビ》が、生きた者を相手に戦っている。
生者は屍体に剣を捻り入れ、骸骨の骨を削り取り、頭をはねて数を少しでも減らそうとしているが、骸骨兵と屍兵の数はそれを上回るスピードで増えていた。
双子のいる、少しばかり高い丘の上からなら、戦場の様子を一望できた。フィリアが持ってきた“|魔女の工作《ウィッチクラフト》”の結界構築具のおかげで、小高い丘にいても存在は関知されていない。
相手側を見ると、ある一点からわらわらと屍兵と骸骨兵が現れている。
ぼんやりと不吉に光る、地面に描かれた黒紫色の模様からそれらは出てきている。
不気味な文様から生えるようにして這い出てくるそれを、悠斗は見つめていた。
「あれを潰せたら話は早いのだけど――」
「潰せないの」
静かに聞いた凛音に、ちょっとここからは難しいわね、とフィリアが答える。
曰く、距離が開きすぎているのと、文様を消すのに魔力が相当かかるのだそうで、文様を消すよりは、文様の描き主――つまり、あの死者の軍を率いている|頭《屍の王》を倒した方が効率よく文様を潰せるのだそうだ。
「消耗戦になるのかもしれないけれど、クラドは元気みたいだし大丈夫ね」
「うわぁ」
悠斗が間抜けな声を上げたのに気づいて、再び戦場に目をやった凛音だが、凛音の方も間抜けな声を上げてしまった。
巨大な炎の柱が、うねうねと蠢いている。
|エリュシオン《味方》側の悪魔や魔女まで巻き込みそうな勢いだったが、味方は炎の柱からは一定以上の距離を取っているみたいだから、これは作戦の内なのだろう。
それにしてもでかい火柱だな、と悠斗が漏らせば、火柱と言うには大きすぎるわと凛音が淡々と返した。三階建てビル一つぶんの大きさはありそうだ。
「クラドさんが出しているのね、あれ」
「そう。リンネちゃん達はもう経験済みだと思うけれど、ああいう|動き回る屍体《リビングデッド》は燃やしちゃうのが一番なのよ」
数日前に骸骨兵に遭遇してしまった二人には、その話の意味がよく分かる。両腕をもいでも動き続けた骸骨兵は、炎を纏ったクラドの槍の一突きで、呆気無く倒されてしまったのだから。
そのときの冷たい骨の感触を思い出し、凛音はうえっ、と顔を歪ませた。
「|動き回る屍体《リビングデッド》は物理的な攻撃は殆ど効かないし、しつこいけれど炎に弱いから、意外とあっさり片づいちゃうのよ」
「……そうなんですか?」
戦場を見つめていた悠斗が、懐疑的な声を上げた。フィリアは少し首を傾げて戦場を覗き込み、悠斗の視線を辿った上で、くすりと笑った。
視線の先には、踊るようにして戦場を駆ける黒衣の騎士がいる。
剣の一撫でで次々に動き回る屍兵や骸骨兵を地に還している騎士を見ると、フィリアの話は嘘のように思える。
「ヴェインは別よ」
フィリアは騎士を指さして、剣が他の人とは違うの、と言った。
「あの剣も〈|特別装備《ギフト付き》〉なのよ。〈|理崩し《ことわりくずし》〉っていう剣なんだけれど、色々と規格外の剣なの。だから、ああやって〈動き回る屍体〉に普通にダメージが与えられる」
「規格外?」
「|常識が通じない《・・・・・・・》のよ」
ふふっと軽く笑ったフィリアはそれ以上語る気はないようで、悠斗と凛音は揃ってヴェインの振るう剣に見入った。
銀色に輝く剣は、屍肉を断っても血に濡れても驚くほど美しく輝いている。二人が見つめる間にも、数々の骸が剣に撫でられては地に還っていく。
ヴェインの周りに積み重なっていく|動かなくなった屍体《・・・・・・・・・》に、凛音が口元を押さえた。
「今まで見た中で一番刺激的な光景」
「あー……」
あんまり見たくない光景ではあるよな、と悠斗も同意し、そっと目をそらした。
