「ああほら、そういうときは俺に言ってくれってば」
自分のすぐ近くから聞こえた声に、女性はほんの少しだけ驚いたように身をすくませる。
開け放された戸棚の前に立って、女性より背の高い青年が、「で、何をとればいい?」と軽く訊ねているのだが、それは彼女にはわからない。
諸々の理由があって、彼女の瞳は景色をその網膜に映すことができなくなってしまったからだ。
真っ暗な視界の中、不安であっても、彼女の手を引いて導いてくれるその青年は、彼女の夫である。
「ごめんなさい、本を読んでいたようだったから、珈琲でも入れようかと思って」
「ほんと? その心遣いは嬉しいけどね、それで君に何かあったら、俺はどうしたら良いんだろうね?」
戸棚のものなら俺がとるのに、と彼女を脇にそっと押しやって、青年は開いた戸棚から目当てのものを取り出した。先日、新生活を始める際についでに買った紅茶の葉。青年は実のところ珈琲の方が好きだったりするのだが、彼の妻は紅茶が好みだというから、珈琲を買うふりをして紅茶の葉を買ってきていた。
「ほら、奥さんは大人しく座っていて」
「あら、でも」
「……俺の言うことは聞いてくれないのかな?」
光を失った彼女の瞳には、瞼がずっと覆い被さっている。
つい、昔のように、照れ屋な彼女をからかうために、青年は顔を近付けた。
けれど、彼の顔が、お互いの額と額がくっつきそうな程近くにあるだなんて、わからなかった盲目の彼女は、以前のように頬を染めることもない。
ああそうだ、もう見えていないんだ──。
ふと、自分の中に言い知れない寂寥と、薄暗い何かがしみこみ出すのを感じて、青年はそれをごまかすように、彼女の鼻先に軽く唇を落とす。
「も、もう! いきなり何を……」
「俺の言うことを素直に聞いてくれない若奥様へのお仕置き」
唇を落とした瞬間に、苺より赤く染まった頬に、青年はくすくすと笑みを漏らした。
記憶の中の、目の見えていた頃の彼女と全く変わらない照れ方は、青年を少し安心させた。
目が見えなくても、彼女は彼女だ──。
ほら座っていて、と、青年は彼女の手を引きながら、リビングのソファへと案内する。彼女はまだ口の中でぶつぶつと何かを言い連ねていたようだったけれど、だめ押しとばかりに彼が唇に同じことをすれば、よく熟れた柘榴にも負けないほど顔を赤くして、ソファに置いてあったクッションへと顔を埋めてしまった。
「そういう照れ屋なとこ、可愛いよね」
堪えきれなくなって、青年からは笑い声が漏れる。ばか! とお決まりの叱責もなく、ひたすらにクッションに顔を埋めているところをみると、どうやら拗ねてしまったらしい。
おいしい紅茶を淹れたら許してくれるかな、そんなことを頭の中で計算しながら、青年は再び台所へと戻った。
***
ふわふわと漂ったその香りに、彼女は思わず顔を上げてしまう。
「あら……」
「あ。機嫌は直してくれた?」
大切な人の声。先ほど、恥ずかしいことをしながらも彼女のために、戸棚から珈琲の入った缶を取ってくれたはずの、彼女の夫。
夫である青年の声がする方に顔を向けて、彼女は首を傾げた。
自分がとって欲しいと言ったのは、珈琲だったはずなのだが、部屋に漂う香りは、彼女の好む紅茶のそれだ。
紅茶なんて買ったはずはないのだけれど、と黙って考え込んでしまった彼女の頭上から、くすくすと悪戯っぽい笑い声が降ってくる。
「あはは、ごめんね? 俺のことしか考えてない若奥様へ、気の利く旦那様からサプライズってやつ?」
「……気の利く、って自分で言っちゃうの?」
「じゃ、“悪戯好きの旦那様”にでもしておこうか? 君はほら、珈琲が飲めないのに」
俺にわざわざ合わせなくても、と頭をぽんぽんと撫でて、彼はテーブルに二つのカップを置く。かちゃり、と小さく立てられた音が、カップが置かれたことを彼女に伝える。
「だって、あなたは珈琲が好きだと言ったから」
「好きだけどさあ。一緒に飲めなきゃ意味がないだろ?」
砂糖は一杯と半分だったっけ、と訊ねてくる青年に一つ頷いて、「ミルクはたっぷりね」と彼女は言葉を付け足した。
