「師匠、これって何ですか」
「木刀だ。強いて言うなら木だな」
それは分かってるんですけどね、と悠斗が呟けば、なら良いだろうとヴェインが笑う。この笑い方はあまり良いものではない。
ヴェインが人に厳しいことをさせる前に、その相手に対して覚悟させる笑いだ。ここ数日、嫌と言うほど悠斗はこの笑みを目にしている。
「大体、何故“師匠”なんだ」
「敬意の気持ちかなぁ」
「不確定要素を残したまま答えるな」
「それはすいません」
おどけて返せば、ヴェインが口元だけで笑う。ここ数日で随分打ち解けた気がするな、と悠斗は木刀を握りしめてヴェインと向かい合った。
エリュシオン国、約束の塔付近の森で、悠斗は剣術の稽古をつけて貰っていた。
発端は他でもない、悠斗の目の前にいる黒衣の騎士だ。
姉の魔力制御の指導を終えた日に、手合わせをしたいと言ってきた。
勿論悠斗は丁重に断った。剣道は確かにやったこともあるし、周りからは凄いと言われる腕を持っていても、ここは異世界。
何が言いたいかと言えば、趣味程度に剣を扱った人間と、真剣に、それこそ国やら民やら何やらを護る為に剣を手にとった騎士とでは手合わせにならない。レベルが違う。手合わせなんかになりそうもない。下手したら、準備運動にもなりはしないだろう。
凛音と二人がかりでヴェインに対峙した時に、そのレベルの差は嫌というほど思い知らされている。
その旨を目の前の男に伝えれば、男は表情を変えずにこう言った。「そんなものは建前だ」と。
要するに「格の違いなど理解している」ということだが、不思議と腹は立たなかった。ヴェインに出会った時に既に一度負けている。それも、二人がかりで不意をうったのにも関わらず。
それだけの格の違いを見せつけられておきながら、憤ることなど悠斗には出来ない。怖いもの知らずの凛音だって「憤っても恥の上塗りよねぇ」とか何とか言って笑うだろう。
では本音は何なのかと聞けば、答えは悠斗にとって嬉しいものだった。
『君に剣術を教えたい』。
国の騎士の中で一番の剣の実力を持っていると言われるヴェインだ、嬉しくないわけがない。
ただ、動機が何なのかが気になった。聞いてみても教えてはくれなかったから、何故だろうかと姉の凛音に何となく話してみれば、「本当に真面目な人よねぇ」と、感心を通り越して呆れていた。
凛音に答えを求めてみれば、「今度『凛音に聞かれたんですけど』って前置きして話してみれば」とあっさり返された。
何のことだか分からないが、やってみようと悠斗は何気なく口を開く。
「凛音に聞かれたんですけど、何で俺に稽古をつけてくれるんですか?」
凛音、と聞かれた、の言葉に、ヴェインが苦虫を噛み潰した顔をする。
……普段より眉間に皺が寄っている、とも言う。
彼は一言、話しにくい、と言った。じゃあ話さなくても良いですよと言おうとすれば、それより早く頭を下げられる。
――何なんだ。悠斗は戸惑った。
「率直に言えば君を騙した」
「え、いつ」
まさかこの稽古がドッキリだったりしないよな、と悠斗は考えを巡らせたが、面白いシーンはおろか、まだ何も始まっていない。
「君と会った最初の日だ」
「騙したのって俺たちなんじゃ?」
凛音の「手が使えなくなったら生きる価値なんて私にはない」発言だ。
面白いほど狼狽えていたのが印象深い。
「そうじゃない。魔力の話だ。時の魔力は死に至るという」
「それのどの辺りが?時の魔力とかそのあたり?」
だとしたら、この国の建国者含めての壮大なドッキリだ。
それは流石に勘弁してもらいたいよなあ、と悠斗は口に出さずに思う。
「『死に至る』、だ。正直な話、死に至ることはない」
ヴェインの言葉に悠斗はがっくりと膝をついた。何だそれ、の一言も出てこない。
建国者含めての壮大なドッキリと、大して変わらない。
あれだけショックを受け、気持ちの悪くなる――比喩ではない――訓練を受けたのにも関わらず、ここにきてのまさかのカミングアウト。
「君たちを引き留める嘘だった。実際は放っておくと体調に不調をきたしたり、精神に異常をきたすだけだ」
「あまり変わらない気も」
「死ぬわけではない」
それはそうだけども、と悠斗は思う。
