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「どこへ行かれるんですか〜そこのお嬢さん」

「…、」

「あ、無視?めごさんめごさん、貴方の事なんですが」

寝起きの様な状態が続いていた。何日も何日も。昼夜寝起きだから夜も眠れない、から頭が働かない、から人の問い掛けにも気付けない。

「…?」

呼ばれた名前が意識に針を刺して数秒、ふと顔を上げてみると、真っ直ぐ続く歩道の遥か先に信号が見えて、すぐ隣からクスクスとした笑い声が鼓膜に寄り添う。枝垂れ柳のさざめく様子を思い出した。いや、思い描いた。実際に聴いた記憶はないのだから、“思い描いた”が正しい。交互に一歩刻む足だけは何となくの意識にあったのに、寝起きの頭は今になって歩道を歩いていた現実を再確認する。すう、と吸い込んだ空気がいやに久しぶりに感じて、排気ガスの苦さを味わうと同時、頭同様に寝起き状態の肺が痛みを伴って軋んだ。呼吸を拒むかのような反応だ。

青みの差す指先で喉元を摩り、柳がさざめく隣へと瞳を。
黒い車、窓から覗く男、可愛らしく手を振っていて、「今日もゆっくりですねえ」と笑っている。どういう訳か、鼓動が泣いては糸の解れる胸に、安楽の白い花が添えられた。一瞬で枯れる。

「……こんにちは、先生」

めごの声が消えかけの蝋燭みたいに儚くても空は高く、平べったい薄口の青で俯瞰して目を離さない。「こんにちは、めごさん。先日はどーも」一層人懐っこく笑む温もりから「、」萎れる花の仕草で頭を下げ目を逸らすめごに、「あ、宗太でいいですよ。休日ですからね、“先生”はお休みでして」至極軽い態度で接する男はどこまでも大らかで陽だまりを思わせるが、一方で、真水へ花を浸け続ける手にも似た加虐色を持っていた。めごは斜め下に目をやり続け、戸惑いを示す。眼前の男を“宗太”と呼ぶには言い知れぬ抵抗があった。

窓枠に両腕を掛け、その上に顎を乗せる男は寛ぐように首を傾げて微笑む。このままお昼寝でも始めそうな穏やかさに、自転車へ道を譲る延長線で車へ寄っためごは、ずり落ちた鞄を肩に掛け直して俯いた。しかし、垣根と車道に挟まれた歩道は狭い。案の定自転車の群れは“避けよう”という気遣い足るスペースを確保できないようで、男がめごの右手首を掴んで更に引く。踏鞴を踏む足に倣い、数度の瞬きを経て男を盗み見る様子は不良に絡まれた優等生にも見えるし、自身の肺を槽として睡蓮を囲う女にも見える。

「今日はどちらまで?」

引いた腕を戻し、再度顎を乗せて首を傾げる。その様子を、めごは視界の端でなんとなく確認する。モザイクの雲が切れたのだろう、ひとつ差した陽光が頬に触れ、肩が縮こまる様な気恥しさを感じた。

「自宅です。本を…買いに外へ出ていただけで」

停車したままの黒を追い越していく見ず知らずの車。やけに耳を刺すエンジン音に他人の迷惑になっている事を自覚し始めてしまう。「…上手く躱すなあめごさん、ひょっとしなくてもフラれました?」「…?」馴染みのない言葉を紡いだ男に瞬きだけで疑問を返し、静かに唇を噤んだめごは、盗み見た先にある残念そうな顔がうまく読み取れない。頬を掻き眉を下げる表情にまた瞬きを繰り返し、視線を落とす。

「いやあ、めごさんにお時間があるならお茶でもどうかな〜と思いまして」

頂いた言葉を頭の中で反芻するさなか、窓からだらりと垂れた手が服の裾を悪戯に引っ張る。こっちを見てと言っているのか、返答を急かしているのか、視線を落とし続けるめごには測るに難しい仕草であった。一層俯く視界に映る手は革手袋を着用し、袖との間から手首の筋が覗く。

「診察室で話すだけじゃ味気ないでしょ。仲良くしましょーよ、せっかく会えたんですから。ねえ?」

上がる語尾に、めごの喉は言えない否を接着剤として張り付くが、猫撫で声の誘惑は決して強引ではなかった。例えるなら、雨焼けした煉瓦の上を優雅に渡る猫の尾のようで、ゆらりと半月を描き、とっとっ、と数歩足音を殺してまた尾を揺らす。“自分の足で着いて来て”、そう誘う姿は足のみならず意思にまで天蚕糸を括り付けて来て、結果的に、尾から目を逸らせなかった者は薄暗い路地へ迷い込む事になるのだ。

頭の一室で義父が首を振った。しかし、体の全てが欠伸しているめごには滲んだ涙で厳格な姿が見えず、ただ黙り込んでは弛緩する脳内で返すべき言葉を考えるだけ。此処はそう人通りも多くない道である。ナンパの現場とでも思ったのだろう、通行人が訝し気な目で二人を見つめ、それでも制止の声を掛ける事なく薄情に通り過ぎてゆく。

実際、この後の用事は特にない。寄り道せずに帰る、という暗黙の了解が無言で首輪を引いてくるだけであり、今日は何時までに帰るだとか、誰かが訪ねてくるだとか、そういった事は一つもない。漠然としているが、夕日が哀愁を漂わせる前には自宅の門を開けよう、いや開けなくては、という意識が胸の内側で叫ぶから、めごの脳も愛想よく頷けず逡巡している。

「…、」

あの日から数日、連絡のつかない義父には許可の取りようがなく、また、彼の怒号を聞かないでいる為に取るべき選択を考えられない寝惚け頭のめごは、開きかけた唇を噤み、こちょこちょ、とわき腹を擽ってくる片手を静かに見下ろし続けた。「ね〜めごさん〜」鞄の暗闇に融けたまま返事を黙すスマートフォンを思う。

“書店へ参ります。彼には外せない用事があるそうで、私めごひとりで向かいます。どうか御心配なさらないでください。帰宅しましたらもう一度ご連絡を差し上げます。めごの名ばかり連なってしまうかしれませんが、お許しください。父からの連絡を待ちます。浅井 めご”。率先する指に全てを任せ送信したメールにもきっと、返事は来ていない事であろう。

再度裾を引っ張る手を左手で制そうとする、と───無邪気に遊んでいた手は力尽きた様に、そして糸の切れたマリオネットの様にストリと落ちる。革と車体の黒が擦れる音は随分と窮屈で、壁と本棚の間、閉塞的な空間が見えた。この道は人通りが少ない。一瞬静寂が差して雀の鳴き声が鋭い針先となり、瞬きと共に目を向けた男は相変わらず微笑んでいる。

「暗くなる前にはきちんと帰します、送り狼にもならないと約束します。お望みならその逆も勿論受け付けますが」

「、」

「なーんて。あはは。ウソですよウソ」

物静かな道だ、口元に手を添えて笑う吐息すら単音で鼓膜へ届くほど。「早く乗ってください?時間、遅くなっちゃうので」睫毛の影が縞目を差す目元、見るからに柔和なそれを細めて笑んだ男に「、…」ひとつ頷いて後部座席へのドアに手を伸ばす。「そーいえばめごさん、何買ったんですか?僕も好きなんですよ〜本。今度は書店巡りでもします?」車内にゆったり足を掛けためごは、逡巡を挟まずしてはやはり口を開けなかった。しかし、頷きたいと思う様な、意識して唇を噤む様な、妙な気持ちを思い出した。思い描いた。不思議だった。唇を開くと同時に窓の外を見る。景色が動き出す。



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