返り血で赤く染まった騎士の顔は、今まで見てきた何よりも恐ろしい。
屍体と言っても、顔色が悪すぎるだけの人間のようなものだから、切れば血が吹き出すし、切り落とされた腕はひくひくと痙攣する。
灰色っぽい、くすんだ色のもぎれた腕や、大地に伏し、動かなくなった屍体を炎が一欠片も残さぬように呑み込んで、後には黒く焦げた大地が残る。
元の世界では絶対にあり得なかった光景。
ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「フィリアさん、私どこに撃てば良いの――魔法」
「あら。リンネちゃんてば、わりと適応力高いのね。|大丈夫《・・・》なの?」
「馴れなきゃいけないんでしょ、私たち。貴女の言ったことはきっと現実になるもの」
平然とした様子の凛音だが、その手が強く握り込まれているのを悠斗は知っている。この平然だけは上辺だけの強がりだということに気付くのに時間は要らない。
さっきから何度も、凛音は怖いと言っている。それにも関わらず、敢えて彼女が戦闘を試みているのは、やはりフィリアが以前に言った、「世界を見たい」という願望があるからだろう。
二人とも、様々なことが初めてだから、この世界で通用しない――庇護なしに生きていけないと分かった。
人が扱うには難しい魔力の制御も、この世界の知識も、常識も、装備に至るまで――全て与えられただけだ。
|与えられる《・・・・・》のを待つだけでは、この先やっていけない。凛音はそれを知ったから、敢えて自らで|奪いに《・・・》行くのだ。
姉が人の手を借りるのを厭うことなど悠斗が一番よく知っている。自立心が人一倍あるのだから。
凛音が借りを作るのは、“自分の片割れ”である|自分《悠斗》だけだ。だとすれば、凛音を助けられるのは、一緒に歩んでいく権利を持っているのは――悠斗だけだ。
凛音はプライドが高いわけじゃない。人の手を煩わせるのを極端に嫌うだけだ。だから全て自分でやろうとするし、余裕があるなら人の手助けだってしてみせる。
何時でも何でも、悠斗の先を行くのは姉の凛音だ。不格好でも道を切り開き、自分が頼れる唯一の存在の悠斗が、その道を通っていつでも自分の元に来られるようにしている。
悠斗はその道を、凛音の後ろを歩いて、少しでも姉が安心できるように姉の背中を守る。
それでいい。それが、高月凛音と高月悠斗のあり方なのだから。
「ユウト君はどうするのかしら?」
「俺も行きます。まだ、凛音みたいに巧く魔法は使えないですけど」
「そう。じゃあ、二人ともついてらっしゃい」
ゆっくり唇に弧を描き、氷雪の魔女とあだ名される女悪魔は結界構成具を懐にしまった。
心配そうに弟の顔を見た姉に、弟は平然とした顔でにやりと笑ってみせる。それを見て安心したのか、姉の方も薄く笑みを浮かべた。
一人では心細くとも、二人なら大丈夫な気がしている。
今ほど双子であったことを感謝したことはない。
「そんなに緊張しなくても平気よ。屍の王、とはいっても|王という役ではない《・・・・・・・・・》から、率いているのもどこかの国の兵というわけではないの。つまりは国と国との大きな争いじゃないってことね」
「……そうなんですか?」
通りで、今まで『謎の旅人』の抵抗ごときで追い払えて来たはずだ。今の今まで国同士の争いだと思っていた双子に、氷のように美しい悪魔は、ふふふ、と微笑んだ。
「|屍の王《アレ》はいわば、下請けの下請け、かしら」
「|それ《・・》にこんなに戦力を投入しても良いんですか?」
「良いのよ。これで三回目だから、|お灸を据える《徹底的に潰す》にはぴったりよ」
こちらもいい加減に反発を見せないとなめられてしまうもの、とフィリアは優しく笑った。
