妖宴 閑話 弐
 隣で眠る娘の頬に、一筋の涙の痕をみて、玄冬は頭をくしゃくしゃとかいた。そんなつもりはなかったのだが、やはり慣れぬ娘には辛いことばかりであったのだろうか。生憎、娘ではない玄冬には、想像はできてもその心境を理解することは出来ないから、精一杯の優しさを指先に込めて、娘の頭を撫でた。
 その顔が“横暴大将”とあだ名される、“北の天狐”のものにしてはあり得ないほど優しげだったのは、誰のしるところでもない。

「こうも面倒な立場でなかったらな──」

 廓から連れ出してやるのに、と玄冬は娘を抱き寄せた。柔らかく、しっとりとした白い膚に、男の堅くしなやかな、鍛えられた肌が触れる。まだ肌寒い春の夜に、狐の男はゆるやかにひきずりこまれていった。
 



 白く細い腕をつかみ上げ、そのまま押し倒す。揺れた兎の白い胸も、敷き布に散らばった柔らかな髪も、男は気に留めなかった。
 身体にかけている程度だった男の着物がはだけると、帯がだらりと揺れて解ける。
 それはそのまま、おびえた顔の玉兎の娘の腹にぼたりと落ちた。
 玉兎の娘の手首を握り締めれば、娘の手にしていた短刀が敷き布に転がる。花のように赤い瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「……貴様」

 ふと隣で娘が動く気配があったから、ほんの少し目を開けてみれば、そこには玄冬に向かって短刀を構えている白桜がいた。
 咄嗟につかみかかり褥に押し倒せば、白桜は酷くふるえて短刀を取り落とし、観念したように目を伏せる。
 こんなことだろうとは思っていたが、やはりかと玄冬は舌を打つ。

「こんなことなら、優しくする必要は無かったかもしれないな」

 動けぬほどに玩んでやればよかったと嗜虐的に微笑んだ玄冬に、玉兎の娘が震えた。蝋燭の灯が揺れ、玄冬の顔をちらちらと照らす。
 何故こんなことを、と問い質した玄冬に、白桜ははくはくと口を開閉するだけだ。
 哀れさは誘ったが──今の玄冬には、同情の念などは浮かばない。寧ろ、苛め抜いてやりたい気分にさせられる。
 娘の手首をがっちりと掴みながら、玄冬はにやりと極悪人の笑みを浮かべる。
 仰向けの娘を無理矢理転がし、うつ伏せにしてからのしかかってしまえば、娘には抵抗もできない。
 男の体重を遠慮なくかけられているからか、玉兎は息苦しそうに咽せる。
 たった一度、掠れた声で「殺して下さい」と娘は紡いだ。

「そう簡単に死なせてなるものか。言え、何故このようなことをした?」
「殺して下さい」
「言え」

 あの、弱々しくも愛らしいような、庇護欲を誘う態度もすべて演技だったのだろうか。それならば自分よりもよほど“狐”らしいと玄冬は娘を睨む。

 ──玉兎というにはとんだ女狐だな。

「殺して、下さい」
「言えと言っているのが分からないのか」

 うつ伏せのままの娘の頭を、無理矢理自分の方へと向かせた男に、娘が苦しげにもがく。
 娘につけられたままの足枷が、がちゃがちゃと耳障りな音を立てた。

 急に黙り込んだ娘の様子にはっと息をのみ、狐の男は娘の口の中に指を突っ込む。そのまま、噛みきられようとしていた舌を引きずり出して、娘が口を閉じられないように親指を差し込む。
 娘の瞳からは、ぼろぼろと涙が転がっていった。

「馬鹿な娘だ。貴様ごときでこの私を殺せるとでも思ったか」

 娘は首を振る。抵抗する気も無くしたらしい白桜を、玄冬は乱暴に転がした。
 二度、三度、と娘の胸が上下して、それから娘がだらりと玄冬に顔を向ける。背筋が思わず粟立つほど、哀れで美しい姿だった。

「私は、わたくしは──貴方を、玄冬さま、あなたを殺さねばならないのです」
「誰の差し金だ」
「貴方を殺し、北の天狐を滅せよと──そう言付けられたのです。さもなくば、わたくしは一生、この狭い鳥籠の中、死ぬまで縛られねばならぬ身。けれど、わたくしには貴方は殺せませぬ。わたくしに一時でも優しさを下さった、あなたは」
「あの狸爺か」

