そして世界にさようなら
 私の死の瞬間には、いつも決まってあの人が傍らにいた。
 短い黒髪を風に遊ばせて、気だるげな笑みを浮かべながら、こちらを見下ろしてくるあの人が。
 どこか諦めたような、悼むような顔でこちらに笑いかける彼は、いつも同じ言葉を私に投げかける。

「君はこの世界とさよならしなくちゃいけない」



***


 車のヘッドライトが眼前に迫る。
 頭のどこかで、「これはもうダメだろう」と冷静に分析している自分がいた。

 真っ暗な夜道の中、ぎらつく獣のような車のライトは目にまぶしくて、私は目を瞑ってしまう。
 
 塾に行かなかったらこんなことにはならなかったのかな、明日は模試だったのにな、今日の晩御飯はなんだったんだろう、ああ、もう車が迫ってきている。
 ブレーキをかけた時の、独特な高い音が夜道のアスファルトを滑っていくけれど、その音のすぐ後に、私は宙に飛ばされた。
 どしゃりと鈍い音、頭が割れたように痛くて、息を吸うのが辛い。
 は、と吐き出すことさえ許されないような吐息に、鉄の味が混じった。

 私は多分死ぬのだろう。

 ベタベタして鉄臭い、真っ赤な液体が、私の破れた皮膚から流れ出している。
 段々寒くなっていく体を震わせようとしても、ぴくりとも動かなかった。
 寒くなっているのに、熱いのだか痛いのだか分からない私の体に、アスファルトの硬さが伝わってくる。
 吹き飛んだ通学バッグは、横になってしまった私からでも見えたけれど、乗っていた自転車がどこに行ってしまったのかはわからない。
 車のドアが開く音がして、誰かが呻くような、喉の奥に張り付いたものを必死に絞り出すような声を聞いた。

 目の前がかすんでよく見えなくなってくる。
 酷く痛いのに酷く眠く、朦朧とした意識の中、水の中で目を開けたときのように、景色が揺らいでぼやける。
 指の先から無くなっていく感覚は初めてのもので、ああこれが死なのかと、私はゆっくりと理解した。

「君はこの世界とさよならしなくちゃいけない」

 不意に聞こえた男の人の声が気になったから、私はゆっくりと眼球を動かしてあたりを見回す。
 折れて動かない首のせいで息もしづらく、広い範囲を見ることもままならなかった。

「怖くないよ。俺がついている」

 一人じゃないぜ、と続けて話しかけてきた声の持ち主は、私の傍らに膝をつくと、私の頬にそっと手を当てて微笑んだ。
 私もそれに答えようとしたけれど、唇からは微かな空気が漏れ出るだけだった。
 男の人は私の額をそっと撫で、「今度は安らかな眠りにつけるといいな」と、優しい声で唇を動かした。


 男の人の短い黒髪が、星の少なくなった夜空にゆれている。
 優しい風が私の瞼をそっと撫で、私の視界は少しずつ、白く染まっていった。



***

 
 若い頃は苦労もしたが、充実した人生を送ってきたと思っている。
 農家に生まれた私は、4人兄弟の一番上の姉として、下の妹や弟達の面倒を任されることが多かった。
 時には喧嘩もしたし、自分の時間を制限されるしで、いなくなってしまえばよいのにと思ったこともあったけれど、今となってはあんな馬鹿馬鹿しいことで腹を立てていた自分がみっともない。

 今から思えば弟や妹達は私をよく支えていてくれたように思う。
 辛いことがあって、学校から帰ってきて、台所で泣いていたときも、すぐ下の弟がずっと傍にいてくれた。
 何かを自分から口にする子ではなかったけれど、何も言わずに傍に居てくれた。
 その日は甘えん坊の妹や、弟と一緒に眠りについて、私は家族の――兄弟の良さをかみ締めたものだ。

 その弟達もとうに逝き、今や残っているのは私だけ――その私も、いまこうして、愛しい人に見送られて逝こうとしている。
 素敵な人生だった。胸を張って言える。


 貴方に出会えて良かったわ。
 もう、自分の口からもれ出る空気が、言の葉を成しているかどうかもあやふやだけれど、これだけは伝えておきたかったのよ、貴方。

 私が微笑んだのが伝わったのだろうか、病院の消毒薬臭い空気の中、私の横たわるベッドの隣で、簡易椅子に腰掛ける夫は、そっと微笑んでこちらを見る。
 夫が昨日の夜からずっと握ってくれている、私の右手に、ほんの少し力がこもった。