小高い丘を降りて、エリュシオン側の陣地に立てられたテントへと進む。生者の咆哮しかしないのは、やはりどこか不気味だ。
骸骨兵は話せないし、屍兵は時折呻くだけで、あちら側は静寂に包まれている。
「何……」
テントに入った瞬間にふわりと漂った花の匂いに、凛音が少し不可思議そうな顔をした。テントの中は様々な形のランタンが吊り下げられていて明るいが、花があるような様子はないし、いるのは怪我人ばかり。
それならば怪我人の血の臭いや、戦場の火薬の臭いがしそうなものだが、それがないばかりか、ランタンの油の臭いすらもない。
あるのはただ、寄り添うような優しい花の香りだけだ。
どこかでこの香りに触れたことがあったような――と悠斗は考え、すぐに思い至る。いつだったか、リリーからこんな匂いが漂っていた。
「フィリアさん?」
「リリー、二人が参加してくれるそうよ」
「怪我をされたわけじゃないんですね」
良かった、と一言呟いたリリーの前には、痛々しく血の滲む壮年の男性がいる。リリーの白い手のひらに血がついているから、彼女はずっと此処で治療をしていたのだとわかった。回復魔法は、相手に触れていなければ使えない。リリーに回復魔法を教えてもらった凛音は、すぐに気付いた。
ファンタジーゲームなら、効果範囲を広げられたり、相手に触れなくとも魔法を使えるのだが、この世界は違う。
この、白の魔力だけは触れていなくては使えない。
「粗方ヴェインさんとクラドさんが倒してますから――ユウトさんは他の人と残党狩りで、リンネさんは外の方で怪我人の治療をお願いします」
「妥当なところね。それじゃあ私はユウト君と“|残党狩り《後始末》”に向かうわね」
「はい。あ、それと――」
「近くの怪我人の治療をお願いします、でしょ?心得ているわ」
「助かります」
初老の男性の血の滲んだ包帯に手をかけながら、リリーは双子に声をかける。その間も白くて小さな手はせわしなく動いていた。
「無理はしないで下さいね」
「うん、分かってるわ」
「気をつけます」
きちんと二人が言葉を返したことにリリーは微笑み、それを見てフィリアもさあ行くわよと声をあげた。
外に出ていくフィリアを追って、二人も外に出る。テントを出たところで、フィリアが凛音に声をかけ
た。
出てきたばかりのテントの左の方をフィリアが指差し、凛音もそちらに顔を向ける。凛音のすぐ後ろにある、今出てきたテントより一回り大きなものがそこにあった。
「リンネちゃんはあっちのテントで、比較的軽傷の人の手当ね。ユウト君は私と一緒に来て。リンネちゃん、白の魔力は使えるわね?」
「治したい部分に私の肌の一部を接触させて、そこから白の魔力を流せば良いのよね?」
「ええ。多分無いとは思うけれど、何か分からないことがあったらテント内の人に聞くこと。それでも分からないならリリーの所にね」
「はい」
それから、とフィリアは少しだけ迷った顔をした後にこう告げた。
「回復方面で人手が足りていても、援護に来ては駄目。攻撃手段は教えてもらったと思うけど、ね」
「了解」
「ユウト君は私が責任を持つから、安心して」
しっかりとそれに頷き、フィリアさんがついていてくれるなら安心ねぇ、といつものような笑みを見せた凛音は、悠斗に向かってひらりと手を振ると、さっさと指示されたテントの中に引っ込んだ。
一言くらい言葉をかけてくれても良いのにね、と笑ったフィリアに、あれで良いんですよ、と悠斗は笑う。
「無理しないで」とか、「帰ってきてね」なんて言われるのはむずむずするし、凛音は悠斗にひらりと手を振ったから、それで良い。
凛音の、あの独特な手の振り方はいかにも気軽でさらりとしている。
あれは「じゃあね」の別れの仕草ではなく、「また後でね」の仕草だ。
