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人が買った新品の本を、本人よりも先に目を通す輩を一派的には非常識者と呼ぶ。流石に棒で叩いたり、その場で説教が始まったり、隣の席から『それは人として可笑しいだろ』なんて声が飛んでくる程大げさなものではないが、今まで閉じられた世界で眠っていた文字たちの羅列からすれば、いきなり知らない男に楚々としたブラウスを暴かれた気分だろう。

細身の小説本。そのお尻。所謂結末の部分から目を通し始めた男は、「なるほど〜」未読のめごを前にして深く感嘆に滲む声を演じて見せる。伏せられた睫毛は長い。柔らかな髪質や華奢な輪郭も手伝って、めごが瞬きすら忘れて見つめる男の姿は幾らかの女性味を内包していた。

体つき自体は男のそれだ。肩幅も広く、革を纏う手だってめごより大きい。手渡した瞬間、長四角で物静かな本が幾分小さくなって見えたのは、あのアリスを縮めた不思議な小瓶とキスをしたから───ではなく、ふたりの間に男女という凹凸の隔たりがあったからである。女性の頬を包み上向かせる様な手は本を支えているだけ。そこには亡き鞠に焦がれる色など欠片としてない筈なのに、扇の影で広がった睫毛は今にも湛える夜気で漆を示し、心悲しい指差しで文字と向き合う。黒の奥には古井戸の瞳を粘着質に淀ませて。

茶に反してせっかちな店員はつい数分前、地味を帯びた飲み物だけを運び、その足で来店を報せる鈴の元へと向かった。苺パフェは追って届けるとの断りがドミノを倒す様な早口だった為、きっと、あの人は肉に包まれた根っこの部分までせっかちなのだろう。

口を付けられないままでいるココアの寂しさを視界の額縁に認めつつ、めごは周囲の茶色を遅遅と見回す。お行儀良く背筋を伸ばしたまま首だけを巡らせたものだから、壁際に掛けられた鏡に映る自分の姿が一瞬、誰だか分からなかった。関節がないのにこちらを振り向くマネキンと目が合ってしまった様な、理解に一拍を有する違和。はたして自分の顔立ちはこうであったか。

「栞が邪魔だったら取っちゃってください。どーせ後で捨…もう読み終わった本なので」

短調な男の声は軽い。横顔を刺すその真綿が、鏡と見つめ合うめごを振り向かせる。

「栞…」

依然として文字に睫毛を向けたままの男を一瞥したのち、理解の遅れている視線を落としてみると、めごの左手は一冊の本に添えられていた。ちょうど真ん中辺りから顔を出す栞。「…」暫し、考える。数分の記憶を手繰ってみれば、そうだ、書店で購入した本と男の読んでいた本とを交換したのだった。

瞳で確認するまで本のざらつきに気付けなかったのは何故だろう。今まで抱いていた意識が正しいのならめごの両手はお膝で行儀よく重なっているはずで、本と触れ合ったままテーブルに重みを預けているのはおかしい。認識、思考、感覚、全てが食い違っている。意識して指を動かせばずっと窓際で佇んでいた人形の関節で軋み、撫でる表紙の質感がひそひそ声で囁く。内緒話だ。何かを思い出しそうになるのに、撫でる指の腹は耳打つひとつひとつの言葉が拾えない。

「わ〜コレ女の子が読むにはエグい」そう短調に、ただの独り言として縫われた言葉が店内のBGMに融けたから、軽快で、やさぐれた鞠にも似るジャズがねとついて地に落ちた。ココアのカップと触れ合っていた所為で温かくなってしまった本の角を撫でる。ボリス・ヴィアン、うたかたの日々。そ、と呟くタイトルには覚えがある。この本はきっと、読んだ事がある。

古馴染みと顔を合わせる様な懐かしさを纏う本、それを認めた瞬刻、

「あなたはこのような本も、───

めごは全くの無意識で声の糸を紡いでいた。
繋げる事なく糸を切ってしまったのも、意識をしての鋏ではない。脳裏で時計の秒針が幾度かちくたく呟き、止まっていた呼吸に息苦しさを覚える頃、自分は何を言ったのか寝起きの頭にて思惟を縫う。今息を吐いたとしたら渡った時計すら忘れてしまうようで、決してそうならぬよう、決して忘れぬよう、肺を固めたまま先の言葉を反芻する。

“あなたはこのような本も”、

読まれるのですね。読まれるのですか。
言葉を紡いでいた瞬間のめごは、はたして何色の声を繋げるつもりだったのであろうか。頭部しか完成していない球体関節人形の目で、伏せた睫毛のままタイトルの一点を見つめる。こうして言葉が途切れ、つい数秒前までの自分が何をしようとしていたのか、今現在の自分は何がしたいのか、張った糸を切る様にぷつりと分からなくなってしまう事は、知らない天井をひとり見上げていたあの日から何度か経験していた。心臓のざわめきに促されて呼吸を逃がす。

あなたはこのような本も読まれるのですね。あなたはこのような本も読まれるのですか。
そう訊ねるに至る程、めごはこの男の好みを知らない。

このまま唇を噤み思惟を縒り上げていても答えなんてものが生まれるはずがない為、「読みますよ〜。というか、読むようになりました」極軽い頷きと共に返された声はある意味の救いだった。これで言葉の続きを考えなくて済む。無理に思い出さなくて済む。広がれば広がるだけ不自然になる会話の間は、自分なりの解釈で受け取ってくれた男のお蔭でこれ以上空白を生まずに済んだ。

「……そうですか」

自分から問うたくせ、返す言葉が思い付かずに俯く。そのさまを歪む粘土の目元で眺める男はつらりくすくすと笑い、しかし瞬きの内には窃笑の淀みを濾過して「大変お待たせいたしました。苺パフェをお待ちのお客様」誰の注文かと問う前にはめごにグラスを差し出す早送りの店員へ気恥ずかしそうな情けない笑顔で手を上げる。「あ、すみません僕です」声からは幾らかの申し訳なさが漂っていた。

「…、」恐る恐る上げた視線の先、喜びを最小限に止めるよう小さく両手を合わせ、ぱちぱちぱち、と可愛らしく拍手している様子からして、底に押し込められたフレークや気泡を湛えた苺のソースは男にとってのご褒美なのだろう。こんなにも愛らしい食べ物だ。寝惚け頭で自分の事さえよく分からないめごは決して口に合わないと知りながら、この色彩を味わえる舌が欲しいと心臓の鼓動で思う。───思った、ような気がする。

「あれ?めごさんココア飲みました?」

スマートフォンで苺パフェを撮影した男が針先の言葉をひとつ。

「…いいえ、まだ」

唇の瞬きは弱弱しい。白いカップに囲われた茶色にはホイップクリームの輪郭が溶け出していて、なんだか、真ん中から壊死していく木目にも見えた。この店内は茶色ばかりだ。テーブル、壁、テラス席で談笑する女性の髪、ココア、珈琲。濃淡は様々であれ柔らかい茶の真綿が空白を埋め尽くしていて、黒髪に黒い瞳を持つめごと男の輪郭が水彩の汚さで滲む。「あらら、もしかして猫舌さんだったり」めごのカップを引き寄せ、整った唇にてふーふーと冷ましてくれる黒檀の男は、右目の涙で溶かす絵の具のよう。涙彩の滲みは他を犯して輪郭を縁取り、希釈と交合いの輪を歪に広げてゆく。

「こういうのってイイですよねえ。なんだか恋人みたいで」

「…」

「めごさんに男がいたら怒られちゃいそうですけど」

内緒にしてくださいね。僕との約束。そう言って差し出されるカップの丸みは依然として熱い。

小指で契る約束とは、破る為にあるそうだ。
誰かが言っていた。いや、本で読んだのかもしれない。ただ、嬋媛とした色彩で微笑む男から温もりの茶色を受け取った時、ふと、めごの心臓はその一節を思い出した。

全てが曖昧で寝惚け眼の身体である。これが正しい記憶かどうかなんて本人のめごでさえ分からない。しかし両手で包んだ茶色の温もりが痛みとして皮膚に刺繍を残したから、ヒトとして寂しい覚悟で約束を交わすのは自身が傷付かない為にも必要な事だと、なんとなく思う。

そうして、またなんとなく、眼前で笑みを絶やさない男はこの手の話が好きそうだと思った。めご自身に言葉を縫い繋いでいく力があったのなら、それこそ時計の針がひとつふたつみっつと足を渡す頃にまで会話が続いている事だろう。心療内科、延いては精神科の医師というのは、独特の思想を持ち達観している人間が多いため、診察室で向かい合う気持ちのまま木目を挟むめごがそう思うのも可笑しくはない。

苺パフェの足元で眠る本はめごの物なのに、どういう訳か男の名前が彫られているように見える。文字は読めない。もうあの本は手元を離れてしまったのだと悟る心臓が寂し気に泣くだけ。日常の中に幾つも転がっている“ふと”はその都度めごの時計を人差し指で止めてみせるが、患者との対話で不自然な間にも慣れているのか、珈琲の氷をかき回す男はひとつとして咎めなかった。

見下ろしたカップ、温かいココア。撹拌せずとも徐々に茶色が白くなってゆく。紛れもない侵食だ。子宮に滲む男性の絵の具のように、白い鞠を染める後悔のように。

今になって恋人はいないと小さく首を振るめごに控えめな笑いを零す男は、会話として成り立たない間を挟んでもきちんと意味を理解してくれる。何故だろう。めごは唇を寄せないままでいた茶色を引き寄せた。そうしなければきっと、帰してもらえないと誰かが言ったから。唇が濡れる。汚く、茶色く、白く。



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