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「なーんであんな事したんです?」

「…?」

「首ですよお首!痴女じゃあるまいし〜」

廃屋か、否か、判断に困る程も煤汚れた一角にて、紙芝居の窓は止まった。
心中の風景画が極端に少ないめごにとって周囲に見覚えなどなかったが、「んも〜せっかく連れて行って差し上げたい場所があったのにこんなの、あれじゃないですか、雰囲気クラッシュ。まあ連れては行くんですけど」と扉を開けてくれた男には、意図して静止したページであるらしかった。

曇りの日、ではない。しかし、なるべく灰を好んで描いた絵の様に、どうにも酸素がぼやけている。風に従う新聞紙の一片すら湿って見え、めごは車内から立たせる足にコンクリートと細かな砂利を感じながら、ここが自宅の周辺ではない理由を一つ一つ呑み込む。
恐怖は感じていない。警戒も感じていない。見知らぬ絵の中に立たされて、見知らぬ場所に連れて行かれてしまうであろう事態に、傾げる首がない為に。夜景を観に行くのだと悟る女の心情でなければ解体工場に連れて行かれる女の心情でもなく、めごの内心には“ここが自宅への道ではない理由”しかなかった。廃屋と煤けた酸素のこの場所からでは枝垂れ柳の樹が観えず、失われた巣箱がただ懐かしい。

「ほら行きますよめごさん」

どこへ、とは訊かなかった。問わぬ刺繍の代わりに声を縫ってくれる通行人さえも、この周囲には居ないようだった。

めごの足音が数拍遅れて続く。寝起きのめごからすれば、たとえ絵画の題名にそう記されていようともたったふたりの行進を散歩とは感ぜられないが、鼻歌で四拍子を刻む男にとっては踵の弾むものであるらしく、右手にはトランクをぶらさげ、時折足の右頬と接触させては規則性を乱し、楽し気な音律に殊更陽気な演出を加えてみせる。恐らくは、楽しい、のだろう。観客に囲まれた舞台でないのなら、それ即ち監視の目がないに他ならないのだから、こうまで様子を弾ませる必要はない。それこそ演目の練習でもない限り。

虹色をくねらせる廃油の溜まりを、戸惑いなく踏んだ男の足跡が自らの爪先より大きなさまを薄ぼんやり眺めつつ、めごは新たな思考を始めてみる。

この見知らぬ道で、油絵の下書きの様な酸素をした道で、男は何を楽しんでいるというのか?
真綿にくるまれた思考───脳内の文章───を二度三度と反芻して、めごはふと、いや早速、他人事の足首を止めて緩やかに振り返った。

人気のない郊外、ぽつぽつと取り残された建物、コンクリートを割る雑草、遥か夕間暮れの足音。全く見覚えのない道である。しかし、それではどの様な道なら知っているのかと考えても、自宅から古書店へ向かう並木道か、心療内科のある子供の多い通り程度しか思い浮かばなかった。

意識的に膨らませる柔らかな肺はやはり久しく感じる。一つ思い出し、二つ思い出し、それ以上の道を探し出せなくなった記憶の手は数秒の橋を渡って、ついには燥がない喫茶店で男が背負っていたある女の絵に行き着く。行き着く、と表すよりは偶然触れた絵がその女だったといった方が適切かもしれないが、灰色に染みた油の足跡を眺望するめごの睫毛には、花瞼に写実された冷たい絵画が確かに甦っていた。

“  ”、スミレ、ヒナギク、イラクサ、ケシ、“わたし”。まったく見覚えのない絵である。そうでありながら、鬱蒼と微笑む男のあちら側でうつろを見つめる瞳が、力なくさらされた手が、耳を塞ぎたくさせる褪せた唇が、まるで短調の男すら額縁のむこうであった様に思い返されてならない。
まだ日付すら隔てていないめごの記憶の庭で、絵画の彼女は枯れほつれた花束をその両の手に抱き、褪せた輪郭さえ愛おしむ様子で細首を打ち傾けながら、ほろほろ静かに歩んでゆく。やがて辿り着いた湖の汀へ鷹揚と膝を浸すと、子をあやす母の様相で以って、めごの心に墓碑銘のようでありたいと思わせた。

───いつの間にか、短調の鼻歌はやんでいる。

「めごさん」

時計にしたならほんの数分足らずの休符であろうに、夕間暮れの足音は幾らか橙が強い。そのまま硝子の内に閉じ込めればささやかな角灯にも美しい鳥籠の鳥ともなれるだろうが、「…はい」自身の声がやけに朽葉色で男の静謐さと隔たりがあったから、未だ花瞼のこちらに佇む寡黙な女諸共、情緒の端緒は幕を閉ざした。

「なにかお話でもしましょっかあ。そうまで歩く距離ではないんですけど、今日はめごさんを知られるいい機会でもある訳ですし。もちろんオトモダチとしてね」

「…」

「僕、貴女の事まだなんにも知りません。まだ、なんにも」

それはめごとてそうだ。親指と人差し指でめごの袖を摘み、そのまま先導する男について多くは知らない。知っているのは心療内科の医師で、どこか奇体な酸素を纏っていて、大好きな苺パフェを食べない、程度のものである。寝起きの頭では取りこぼしている数字が多いとはいえ、診察でも喫茶店でも車内でも男の為人にすっかり輪郭を付与できる情報は少なく、めごにとっては笑む口端も性格も靄に隠されている。