それだけで良かった。それが|双子《自分たち》と云うものだから。
「双子ってもっとベタベタしている印象があったのだけれど」
「そうですか?」
「私の読む本に出てくる双子はべったりしてるのよ。でも、やっぱり作り話ってことかしら?現実の双子でベタベタした子達は見たこと無いもの」
「俺は俺達以外に双子を見たことがないので、なんとも」
焼けた野原を往きながら話す話にしては随分和やかだなあと悠斗は思う。後始末と言っても、クラドが粗方焼き尽くした後であるが故に、二人のいる場所付近にはエリュシオン側の者しか見当たらない。
フィリアが声をかけて回復が必要か否かを問うても、必要ないと肩をすくめる者ばかりだった。皆一様に「出る幕もなかったよ、あの火柱のおかげでね」などと言い、足下の草をトントンと踏んでみせるのだ。焼け焦げた草はそれだけでほろりと崩れる。
魔法とはなんと恐ろしいのだろうかと悠斗はその度に思ってしまったものだ。
頭の隅に、クラドが作り出したらしい炎の竜巻が思い浮かぶ。映画よりある意味で刺激的だろう。
「あら、そういえばユウト君は知らないわね」
そんな真っ黒焦げの草を踏みながら歩いていれば、フィリアが少し笑って言葉を紡ぐ。
「ヴェインは双子なのよ。ヴェインが双子のお兄さんで、弟がいるのね」
「そうなんですか」
ああでも兄っぽいなと考えてから、双子に兄も弟もないことを悠斗は思い出す。自分達が良い例だ。
悠斗は凛音にとって弟であり兄でもあり、同時に凛音は悠斗にとって姉のようで妹みたいな時もある。
「そうなのよ。弟のほうは今、絶賛行方不明中なのだけど」
「……えっ」
絶賛、ってそれで良いのか――と悠斗は思ったが、彼らと自分の常識の差については色々と思うところがあったので黙っておくことにする。
「少なくともヴェインは自分の家を嫌っていたから、弟が家を出た時には反対なんてしなかったわ」
「家嫌いなんですか?」
寧ろ家を大事にしそうなイメージがありますけど、と悠斗が口にすれば、フィリアも苦く笑う。
厳格で、けれど家族には優しい父親のような妙なイメージがあるのは自分だけなのだろうかと思った悠斗の隣で、フィリアが、それがねぇ、とため息をついた。
「ヴェインのお家、魔力至上主義なの。ヴェインの嫌いな『人はクズ』というのを、普通のことだと思っている人たちだから」
「……それはまた」
「私達がエリュシオンに来たのもヴェインを追いかけたからなのだけど――彼、相当怒って出ていったみたいで、屋敷は半壊で両親共に虫の息五歩手前、だったの」
「とんでもないですね」
スケールが違いすぎて想像できない。悪魔ではよくあることなのかと思ったが、怖くておいそれと口には出来なかった。
「でも、半壊だし、まだ理性はあったのよね。そこにいくと私とクラドは未熟だったわ。お家は壊して来ちゃったから」
「……」
悪魔って皆そんなものなんだろうなと悠斗は悟った。突っ込むだけ無駄だ。
「昔からの知り合いなんですか、フィリアさん達は」
「三人とも幼馴染よ。親同士が仲が良くて」
良くある話だが、世界が違うだけでこんなことにもなるのかと遠い目にもなる。幼馴染を追いかけるだけで家が全壊する世界。それは恐ろしい。
「私は人が好きだったし、クラドは人に興味を持っていたから、ヴェインとは気が合ったのよ。だから追いかけちゃったの。親は反対したけど、私はヴェインが大事だったから」
二人とも弟みたいなものなのよとフィリアは淡く笑う。
「幼馴染、か。憧れるなあ……俺達にはそういう人はいなくて。ずっと凛音と二人きりだったんですよ」
「私は双子じゃなくても、兄弟に憧れたわ。やっぱり三人でどこかに行っても、男の子で固まっちゃうか