「なあ」

 穏やかで優しい声。
 私の愛した人の声。

「わしもすぐそちらに行く。だから、少し待っていてほしい」

 お前には苦労をかけたなあ、なんて貴方は笑っているけれど、私にとっては幸せな日々だったのよ。
 今までの人生の半分を、貴方と過ごすことになるだなんて、思っても見なかったけれど。
 亭主関白だったくせに、私が倒れたときは誰よりも心配してくれて、取り乱しちゃって。
 不謹慎かもしれないけれど、嬉しかったわ、貴方。

「お前の人生に深く関われたこと、わしは幸せに思っておるよ」

 私もよ。もうそろそろその幸せな人生は幕を閉じてしまうけれど、あなたのことは絶対に忘れないわ。

「ありがとう。ありがとうよ――」
 
 夫の手に力がこもって、私の体からは力が抜ける。
 ふっと体が軽くなって、どこか遠いところから、ピー、と機械音がした。
 私を診てくれていたお医者様が、夫に何事かを語りかけている。
 夫の背中は丸まっていて、若い頃のような頑健さもなかったけれど、いとおしいことに変わりは無かった。
 
 あら、私が死んだって言うのに、泣き叫んではくれないのね。
 
 静かに静かに涙を流している夫を、後ろからそっと抱きしめた。
 
 しっているわ、きっと貴方は、家に帰って、独りになってから、たくさんたくさん泣くのでしょう。その時に私は傍にいてあげられないのが、本当に悲しいけれど。
 そう遠くない日にまた会えるでしょうから、そのときまで元気で、いてくださいね。

 貴方と過ごすには短すぎる人生だったけれど、ありがとう。


 そっと夫から離れた私の視界の隅、どこかで見かけたことのある青年の姿が映る。
 黒い短髪がほんの少しゆれて、俯いたまま壁に寄りかかっていた青年は、顔を上げてこちらを向いた。

「お婆さん、君はこの世界とさよならしなくちゃいけない」

 知っているわ、きっとこれが初めてではないから。
 青年に向かってそっと微笑めば、青年はほんの少しだけその瞳を丸くした。

「――幸せな一生だったようだね。お爺さんのほうも、貴女に会えて幸せだったと思う」

 次の世でも幸多からんことを。
 薄く笑みを浮かべて、彼は小さく私に手を振った。
 私の体は宙に透けて、煙のように上へ上へ。

 一体、どこに行くというのかしら。


***


 ああああ!もう!最悪だわ、信じられない!落ちるのはあなたで私ではないでしょう!?
 周りの人間の息を呑むような音、絶叫、見開いた目。それに混じって聞こえる、電車のブレーキ音。
 間に合うわけ無いじゃない!もう絶対に死ぬんだわ、私!

 信じられない、まだ彼氏からプロポーズの言葉も聞いていないし、セクハラばかりしてくる部長に言いたい嫌味もあるし、同僚の里佳子と映画を見に行く約束もしていたのに!
 どうして酔っ払いになんかに突き落とされなきゃいけないのよ!
 私が何をしたって言うのよ!
 もう間に合わないわ、もう無理だから、そこのあなた、降りて私を助けるなんて、馬鹿なまねはしないで頂戴!
 いやよ、他人の肉片と一緒くたになってひろわれる、のは――


 眩しいライト。二つの煌々としたそのライトの向こう側、多分運転席。
 運転手のおじさんと、目があってしまった。
 ごめんなさい、嫌なものを見せて。
 ごめんなさい、でも私のせいじゃないのよ。

 私を突き落とした酔っ払いは、事態を認識していないみたいだったけれど、周りの人たちの絶叫と共に、私の体が吹っ飛んでいく。
 

 だって女なのよ。
 綺麗なままで、死にたかったじゃない。あんまりだわ、こんな終わり方って。
 形容しがたい音が頭、いいえ、体中に響いて、何かとてつもなく大きくて速いものが、私の体の上を通っていくのが分かった。

 そうそうない死に方よね。
 痛みを感じる前に死ねるのが、せめてもの救いって奴かしら。
 
 馬鹿みたいで下らない人生に、私は終止符を打つ。
 最期の最期に浮かんできた顔は、彼氏のものでも親友のものでも、両親のものでもなくて。
 遠い昔、どこかで見たことがあるような、黒髪の短髪の青年の顔だった。
 夢の中でよくみたのだったけれど、結局この人誰だったのかしら。


「君はこの世界と、さよならしなくちゃいけない」 


 この台詞も、何回目かしら?