 啜り泣くことでそれを肯定した娘を見ながら、玄冬は頭の隅で考え始める。恐らく、狸爺も誰かに言付けられてこの計画に加わっているだけだろう。
 だからこそ、玄冬が躊躇いもなく大金を差し出したときに戸惑ったのだ。白桜を気に入れば、何度でもこの廓に来るであろうし、そのたびに大金をせしめることができる。しかし、この場で玄冬を殺してしまえば、大金をせしめられるのも一度きりだ。

 “お気に召します娘かどうか”──。

 当たり前だ、寝首を掻こうとする娘を気に入るものなんぞ、そうそういやしないだろう。

「つくづく哀れな娘だな」
「ですから……ですから、どうぞ一思いに殺して下さいませ」

 首を差し出すようにうなだれ、短刀の柄を玄冬に握らせた白桜は、すり寄るようにして玄冬に身を寄せた。
 玄冬は唇を噛みしめる。ぷつりと犬歯が唇を傷つけ、玄冬の唇には赤い血の玉が浮かんだ。
 
「私に感謝するんだな、“白桜”」

 掴めば折れてしまいそうな、細く白い首に左手を這わせ、玄冬は短刀をその首筋に当てる。
 ありがとうございます、と呟いて瞳を閉じた娘を一度だけ撫でて、玄冬はその短刀をゆっくりと引いた。

 じわりとした痛みが首筋から白桜を襲う。けれど、死に至るほどの傷でもない。何故、と白桜が目をあけようとしたその時に、首筋にぬるりと舌が這う。
 短刀で出来た浅い切り傷、そこに滲む血をすくい上げるような、唾液を押し込むような、妙な動きだ。思わず身じろいだ白桜の腰と後頭部には玄冬の腕と手のひらがあり、娘は逃げることが出来ない。

 その内、段々と白桜の意識は朧気になっていく。玄冬が首筋から唇を離す頃には、白桜はすっかりと気を失っていた。



 其処から先は何の障害も感じられぬほど、とんとん拍子でものが進んだ。
 権力にものをいわせ、狸爺の上にいた“計画の発案者”──つまりは、玄冬の幼なじみの発言に乗っかって、玄冬にこの廓行きを勧めた部下を処分し、廓はそのままに狸爺だけを別の場所へと追いやった。新しく選んだ廓の主は、玄冬の幼なじみである白秋の知り合い筋だというから、廓の娘たちが殊更に酷い目に遭うことはなさそうだ。
 廓の娘たちを解放しなかったのは、解放したところで行き着く先はまた同じものだと知っていたからだ。
 身体を売った娘たちを、普通の者として扱うことは無いに等しかったし、廓で飼い殺しにされた者たちが、まともな道を歩んでいけるとも思えなかった。ならばいっそ、今までの条件よりほんの少し良い環境にしてやるくらいしか、玄冬には思いつかない。
 
 白桜の記憶は玄冬自らが、妖狐に伝わる、“記憶の改竄”を行う術を、白桜にかけて消してしまった。
 術者の血液を相手の身体へと流し、相手の血液を術者が得ることで、記憶の改竄を行える、というもの。それを使って、玄冬に関する記憶のみをきれいに消して、玄冬は廓から立ち去り、「散々だった」とこぼしながら、部下で幼なじみの空狐、白秋に全てのことのいきさつを話し、廓の新しい主の手配などを任せ、自らはまた“横暴大将”として北の地に君臨している。

「その白桜って子は、そのままにしておいていいのですか?」
「構わないさ。どうせ莫大な値が付いているから、そうだな──よほどの博打者か、私のような者でない限りは手が出ないだろうから。この煩わしい地位を返上できたら、迎えにいこうとは思っている」
「殺されかけたってのに、暢気ですね」
「白秋、そうは言っても──ここまで手間をかけさせたんだ。何年か後に恩返しをして貰っても悪くはないだろう?」

 にやりと笑った横暴な黒髪の狐に、白髪の狐がため息をつく。
 彼が迎えにいく前に、白桜が“負け知らずの賭博師”に買われ、廓抜けを果たしたのは──それから、ほど遠くない未来、奇しくも、白い桜が、真っ黒な宵闇の中、冬の雪のように花弁を散らした夜のことだ。


prev next



bkm


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -