「ごめんなさい……」
小さくつぶやかれた言葉に、気にしなくていい、と彼はその手のひらを握った。彼女の瞳はもう彼を映せないから、こうして態度で現すのが一番の気持ちの伝達方法になるだろう。
頭をそっと撫でれば、おそるおそると言った風に、娘の頭が持ち上がる。
その頬に手のひらを滑らせて、彼は娘のまぶたに口づけを落とした。
すっと頬に走る赤が愛おしい。慈しむように娘の髪に指を差し込み、するすると指通りのよい髪を梳く。
滑らかなこの感覚は、彼女の瞳に光がなくなった今も変わることはない。
数年前にやむを得ず、彼と彼女は一度離れた。
彼女の国の情勢があまり良くなく、彼の住んでいるこの地に、彼女の家族ごと越してくる手はずになっていたから、彼は彼女と、彼女の家族を受け入れる準備を整え、国へと帰った彼女の帰りを待った。
ついていきたかったのは山々だが、かの国は緊張状態からか、他国の人間を国に入れることを渋っていたから、彼女は笑って「待っていて」と彼に告げ。
約束した期日より遅れて一週間、十日、一月。
どれほど待っても、彼女は帰ってこなかった。
半年たったころ、彼は彼女の国の情勢が悪化したことを知る。死ぬ気で探してみたけれど、彼女と彼女の家族は見つかることもなく。
一年、彼女の国が地図から消えた。
二年、まだ落ち着かない情勢の中、彼は彼女の住んでいた国を訪ねた。そこにかつてあった景色はもうなく、薄汚れた衣服を身にまとった人の山、瓦礫、戦の傷跡が残るのみだった。
三年。諦めようにも諦めきれなかったけれど、心のどこかでは理解していた。
四年。夢に彼女が出てくることも少なくなった。
五年目、彼の家に一通の手紙が届いた。
彼女の筆跡ではなかった。けれど、そこに綴られた一文は、彼を、彼の心を動かすには十分すぎるもの。
──“五年も待たせてごめんね”
ともに綴られた数字と文字。
それは“あの日”。彼の国へ、彼女がやってくるはずだった約束の日。
わずかな希望を胸に、彼は手紙に綴られた場所へと足を運ぶ。待ち合わせは小さな村の教会。
五年前に交わした、もう一つの約束を思い出し、彼はふ、と薄く笑みを浮かべる。
それは自虐的で痛々しい笑みであったけれど、彼女の消えた五年間に浮かべたどの笑みよりも、生気がこもっていた。
約束を破るような人じゃなかった。だからこそ、心配で不安で仕方がなかった。面倒なことになったとしても、ともについて行くべきだったと後悔した。
傍らに愛しい人の温もりがない夜は寂しく、そして冷たい。夢に現れる彼女が微笑む度、これが現実なら、と思うことが何度あっただろう?
いつの間にか、生活の場所から彼女の匂いが消えて、ベッドの右半分を空ける癖が抜けて、夢にすら彼女が現れなくなったとき──彼は、諦めた。
連絡がこない。それがどういうことか、一番理解していたのは彼だ。ただ、認めなくなかっただけで。
「本当にお前なら──」
これほど嬉しいことはない。
彼は届いた手紙を震える手で握りしめ、やっとの思いで言葉を絞り出した。
*
「ごめんなさい」
一番最初に聞こえたその声に、彼の鼓動が高くはねる。遙か昔に聞いたことのある、愛しくて愛しくてたまらなかった彼女の声。
薄暗い教会の中、陽光に煌めくステンドグラスを背に、記憶の中とはほんの少し違った姿で、よく知った彼女が立っていた。
長かった髪は肩に付くか付かないか、と言う程度まで短くなっていたし、きらきらとした光をともして世界を見つめていた、あの青い瞳は堅く閉じられたままだ。
風がないから靡くこともない栗色の髪は、記憶の中と寸分変わらぬ色だというのに。
胸騒ぎは止まらなかった。
彼女の物でない筆跡の手紙。閉じられたままの瞼。真っ先にでた謝罪の言葉──。
「……見えないのか」
確信を持って問う彼に、彼女は無言で頷いた。
嘘だろ、と震えた声を彼は耳にする。それが自分の声だったなんて、最後まで気が付かなかった。
震えた声に寄り添うように、白くてしなやかな腕がのばされる。彼の頬に添えたかったはずの手のひらは、見当違いな方向に伸び、彼の肩に落ちた。
触れたのが頬でなかったことに気づいた彼女の、切なそうな顔にはっとして、彼はそのなめらかな手触りの手のひらを手に取る。
それを自分の頬に当てて、「よかった」とだけ呟いた。
それ以上言葉に出来そうにないのを、彼は知っている。
「会えて良かった。お前が生きていてくれてよかった」
「待たせちゃったね」
お互いの鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけても、彼女の頬が染まらないことに、彼は心の奥底が冷えていくのを感じ、ひとつ息を吐いた。
照れ屋で恥ずかしがり屋な彼女。前はこんなことをしようものなら、苺も負けるほど赤く頬を染めたというのに。
本当に見えないんだな──その言葉を無理矢理飲み込んで、彼は彼女の唇に自分のそれを重ねる。
輝くステンドグラスを背景に、シルエットとして浮かび上がる、重なった影。静謐で切ない二人の約束の証。
──“君が戻ってきたら、夫婦になろう”。
五年前に果たされるはずだった約束。
ゆっくりと唇を離し、彼女の顔を見つめる。
記憶の中と同じように色づいた頬に、彼はそっと微笑んだ。
幸福感と共にやってきた、透明な寂寥感の存在には蓋をする。
いまは、今は彼女が戻ってきただけで良い。
彼女の瞳が映したもの。最後に映した物が自分でなかったことが悔しいなんて、彼女の最後になれなかったなんて、そんな子供じみたことをいうわけにはいかなかった。
最後にはなれなくても、彼女の一番にはなれるから。
「五年越しだけど──誓う」
静かな教会に響くのは、優しさと愛の詰まった声だ。栗色の髪に手を差し入れ、彼はそっと身を屈める。
閉じられたままの瞼への口づけ。薄い皮の向こう側に存在していた、空を閉じこめたような色の眼球はもう存在していないけれど。
「お前の目になりたい。お前を、俺が知る中で一番幸せな女にしたいんだ」
彼女へ募っていたままの愛は、消えることなく残っているから。
「わたしの目にならなくてもいいの」
うっすらとほほえみを浮かべ、彼女は再び手を伸ばす。震えながら、怖がるように伸ばされた手のひらの先には何もないけれど、彼はその手のひらに頬を寄せた。
するりと頬を滑る片方の手のひら。ひんやりとしているのは、彼女の手が冷たいからなのか、それとも彼の頬が熱いのか。
「目になろうとしないで。わたしに貴方を使わせないで。わたしは、わたしは貴方が側にいるだけで良いの」
頬にふれなかったもう一つの手のひら。
それが躊躇いがちに彼の手のひらに触れた。
女性ならではの細いゆびが、ゆっくりと彼の指を絡める。
「あなたさえよければ、これからもわたしと──」
最後まで紡ぐことなく、彼女は急に訪れた息苦しさに驚く。
もし、彼女の目がまだみえていたなら。
愛しいものを力強く抱きしめる腕が見えていたかもしれないし、彼女を抱き寄せた彼の頬に伝う一筋の雫が見えていたのかもしれない。