彼は「知ってる」と口にして、たっぷりのミルクをカップに注ぐ。紅茶風味のホットミルクなんじゃないか、と彼は毎回思うが、彼女はミルクたっぷりのミルクティーが好きだった。
「でも、それじゃあ、あなたはいつ珈琲を飲むの」
「お前と一緒にいる間は飲めなくても良いよ。俺は紅茶もわりと好きだから」
「……またそうやって……」
「なんで? 君が好きな飲み物なんだろ? 俺だって好きになりたいよ。で、君と共有したい」
──見えなくなって、共有できなくなった景色の代わりに。
青年はそれを口にする代わりに、優しく穏やかに彼女に微笑みかけた。
それは彼女の目には一生映らない。だからこそ、彼は微笑む。
「さてさて若奥様。それを飲んだらさっさと寝ような?」
「あ、それなら私、お風呂に入らないと」
「そう? じゃあ俺も一緒に」
「何ばかなこと言ってるのよ……」
「え? だってほら、見えないと色々大変だろ? 遠慮しなくても頭くらいなら洗うよ」
目が見えずとも、青年がじりじりと迫ってきているのはわかっていたし、からかい混じりの反面、実際にやりかねないと云うことも理解している。
「頭を洗うときはどっちにしても目をつぶってるわよ!」
「必死だなァ、……そんなに真剣にならなくても」
くっくっく、と喉の奥の方で笑いながら、「でも、入り口まではついて行くからね」と、青年は彼女の腰に手を添えて、浴室へとエスコートする。「何かあったら呼んで」とかけられる言葉は、彼女と青年が結ばれて、この家に住んでから何度も何度もかけられた言葉だ。
子供じゃないんだから、と膨れながらも、彼女は勘を頼りに青年の頬に手を添える。何だい、と少しだけ驚いたような声を漏らした青年に微笑みかけてから、手のひらに伝わる感触と温かさを頼りに、彼女は青年の頬に口付けを贈る。
口付けを落とす、というには、背伸びをして青年の頬に唇を押しつける彼女の姿は、少し無理があるだろうから、口付けを贈る、が正しいだろう。
目を見開いて、頬を赤くした青年が彼女の前にはいるのだが、生憎彼女にはそれは見えていない。けれど、頬に添えた手のひらが、先程よりも温かな肌を感じていたから、彼が照れているのは彼女にも明白だった。
「……俺に馬鹿なことする前に、さっさと入っておいで」
照れを隠すために、平静さを装って紡がれた言葉に、彼女は小さく笑みを漏らし、「それじゃあまた後でね」と声をかけて、脱衣所の扉を閉めた。
彼女の髪を乾かすのは、青年の役目だと決まっていた。
目が見えなくなってから、度々盛大な音を立ててドライヤーを落とす彼女を見かねた彼が、あきれたように提案したそれだが、実のところ、彼も彼女の髪を乾かすのは好きだったし、彼女も彼が髪に触れるのは、何とも言えずに好きだった。
***
きゃっきゃとふざけながら、彼女の髪を乾かした青年は、彼女をひょいと抱え上げて寝室へと連れて行く。
彼女は、この瞬間がひどく辛く、酷く切なくなる。
青年は、いつだって彼女の隣に眠るのだけれど──「おやすみ」と言ってから、いつもまぶたに口付けをおとした。
いつものような、人をからかうための口付けでないことくらいは目が見えずともわかる。
祈るように、赦しを乞うように、まるで壊れ物に触れるように、唇の先をそっと、彼女の瞼に触れさせる。
──私はあなたのこと、恨んでなんかいないのに。
彼女は知っている。
彼が、自分の瞳が光を失ったのは、“自分も彼女と共に彼女の国に渡らなかったからだ”と思っていることを。
隣で眠る彼が、魘されるように「俺が一緒に行けば」と寝言を言う度に、彼女は酷く悲しくなる。
彼は自分の苦しみを、私には見せてくれようとしないのだ──と。
「どうした?」
「あっ、ううん、なんでもない」
心配そうな声が、心から自分を案ずるものだと知っているから、彼女は出来るだけ綺麗に笑ってみせる。
「そう? ……おやすみ」
祈るように囁いて落とされる唇を、彼女は瞼に感じる。
「お休みなさい」
──私を護ってくれるあなたに、どうか良い夢を。
そう紡いで、彼女は彼の体を抱きしめた。
見えなくても、お互いの体温を感じることはできる。
見えなくても、私はあなたを思っている。あなたを視ている。
それが肌を通して伝わればいいのに。
そう思いながら。