「なァ……」
緩くはあるが、きちんと結われていた銀糸を解れさせながら、ニックは首を動かして女を見上げる。
血に塗れたレイピア。
ニックの白い外套の肩口は、酸化しつつある血液で赤いような、茶色いような、不快な色に染まっている。「俺は血まで汚ねえなあ」と笑えば、「笑い事じゃないでしょう」とクルクがニックを見下ろした。
「なあ、聞きたいことがあったんだけど」
「何?」
「クルクちゃんはクドラク以外の血は飲むの」
「飲んだことはないわ。飲もうとは思わないし……」
「へえ」
俺の血って不味いのか聞いてみようかと思ったんだけどな。
口端から血をたらりと垂らしながら、ニックは楽しそうに笑っている。
【審問室】と呼ばれている、地下の牢獄のような場所にニックは繋がれ、クルクはそのニックの目の前に立っていた。
【審問室】とは名ばかりで──本質は、【拷問室】とイコールだ。けれど、“善の象徴”であるクルースニクは“拷問”などはしないからと、名前だけは別のものに置き換わっている。
異端者に最大の苦痛を、という趣旨なのか、先程までニックはクルクとは違ったものに《審問》を受けていた。白い外套が血で所々薄汚れているのも、上品な顔が腫れているのも、右腕が折れてだらりと垂れ下がっているのも、その《審問》のせいだ。
「やっぱ女の子だよな。クルクちゃん性格キツいけど、今までの《審問》の中で一番親切」
「……馬鹿ね」
肩に刺すだけだから一瞬だもんな、と微笑んで、ニックはクルクに動く方の左手を伸ばす。
その手を払おうかクルクは迷い、けれど近くには“同胞”がいないことを思い出し──ニックの好きにさせた。
「正直、巻き込むとか思ってなくてさ──悪いな、嫌な思いさせちまったろ」
「……ひとより、自分の身を心配したら」
「俺はもういいよ。それより、お前の方が心配、だな。──お前が弱みを握られてる、なんて……俺を始末したいなら、俺に直接言えってのによ」
「……」
「まあでも、こんな美人に殺されるなら幸せって奴だな。悔いはねえこともないけど」
クルクちゃんとデートしたかったなー。
危機感が抜けたような、ぼやぼやとした言葉で紡いでいるのは、ニックの意識が薄れているからなのだろうか。
「……私からのお詫び。貴方の好きな葡萄酒よ」
クルクの手のひらからニックの手のひらに転がされたのは、小さな小瓶に入った深い赤の液体。見覚えのあるそれに、ニックの口元が緩む。
「さんきゅ、クルクちゃん」
処刑される寸前に飲みたいよなあ、と呟いたニックに、ここから私が連れ出す前に飲めばいいわ、とクルクは答える。
「そのくらいの猶予はあげる。──貴方の処刑が始まるのは半日後だから。……私が貴方を同胞の前に引きずり出して、──首を切り落とす」
「そ、か。うまくやってくれよ、絶世の美青年の頭だからな。顔に傷は付けないでくれ……って、今更か」
「──ごめんなさい。貴方には助けてもらったのに。……本当に、」
ニックの前に両膝を付き、目元を手のひらで覆いながら、謝罪を紡ぐクルクの唇にニックは人差し指を押しつける。
「それ以上言ったら、口塞ぐぞ」
目覚めさせるお姫様はいねえけど。
仄かに笑った青年に、クルクは馬鹿ね、ともう一度呟き、ニックの血で汚れた頬に唇を落とす。
「やっぱり、美味しくないわ」
「……そりゃ残念」
へらりと気の抜けた笑みを見せて、ニックは【審問室】を出て行くクルクを見送る。
──親愛、ね。
クルクから渡された“葡萄酒”を手に、ニックは大きく息をつく。
唇の落とされた頬をなでた。
──瞼は憧憬、頬は親愛、額は友情……
「あー……」
不意に思い出した記憶に、ニックはうっすらと微笑みを浮かべた。
あれは何年前のことだったか。
あの時は救えやしなかったけれど。
「俺への罰かな」
そうだといいんだけどな。
かつて彼と同じ目に遭い、そして救えなかった友の顔を瞼の裏に浮かべながら、ニックは静かに眠りに落ちていく。
手のひらに握り込んだ小瓶の中で、赤い液体がちゃぷんと揺れた。
***
「……起きて」
「……起きてる」
もうそろそろか、と呟いたニックに、ええ、とクルクが返す。
「……飲みなさい。最後の晩餐だと思って」
「食前酒だけで終わるけどな?」
「……どうかしらね」
ニックの手のひらから小瓶を取り、ふたを取ってまた手渡す。
最初の一口を口にして──ニックの表情が変わった。
「クルク……お前、これ」
「上等な葡萄酒でしょう? この日のために用意したの」
虫の息の恩人に贈るにはぴったりよ。
柔らかく微笑み、クルクは空になった小瓶をニックの手から拾い上げ、それを懐にしまった。
「さあ、行くわよ! “裏切り”、のクルースニク! “適切なタイミングで”、私があなたを処分する! “逃げる”、そんなことは考えないで頂戴」
ボロボロになった外套の首元を掴み、クルクはニックを引きずっていく。
処刑の舞台である建物の裏手の広場には、多くのクルースニクが集まっていた。
皆の顔に好奇と、困惑と、期待が広がっていた。
今までにも処刑されたクルースニクはいたが、こう大々的に処刑されたことはなかったからだ。
“始祖に近い存在”でもこうなるのだぞ、という見せしめの意味もあるのかもしれない。
ニルスがぐちゃぐちゃと長広舌を披露している。
それを右耳から左耳に流し、ニックはクルクにだけ分かるように腕を動かす。腕とともに胴を縛り上げた革のベルトでは、それは元々あまり目立たないけれど。
折れていた右腕はどうやら元通りになったらしい。
流石、とクルクは表情には出さず、ただ淡々とした目でニックを見つめ、その首筋にレイピアの刃をつきつけていた。
服装がぼろぼろなのは幸いだったかもしれない。
その服の下で怪我が回復しつつあっても、誰も気づかない。
ニルスが話をやめた。視線で「やれ」とクルクに告げる。
こくりと頷いて、クルクはレイピアを振り上げ──
「走れッ!」
“始祖に近い存在”を縛り上げるベルトを、切り裂いた。
走り出したニックについていくことはせず、クルクはニックの前に躍り出る。ざわめく聴衆を蹴散らしながら、彼のために道を創る。
「クルク!」
「“秘薬”とはいえまだ回復はしていないでしょう? 貴方が逃げるまでの時間は作るわ──いいえ! 創らせて頂戴!」
──貴方に助けてもらった借りは返す!
今までで一番の笑みを浮かべながら、クルクはニックに手を振った。
「“デート”、楽しみにしています」
私のことを大切に思うなら、走って逃げて下さい。
とどめの一言を投下して、クルクは激しい視線を浴びせるクルースニク達に向き直る。
くそ、と吐き捨てながら、ニックも走る速度を上げた。クルクの言うことは尤もだ。
“秘薬”で回復しつつある体とはいえ、本調子でないことは明白だ。
このままあの場に残れば、彼女の足手まといになるのは確実──。
遠ざかるニックの足音を聞きながら、クルクは武器を構える“かつての同胞”に笑みを浮かべる。
「“戦乙女”の名を、伊達にはしないわ」
雪のように透き通った銀髪。
強い光をともした青い瞳。
壮絶に艶やかな笑みを浮かべ、クルクは愛用のレイピアを閃かせた。