ら。その点、今はリリーがいるから楽しいわね」
さくさくと崩れる草を踏みつけ、二人は戦場の中心あたりに到達した。
ここまでくるとちらほらと骸骨兵の姿や屍兵の姿が見受けられる。その残党ですらすぐに周りのエリュシオン兵にとどめを刺されているから、二人の出番はあまりない。
一度だけ悠斗も屍兵と対時したが、二度ほど切りつけたところであっさりとフィリアが氷漬けにしてしまった。
「ほら、焼いて焼いて」
「えっ」
「時の魔力は変換可能だってリリーにきかなかった?」
ああ、と悠斗はこの場には不釣り合いな間抜けな声を上げてしまった。すっかり頭から抜けてしまったが、そういえばそうだ。
時の魔力だけは他の魔力にも変換可能だから、悠斗は間接的に、他の黒、白、青、赤、黄色、の五つの魔力も使うことが出来るわけだ。
リリーに教えられたとおりに魔力を呼び出す。
右手を握りしめて心を落ち着ければ、腹のあたりが温かくなってくる。ゆっくりとそれを体全体に広げるようにして、悠斗は手にまとわりつく魔力を少しずつ赤の魔力に変換していく。
想像と育てる心が大切なのですとリリーは言っていた。出来るだけ、自分の望んだ色になるように魔力を育てる想像をすれば良いのだと。
もし時の魔力が自分の思い通りに育たなくても、無理矢理変化させてはだめ、ともリリーは言っていた。
『望んだとおりに生まれた魔力を集めるだけで良いんです』
それはきっと貴方の力になりますよ、とリリーは微笑み、「貴方に世界の加護がありますように」と口にしたのも悠斗は覚えている。
「集めたから、放つ」
右手に集めた赤の魔力を、指先から力を抜くようにして解放した。
自分の指先からするりと抜けていった赤い魔力は、氷漬けにされていた屍兵に絡み付くと、一度にその力を爆発させる。薄く霜の張っていた薄鼠色の腕から霜が引き、あっと言う間に屍兵は火に包まれた。
叫びも呻きもしない屍兵はさらさらとした白っぽい灰になると、風に吹かれて霧散する。
「使い方は平気みたいね?」
けれど、まだ時間がかかっているわ、と呟いたフィリアに、悠斗は頷くことしかできなかった。
屍兵は呻きも叫びもしなかったけれど、もし普通の生き物だったらと思うと悠斗は少しだけ心が冷える。
ユウトって甘いよね、と訓練を兼ねた手合わせでルシィに散々言われたのだが、悠斗はやはり吹っ切れることは出来ない。
「あまり時間をかけちゃうと、貴方の命に危険が迫るから、気を付けなさいね」
「はい」
とはいえ、ルシィやフィリアが言うことも正しいのだ。悠斗が遠慮や甘さを見せたところで、相手は遠慮してくれないのだから。
「ごめんね、私は……ユウト君の気持ちは、完全に理解できないから」
「分かってます。この世界ではこれが当たり前だってことは。その内、馴れますよ」
魔力を早く発現させられなかったことを、悠斗の躊躇いだとフィリアは解釈したらしい。それを否定はせずに悠斗は静かに笑んで見せた。
「次行きますか」
「そうね」
フィリアも静かに頷いて、悠斗の隣に並んで歩く。
落陽に照らされる戦場は、段々と静かになってきていた。終わりが近いのだろうと悠斗は何となく思う。
勝ち戦とはいえ、この雰囲気は何とも言えずにもの悲しい。
「これ以上相手の陣地に近づくのは良くないわね」
ちょっと危ないわ、と言ってフィリアは悠斗を立ち止まらせた。素直に立ち止まった悠斗にフィリアは少し笑って、どうしようかしらと呟く。きょときょとと辺りを見渡して、フィリアは悠斗の顔を見た。
「……戻りましょうか」
「あ、はい」
残党の姿も見あたらず、周りにいるのは生者のみ。疲れきったような顔をしている者もいれば、怪我をした仲間に肩を貸している者もいる。