 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した、とある駅のホーム。
 そのホームに止まった電車、降りてくる車掌、ざわめく乗客。
 ホームにいた人々は顔を青白くさせて、気分が悪そうに口元を手で抑えている。
 そんな乗客の合間を縫って、青年は電車の止まっている線路に降り立った。

「……気分のいいモンじゃ、ないよな」

 電車のその下、散らばる赤に、あちこちにとんだ布切れ、その他のたんぱく質の塊。
 彼はこういった光景を見るのは初めてではなかったが、やはり馴れもしないし、気分のいいものでも、ましてや楽しいものでもない。
 吐き気こそしないが、彼もまた、黒いコートの袖を、口元に押し付けていた。

「……また、あの顔だ」

 彼が呼びかけた、彼女の最後の、本当に最後の一瞬。
 彼女が彼に向けたあの顔は、彼がどこかで見たことのある瞳。
 何百年に一度、あるかないかの確率で、彼はあの瞳の持ち主に出会う。
 それは、時に少女であり、老婆であり、そして、働き盛りの女性であり。

「……今度は、もっとマシな人生を送ってくれよ、お姉さん」

 奇跡的、とでも評すべきなのだろうか、顔には一つの傷も無いまま、女性の頭はそこにある。
 見開いたままになっている目に、瞼をそっとかぶせて、彼はその白い頬に張り付いた血糊を、親指の腹で優しく拭った。
 綺麗な人じゃないか。
 その頬にちいさく口付けを落とし、彼は再びホームへと登る。


 黒いコートの青年に気付いたものは、誰もいない。


***

「君はこの世界に、さよならしなくちゃいけない」
「分かってるわ、死神さん?」

 微笑すら浮かべてそういった少女に、黒いコートの青年は、おや、と目を丸くした。

「君は、俺がなんだか分かるのか?」
「分かるわよ。子供の私でも、自分の命がそうながくないってことくらいはね。そうなると、きっとあなたは死神さんだわ。私の命を、もらいにきたのね?」
「それはびっくりだな。全部正解だ。君みたいに笑った子は初めて見るよ。大抵、びっくりするか泣き出す」
「たぶん、私はあなたに会うのが初めてじゃないんだわ。だからこうしておちついていられるの」


 うふふ、と楽しそうに笑った少女は、女中の出した、兎の形に切ってある林檎をいじり始める。
 
 少女はある裕福な家に生まれた、“恵まれた”少女だったが、恵まれたのは少女の置かれる環境だけだった。
 少女は生まれつき体が弱く、外遊びをすることもかなわなかった。
 両親は二人とも働いていて、日中は雑務に追われる女中と二人きりで、この馬鹿でかい屋敷にいるのだそうだ。
 だからこそ、彼女は俺が来たときに、嬉しそうな顔をしたのかもしれない。
 

 “遊び相手になってくれる?”

 そういわれたときに、俺は、俺の予想が正しかったことを知る。
 残り三日の命なら、最期くらい楽しく過ごさせてやるのも“死神”の役目だろう――そう思って、俺は少女の提案に乗った。

 走して、一日が過ぎ、二日が過ぎ。
 約束の期限の、三日目。

「なあ、最初に会った日、君は自分が言ったことを覚えているか?」
「あら? どのこと?」
「“たぶん、私はあなたに会うのが初めてじゃない”だ。少し気にかかることがあるから、ぜひ聞いておきたくてね」
「それはいいけれど――ねえ、体がとてもおもいわ。これはもうそろそろ、しんじゃうってことなのかな」
「……そうだよ。明日の朝、空に日が昇る頃に、君は」

 何故だか、命の期限を告げるのが酷く躊躇われた俺に、少女はにこりと綺麗に笑った。
 よかったわ、あさにしねるのね。
 そんなことまで口にして。

「あのね、私、小さいときに――ううん、今でもなんだけど、よくゆめをみたの」
「夢」
「そう。ゆめ。――ええとね、ゆめの中の“私”は、いつもしんじゃうの」

 ろくな夢じゃないな。
 そういった俺に、わたしもそう思うわ、と少女は小さく笑った。
 その左胸にある、少女の原動機の鼓動が、だんだんちいさくなっていくのを、俺はきいてる。
 何回も、何百回も、何千回も見てきた、聞いてきた光景だ。
 
 それが少年だったり、老婆だったり、中年の男だったりしたことはあるけれど。

「ゆめのなかの“私”はね。――“ジュク”って言うところから帰るとちゅうに、車にはねられて、しぬの」
「うん」
「あとね、大好きだったおじいさんにみまもられながら、しあわせな気分でしぬの」

 相槌を打つ俺に、少女は幾つもの“自分が死ぬ夢”の内容を話した。
 そのどれもに覚えがあるようで、ないようで、俺は酷くもどかしい。
 人の死なんて、一日に幾つもあることで、俺はその“死”に何万回も、何百万回も立ち会ってきたから、少女の語るそれと、ぼやけて被る景色が幾つもあった。

