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ランチの時間帯も過ぎた喫茶店は静謐としていて、本を読んだり控えめに談笑する客達が各々穏やかに寛いでいた。

華やかさよりも一時の落ち着きを優先させたとみえる木目調の店内はなかなかに広く、地味な印象を持たせがちな茶の色味を深い妙味として演出している。そうした店であるから足を運ぶ客層も無風の野花なのか、騒ぐ事こそを華とする都内に構える割には忙しない空気が全く見られない。車内で幾らかの話は聞いていたが、店に関してはデザートが豊富だのココアが美味しいだのめごには確かめようのない情報ばかりであった為、せめて安息の時間だけは約束してくれる茶の色が入店して数秒の瞳には珈琲の様に味わい深く感じた。

床に伸びた白色の線を目で辿れば硝子越しにテラス席が見え、どうやら、客席まで案内されるめご達の足を温めた白は透明な硝子をすり抜けて射し込む陽光らしい。客も疎らな時間帯ともなれば通される席も広く、珈琲を二つ程度並べるだけにとどまるであろう自分達が使うのは些かの申し訳なさを抱く。

これが人間であればサラダや、或いは車内で楽しそうに語られたデザートでも並べられたのだろうが、めごは残念ながら喰種だ。男でデザートを頼むのはいつも恥ずかしいと紡いでいた彼が勇気を出せば木目が一皿分埋まるとしても、残りの空白は広い。

長居をする訳ではないため上着を脱ぐ気はなかった───のだが、奥へめごを通し自分は通路側を選んだ男がお上品にジャケットから腕を抜いたから、めごも瞬きで迷ったのちに鍵編みのボレロから静かに腕を抜いた。なんとなく、気恥ずかしい気分になる。肌が出ているわけでもない、誰かに見られているわけでもない、それなのに。

首筋を撫でた指先が粉っぽさを感じ、きっと肌色が移ってしまっているであろう詰襟を引き上げつつ椅子に腰掛けると、お冷を携えた店員が会釈と共にテーブルの脇に控えた。めごの隣にはアイボリーの物静かな鞄と椅子の背凭れに掛けられた鍵編みのボレロ。男の隣には四角い箱とその上に鎮座する簡単に畳まれた黒いジャケット。お冷を並べてから間を置かずにメモを広げる店員は、時計の歩みが穏やかな茶色と反してせっかちらしい。

木目ではないが、同じように茶色い革のメニュー表を手に取りながら、横髪を耳に掛ける男はせっかちな店員宛に早々と唇を開く。

「ブラックコーヒーのアイスをひとつと、…めごさんはどうします?」

広げた小さめなそれを此方に向けられてしまうと珈琲以外のモノが選びにくい。何せ喰種はブラックコーヒーしか口に出来ないのだ。まさかお冷で結構です等と宣う事は出来ないだろう。

「…わたしも同じものを」

店員を見上げて言うでもなく、眼前の男へ向けて言うでもなく、ただ俯いて呟くめごであったが、しかし、「いやいや、」案の定“待った”の声が掛かる。

「無理せずカフェオレあたりにした方がいいですって。あ、ココアお勧めですよ。言いましたっけ?」

めごに向けたままだった革の紙面を後ろから覗き、顔の横に掲げたまま「ほら、」と“ココア”の文字を指差して見せる男。自分はあれだけあっさりと決めてしまったのに、連れの飲み物に関してはここまで干渉してくるのだから、車内で聞いた通りココアは余程のお勧めらしかった。「……はい」逃げ損ねのめごが静かに頷く所作を見てホットココアを注文に加える男は、最後に苺パフェを頼んで革を閉じる。

深く珈琲を混ぜ込んだかのような茶の革が四角いテーブルの端に戻され、静かに佇む。会釈と共に去ってゆく店員の背を見送ってから眼前へ目を移すと、両肘を突き五指の腹同士を合わせた男がこちらを見つめていた。ちょうど人差し指を唇に当て、目が合うと小首を傾げて笑みをひとつ。柔和に細まる目元は粘土の様にぐにゃりといっそ面白い程に整っていて、生気という生気は感じられない。

自然でもあり、不気味でもあり。
この男の纏う雰囲気はとても不思議だった。

出会ってまだ数日、顔を合わせたのは3回目、───いや、いやいや、いや、二日目の2回目か。たったの2回目であるにも拘らず、お茶をする事が当たり前の流れで踵を共にした自分達は、ひょっとして少しだけ常識から逸した道を歩んでしまったのではなかろうか。めごの脳内で根を張り、宿主がやっと成人を迎える辺りであろう今に至るまで健やかに育まれてきた良識が、それこそ健やかに根腐れした喉で疑問を囁く。肺の軋む朝に知らない天井を見上げていたあの日から、身の内で籠り鉛を実らせる囁き声は不定愁訴としてめごの首を苦しくさせている。