悠斗も、足を怪我していた女性に肩を貸す。フィリアがかがみこんで治癒を始めていた。普通ならあり得ない早さで塞がった傷口は、まるで何事もなかったかのような肌の滑らかさを取り戻す。さんきゅ、助かったわー、と笑った女性は、自力で立ち上がるとフィリアに礼を述べた。
「足やられた時はダメかと思ったけど、ヴェイン殿が助けてくれてさ」
「それはよかったわ。クラドとヴェインは?」
「本丸叩きに行ったよ。……フィリア、この子、噂の?」
「そうよミシア。戦場デビューなの」
軽いなぁと悠斗は思った。出来ることならそんなデビューはお断り申し上げたい。
フィリアはそのまま何事かをその女性に伝えると、悠斗の肩をぽんと叩く。
「じゃあユウト君、私は二人に続いて本丸を叩きに行ってくるから、この人と戻ってくれるかしら」
「一人で大丈夫なんですか?」
悠斗の言葉に、フィリアと話していた女性が吹き出す。何だどうしたと悠斗がぎょっとすれば、女性は心配はいらないよ、と腹を抱えて笑いながら息も切れ切れにそう言った。
フィリアは女性をちろりと横目で見ている。
「なんたって<氷雪の魔女>!機嫌を損ねたら最後、氷の棺で永遠の眠りにつかせてしまうって――アイタッ」
「ミシア、余計なことは言わなくって良いのよ?」
女性――ミシアの手の甲を摘んで、フィリアはにっこりと笑った。目だけは据わっている。ああ心配いらないなこれは、と悠斗は察した。
そもそも、幼馴染を追いかけるために家を破壊した女性なのだから、不安に思うこともなかったのかもしれない。
ミシアはあっはっは、怖いねえ、と笑いながら、気をつけて行っておいでよとフィリアの手のひらを小さく叩いた。
「リリーにも伝えとくよ。ユウト?は任せな」
「頼んだわ。じゃあユウト君、また後でね」
「気をつけて下さいね」
二人ににっこりと笑いかけて、フィリアは敵の本陣に向かっていく。しとやかでおっとりとしているイメージの女性が、意気揚々と戦場を駆けていく様は、全く別の意味で心配にもなるけれど。
ほんの少し本来の意味で心配で見送っていたりもしていたのだが、背中が小さく遠ざかった頃に、ミシアが悠斗の肩を叩いた。
「戻ろう。早いとこリリーにも伝えたいからさ」
「はい」
悠斗は、凛音はどうしているだろうかと一瞬考えて、戻ったらすぐに会いに行こうと決める。落陽の中で感傷的な気分になってしまったのだろうか、それとも初めて自分の手で人型の生き物を倒してしまったからなのだろうか、無性に、生まれてからずっと一緒に過ごしてきた『自分の片割れ』の顔を見たくなった。
心持ち速く足を動かせば、ミシアの方もそれに並ぶようにして足を動かす。そういえばこの人誰なんだ?と悠斗が疑問を口にしようとした時だった。
前方から、転ぶようにして走ってくる者がいた。男性のようだったが、彼は悠斗とミシアを目にすると、大声で叫んだ。
「ユウト様、ミシア様! フィリア様はいらっしゃいますか!」
「フィリアさんはいません!何かあったんですか!」
「救護用テントに、屍の王がッ!現在、負傷兵とリリー様、リンネ様が戦闘中ですッ」
何だって、とミシアは顔色を変え、男に「安全な所にこの子を連れて行っとくれ」と悠斗を預けると、「あたしはフィリア達に伝えてくるよ」と止める間もなく走り出してしまう。悠斗の方もやってきた男を無視し、何時間か前に訪れたテントに向かって走り出した。「安全な所へ行きましょう!」と、男に何度も声をかけられたが、それどころではない。
姉が、凛音が、もう一人の自分ともいえる存在が、心配で心配でどうにかなりそうだった。
はやる気持ちのせいだろうか、体がひどく軽く感じられる。焼け野原の戦場をつっきり、目的の場所へと急いだ。