多分、「体調不良と精神異常を引き起こす」だけではこの国に留まる理由としては薄くなると思ったのだろう。
そもそも、異世界から来ました、とか、初対面で不意うちし始める奴等だ。体調不良と精神異常くらいは気にしない可能性があると思われたのかもしれない。
真面目で考え過ぎなヴェインのことだ、あり得ない話じゃない。
「だから稽古ですか。罪滅ぼし的な」
「そうだ」
「騙したのはお互い様なんだからチャラにすれば良かったのに」
「……その発想はなかったな」
騎士をやるだけあって真面目だ。
こんな人が種族的には“悪魔”と名乗るこの世界はどっかおかしいと悠斗は思う。悪魔って柄じゃない。
「それに、君たち二人は鍛えていて満足感を得られる。こちらの予想をいい意味で裏切る。正直、育て上げたいと思った」
「べた褒めですね」
「事実だからな。君たちは潜在能力の高さを意識していない。自分の力を過小評価して枠に押し込んでいる。私はその枠を壊したい」
こうも手放しで褒められるとどう言って良いか分からない。
今までにはない嬉しさだ。
今までは褒められても、どこか「当たり前」の空気があったから。
――運動神経が良いなら。頭が良いなら。高月君なら。高月姉弟なら。
しかし、とヴェインは苦い顔をした。
「君の姉の察しの良さは扱いづらい」
「凛音の?」
「ああ。リンネは私の嘘をすぐ見破っていた。次の日の指導の時に、すぐに指摘された」
――「死ぬっていうの、嘘でしょ」
にこりと笑って、ヴェインのスパルタ指導の後に、悠斗の姉はそう静かに言ったのだという。
ああ、なるほど確かにと悠斗も思い至った。
おかしい点は、ところどころにちりばめられていたから。そもそも、悠斗も不審には思っていたのだ。
「確かにちょっとおかしいとは思った。時の魔力は云々、っていう割にはリリーは生きてるし。リリーが元は人間って言うなら、時の魔力についても知識ゼロのはずなのに、それに気づいて自力できちんと扱えるっておかしいんですよね。気づく前に死んでいても不思議じゃない」
「そこまで気づいていて私に答えを求めたか」
「俺、凛音みたいに巧く人に聞けませんし」
第一あんなに図々しくなれない、と悠斗は笑って見せた。ヴェインも苦笑いのような淡い笑みを口元に浮かべている。
ヴェインは握った木刀を指でなぞりながら言葉を続ける。小鳥が一羽、どこかに飛んでいく。
さわさわとそよぐ森の木々は、二人の会話を邪魔しない。
「少し、羨ましく思う」
「凛音が?」
察しの良さと勘の良さは悠斗も勝てる気がしない。あれは女性特有の何かなのか、はたまた凛音だけの天性の何かなのかはよく分からないが。
深く考えないと安心できない悠斗に対して、凛音は勘や気分でぱぱっと決めてしまえたりする。あれは羨ましい。未来を読むかのように、その選択は正しいのだから。
「いや、そうではない」
悠斗の予想に反して、黒衣の騎士は苦笑いを浮かべて否定する。じゃあ何が羨ましいのだろう。
凛音ならその察しの良さで気付いてしまえるのだろうか。でもきっと、こういうときは姉は口を噤む。何も知らないふりをして、続きを促す。凛音は本当に、狡い。
「君たち二人の可能性だ」
「可能性ですか」
「君たちは何にでもなれる。全てを極めることもきっと可能だと思わせる」
それが羨ましいと、その人は顔色を変えずにそう言った。
二人の間に風が流れて、足元の草花が歌を奏でた。葉と葉が触れては離れるその歌は、二人に沈黙をもたらすと、やがてゆっくりと静まった。
「――こんなことをいうのは、君たちには申し訳ないのかもしれないが」
知性を灯す菫の目が、穏やかに悠斗を縫いつけた。
「私は、そう簡単に帰って欲しくないと思う」
その言葉に裏がないのはすぐに分かった。だからこそ、悠斗は言葉を告げられずにいる。
ヴェインの言葉の意味はうっすら理解できている。それでなくとも、二人してその事について迷っていたのだから、なおさら言葉は紡げなかった。
「君たちには、この世界に残っていて欲しい。君たちの可能性の終着点を、集大成を見届けたい」
「俺は――」
囁くような悠斗の言葉は、全て風がさらっていった。だからヴェインはそれを聞くことなく、雰囲気をがらりと変えて悠斗にこう言った。
「話が長かったな。始めるか」