あの日。

ある日の朝。ふと気が付いたら、網膜に覚えのない天井を見上げていた。しどけなく身を横たえる曠野で夜空を眺めるように、河の流れに身を任せる中で古い唄を口遊む女のように。

“ふと”、などという言葉を添えると恰も別の色彩に瞳を向けていた様な表現だが、今思えばあの瞬間に目が覚め、接着の解けた瞼を持ち上げたのだろう。膨らみ切らず、かといって吐き方すら忘れてしまっていた怠惰な肺の軋みと、張り付いたまま声を紡げなかった声帯は今もぼんやりと覚えている。

まだ一週間かそこらしか遡らない時計の話だ。ある日の朝、知らない天井、ひとりきりのベッド、居ない誰か。友の微笑みで顔を覗き込む違和を端緒に、浅井めごは自身の記憶と現実世界のピースがどうも当てはまらない不思議に気が付いた。


木目のテーブルを挟んでの向かい。そのずっと奥に見える、柳の立つ河辺で静かに死を迎える女性を描いた絵画の複製。それを背にしたままうっそりと微笑む“宗太”と出会ったのは、助けを求めて足を運んだ心療内科での事である。

正確に話そうと思ったら、まず初めに頼った脳神経外科の時計にも両手で触れるべきだろうが、そこでは『精神的な問題だね。こう言ってしまうのはアレだけど、最近の若い子は打たれ弱いというか気持ちの弱い子が多いように思う』と帰されてしまった為、述べておくべき重要な点はない。
強いて言うのなら医師に対する印象くらいか。彼の言葉を連ねると少し冷たい医師を描かせてしまうようだが、『私の見立てが間違っていなければね』と補足を添えた最後の一言まで、困り顔で笑う声は柔らかかった。首に下がっていた名札の写真が笑顔だったから角のない声に聞こえたのかもしれない。めごは入室から退室まで一貫して医師と目を合わせる事はなく、従って、彼の実際の顔は知らないままだが、簡易なプリンター特有の白みに紛れる浅黒い顔は決して冷たい色には見えなかった。見えなかったのに、結局、医師の顔を盗み見る勇気は湧かなかった。

そこで紹介された心療内科にて、めごのようにある日突然今までの生活に食い違いを感じてしまう人も少ない数ながら存在していると知れたのだし、状況整理をするにも頭が寝ているめごにとってはそれだけで十分な収穫である。義父から寄越された付添いと共に、淡白に診察を続ける心療内科医の元へ2回通った3回目、非常勤医師だという“宗太”と初めて診察室のテーブルを挟んだ。真ん中から分けられた黒髪に黒縁眼鏡、右目尻の泣きぼくろが印象的だった。

繰り返す。“印象的”だったのだ。

名札の医師も淡白な医師も顔を見る事はなかったのに、どういう訳か、診察室の香りを肺に迎えて数秒、扉を閉めきるより早く肩越しに振り返っていた。天秤の左から糸くずを取り上げると欠片を支える右が沈み左が持ち上がる。同じ静けさで首を傾げて笑む黒髪の青年は、めごの網膜に息苦しさを伴なう印象として残った。

違和ばかりが耳打ちをしてくる世界の中で不思議と───いや、知らず知らずの内に寄り添ってくるような青年であったが、めごは“それこそが違和である”とは思わなかったらしい。ただ胸のどこかで“不思議な気持ちにさせる妙な男だ”と薄ぼんやり思うばかり。寝起きの頭では仕方ないのだろうが、一般常識を引き合いに出して考えれば、いくら馴染みが良い色とはいえ男の車にホイホイ乗ってしまう今のめごは卒爾で警戒心の希薄な女といえた。


入店を報せるベルまで茶色を湛えている喫茶店は変わらず静かで、さして会話のないふたりの間にまだ珈琲とココアは届かない。じ、と見つめてくる視線を感じていながら、めごは睫毛を持ち上げて不思議な男と目を合わす。黒縁の眼鏡も無ければ分け目まで違うのに、彼に対する印象は変わらない。奥にはやはりあの絵画が見えて、死を待つばかりである彼女の時を額縁の中に引き止めていた。



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