「一番こわくて、いたいゆめはね。――よっぱらったおじさんに、“エキ”の“ホーム”から突き落とされちゃって、しぬの。……ねえ、死神のお兄さん?“エキ”ってなあに? “ホーム”って知ってる?」

 私、電車はテレビで見たことあるんだけど、と少女は難しそうな顔をした。
 無理も無い、彼女は外に出たことが無いから、塾も駅もホームも、分かったものじゃないだろう。

「知ってるさ。君より俺は長く生きてるからな」
「ふーん、なんだか悔しいわね」

 それでね、と少女は言葉を重ねる。

「いつもいつも、しぬときに、そばにいるのがあなたなのよ、死神さん」
「俺が?」
「そう。あなたが。だからね、私、ゆめで知っていたから、あなたを見たときにりかいしたわ」
「なるほど、不思議なこともあるもんだ」
「全くね。でも、お兄さんにあえてよかった。ずっと、ずっと誰だか気になっていたから」

 なんと返そうか、俺が悩んでいる間に、少女はにこにことしながら、取り留めもなく話し始める。

「夜は一人で、暗いから、夜には死にたくなかったの。でも、あさは明るくてすてきね」
「……それはよかったよ」
「ねえ、あっちにいったら、お友だちは出来るかしら?」
「出来るさ。みんなと一緒に遊べるよ」
「ふふ。しぬのもわるくないかもしれないわね」
「君は変わってるね」

 死ぬことにマイナスのイメージを抱かない人間なんか珍しいのに、この子はよりによって子供だ。
 まだ、遊びたかっただろうし、楽しいことも知らずに死ぬのだろう。

「今度生まれ変われたら、次はお兄さんとちゃんと遊びたいわね」
「そうか?」
「今度はね、外で遊ぶの」
「そうか」

 その日がくると良いな、と言いながらも、俺はそんな日が来ないことを祈る。
 俺に会うと言うことはつまり、そのまま、死を意味するのだから。
 少女が俺をじっと見つめていることに気がついて、俺は息をのむ。
 あの、今まで見てきた人間の中で、何百年かに一度、出会うか出会わないかの、あの瞳。

「俺」
「なあに」
「たまに、君みたいな眼をしている人に会うんだよ。何百年かに、一人いるかいないか、って感じなんだけどね」
「あら。でもその人たち」
「ああ。もう、皆死んでる」

 少女は俺の言葉に少し首を傾けて、それからゆっくり笑った。

「きっとその人たち、全部私よ」

 とくり、とくり、鼓動がどんどんと小さくなっていくのが分かる。
 さっきまで話していたのが嘘のように、少女は人形のように、動かなくなってしまった。

「君は、この世界とさよならしなくちゃいけない」

 しっているわ、と彼女が囁いた気がする。
 多分、俺は確かにあの子の前世の往生に立ち会ってるんだろう。
 なんだか、懐かしい気がしたから。
 誰も生きちゃいない部屋の中、小さく響いた俺の声は、晴れやかな朝日に溶けて消えた。
 可愛らしい小鳥の鳴き声を聞きながら、俺は少女が眠りについた部屋をあとにする。

 まだまだたくさん、見送らなきゃいけない人間がいるから。




***

「よう、久しぶりだな」
「ああ……あんたか」
「直属の上司にそれはあんまりだな」

 黒コートの短髪の青年に、中年ほどの男性が近寄っていく。
 黒い燕尾服に、黒のシルクハット。
 現代日本じゃなかなか見られないような、時代錯誤の服装だ。

「最近どうだ?」
「別にどうとも」
「そうか。今日はお前に頼みがあってな」
「仕事の追加以外なら、話だけ聞いてやる」
「可愛くねえ部下だなあ。……後輩の指導を頼みたくてな」
「後輩?」

 お前ももうそろそろ中堅どころだろ、そう言ってシルクハットの男が男の前につれてきたのは。

「こんにちは、お兄さん」
「……君、──えっ?」

 真っ黒いワンピースを身にまとった、先日見送ったあの少女。

「たまにいるんだよ、俺たちの存在を忘れない人間ってのがな。そういう人間は、判明次第“死神”になるんだ。俺達も、正体知られてるとやりにくいからな。仲間に引き込めってことだ」

 驚いただろ? と笑う上司に、青年は酷く眼を丸くする。
 今度こそ外で遊ぶわよ、と飛びつくように青年に抱きついた少女の笑顔は、死神に似合わぬほど、快活なものだった。


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