握った木刀を軽く降って、黒衣の騎士は構えをとった。
悠斗も頭を振って、握りしめた木刀を力強く一度振る。
この世界の全てを見てみたいと、思った自分がいる。
――俺は、もうちょっとここにいたいんです。
*
「回復の方は意外と簡単なのねぇ」
「はい。体を治す、というのはある意味では本能ですから。使いやすいと思います」
ヴェインによる魔力制御の指導は二日ほど前に終了している。
制御できても使えなきゃ意味無いよねー、とのルシィの言葉に、凛音は大きく頷いた。道具を持っていても使えなくては、ただの“がらくた”だ。
断られるのを覚悟で、ヴェインに相談してみれば、いつの間にかリリーにまで話が伝わっていて。
「私で良かったら」と彼女はにっこり笑って、凛音に指導を始めたのだった。
やること事態は簡単だ。治したい怪我に体の一部分を近づけるかくっつけるかして、自分の中にある力を少し流せばいい。
この辺りはイメージでお願いしますねと彼女は言うと、躊躇うことなく自分の親指にナイフを当てた。
えっちょっと、と慌てた凛音に、さあどうぞと浅く血の滲む親指を彼女は差し出した。怖々と魔力を注げば、彼女の親指は元通り。
あっけなさに凛音は思わずがっくりした。
「回復は一番扱いやすい力なんですよ。一番難しいのが〈闇と創造〉の黒の魔力」
「似たような事、ヴェインさんも言ってた」
「〈回復と増幅〉の白の魔力は使い道が限られていますが、黒の魔力は使い方が無数にありますから、色々と大変なんです」
「具体的に言うと?」
興味津々といった凛音に、リリーがおっとりと笑う。
「何かを召喚したり、創ったり。創り変えたりも出来ますよ」
「魔術、って感じねぇ。本格的だわ」
素直に驚いている凛音にリリーはそっと笑って、自分の手のひらに小さな花を咲かせた。
あら、と凛音が花をつつく。
花びらのしっとりとした感触はまさに花。不思議だと花とにらめっこを開始した凛音に、「その気になれば動物も呼び出せますよ」とリリーは笑う。
しかし、凛音の興味の第一位はそれではなかったらしい。凛音はしっかりとリリーの薄氷色の目を見つめた。
「リリーは時の魔力以外に白の魔力を持っていたの?黒の魔力も?私が視た時には二つとも無かったわよねぇ?もしかして魔力って隠せたりする?」
矢継ぎ早な質問にリリーは弱く笑って首を横に振った。
「時の魔力は変換途中の力。だから一時的に変換可能なんです。リンネさんが視た時は、私はまだ力を変換していません」
「時の魔力は、そうね、私には見えないものなのよね」
先ほどの勢いはどこかに放り投げ、凛音は真剣に何かを考え込んでいた。
リリーは未来が読める。だからこのときの凛音が何を考えていたのかも予想できていた。そして、彼女がそれを今は口にしないだろうということも。
だから彼女はわらって聞いた。そんなに何を考えているのですか、と。
「こんな事をいうのは変かもしれないけれど」
「はい」
「私の魔力って、力?」
「と、いうと?」
「この力は、私が何かを護るのに使える?」
凛音の問いは直接的なのに遠回しだ。何か、が〈何〉であるのか、彼女は言う気はないのね、とリリーは凛音を見つめた。
凛音は至っていつも通りといった風を装っている。
その夜のような色の目は、月夜の補食者のように、ある一つのものしか求めていない。
彼女は答えを求めるのが好きなひとだとリリーは小さな笑みを浮かべた。
「リンネさんに与えられ、リンネさんが行使しようとする力は全て、貴女達の力になります。その恩恵は貴女達だけではない、貴女達が助けたいと思った全ての人の護りとなります」
「リリーが言うなら安心」
ふっと表情を緩め、凛音はゆっくり笑った。
「ありがとう」
凛音には、やりたいことの後押しを、リリーがしてくれたのが分かった。それを突き詰めてしまえば、きっと彼女の厚意は、リリーの悠斗と凛音に対する行為は無駄になってしまうだろう。
それでもこの人は笑ってくれる気がする。
そこに甘えるのは良くないのかもしれないけれど。
「いいえ。決めるのは全て貴女次第」
悪戯っぽく笑うリリーをみていると、そうでもいいのかな、と思えてしまう。
――もっと、この世界を見たい。
bkm