カラスの鳴き声が酸素を刺し、肺の中にまで響いて思えたから睫毛を持ち上げたものの、それらしい暗色は見つけられなかった。目に見えないとしても何処かにいるのだろう。あるいは、めごの睫毛が緩慢だった為に、そこには既にいなかったのかもしれない。もう僅かでも早かったなら、そこには確かにいたのかもしれない。
空けた瞬きに重なり「そうだなー何を訊こう…」とした呟きがハテナマークを演じ、男が肩越しに瞳を寄越す。古井戸で鴉を煮出した、暗色の瞳を。

「お父様はお元気で?」

それはまるでたしらかにて手渡された問いだった。

「……」

めごは数秒を揉んで言葉を解し、答えに窮するまま自身の首筋へ指をやる。首か、指か、もうどちらか分からないが、冷たい。右手は男に引かれたままだ。故に自由な左手で思考を縫っている。空けた脳では男の声が文章として繰り返されるばかりで、どうも次の頁を捲ってしまえない。それでも男は穏やかな心で待ってくれているらしく、すっかり噤んだままの唇も一瞥したであろうに急かす拍子木を打たぬまま、めごの砂時計の傍らで黙し続けた。

義父は今頃どうしているだろう。めごはやっと頁を捲った脳内の右手に鉛筆を持たせ、“義父は今頃どうしているだろう”と書き綴る。ほろほろとゆったりと、静かに、絵画の女の歩みの如く一字一字を丁寧に。

───義父は今頃、どうしているだろう。

分からなかった。まるで分からなかった。義父の姿はここ暫く見ていない為だ。連絡さえ返らなくなって数日経ち、家の者も行方を掴めずにいるのだという。めごはその事について、脳内に書かれた文章として理解している。寝起きの身体には憂苦に喚く心臓もいないが、返事はこないと確かに理解していながら、今日は何処へ行く、誰と居る、何時に帰る、といった連絡を欠かさず行っていた。それは正しく、躾けられた習慣といえた。

「父は…」

「ん?」

分をだいぶ跨いだかもしれない。小路地を曲がった男がやっとの返事に瞳を寄越し、僅かに歩調を、革靴の踵を緩やかなものにしてくれる。周壁に挟まれる事でいっそう暗がりが増す。カーテンを失い窓から窓を見通してしまえる廃屋の所為で、一時、幾らかの陽光が男の頬に朱を差した。

「…父は…分かりません」

「ほう」

「数日前から…分からないのだそうです」

「ほう?」

「行方が…」

「…んん?」

ともすれば足音に覆われてしまいそうな声を枝垂れ柳然とした男は正確に聞き取ったらしい。「それってもしかして、事件的なアレだったりします?」怖気をふるう様に後ろを振り返り、時折肩を摩ってはやだやだと呟く様子からして、先程までの陽気な鼻歌はすっかり失われてしまったのだろう。睫毛を伏せたまま歩みを進めるめごに比べ、男の所作は舞台映えするほど大仰であり、いっそ踵が転がす砂利の音さえ輪郭がはっきりしている。

めごは袖を吊られている所為で手首の息苦しさを感じているものの、問いへ返答を綴る脳内はそれに対しての思考を割けない。結局は「…分かりません。瑞樹さんがすべて…対応してくれています、ので…」としか返せなかったのだが、めごにとって医師である男から「誰ですかそれ。貴女そんな知り合い居なかったでしょ」と否定の言葉が返ってきたから、認識の頁も真贋は怪しいものだった。

居ないと言われれば、居ないような気がする。先のカラスとてそうだ。声は聴こえ、確かに居るはずと睫毛を向けたのに、めごの虹彩は暗い鳥を見付けられなかった。これで枝垂れ柳の男が“カラスは居ない”と言ったなら、言ってくれたなら、めごも“あのカラスは居なかった”と肯う事が出来るだろう。めごの認識などその程度のものである。櫃の中に淡い紫が哀れに褪せた“花”が敷き詰められていたとして、“何も入ってないね”と言われたら花さえ櫃の一部と捉え直す。寝起きの頭には、事物事象の輪郭は曖昧過ぎるのだ。

あれきり唇を縫い閉じてしまっためごは思惟の沼に影を捕らわれ、幾つか続く男の質問には答えられなかった。しかし、男も男で執拗く訊ねるわけではなかった為、それはそれで構わなかったのだろう。ここは診察室ではない。そうであるなら、質問はただの雑談である。うつけた脳が空想の指で頁を捲る中、めごの足だけが規則正しく静かに静かに働いていた。


やがて男はある灰被った建物の中へ入り、辛うじて人が出入りしている様子の部屋を二つ三つ進む。そうして迷う指先もなく奥まった本棚を押すと、まるで扉と等しく開けたそれに疑問を呈すでもなく、今や袖を放した手で鷹揚と招いてみせた。「これだけ埃だらけだとガバガバなんですけどね」男の言う通り、触れた個所だけ埃は擦れてしまっている。しかし何も考えぬままただ後を着いているめごにとって、埃だらけの弊害も重要な事ではなかった。

本棚の更に奥、数歩ほど向こうにはエレベーターがあり、しろがねの反射には指紋ひとつない。めごはその扉に映る自身と目が合った。見覚えはなかった。マネキンと目が合ってしまった様な、輪郭を付し難い思いがする。「びっくりするかなあめごさん」背中を促されるまま仰視すれば、やけに高い男の身長を改めて知った。

───と、その前に。ひとつどーしても聞きたいことがありまして」

エレベーター内部に階を選択するパネルはないが、その事にも行き着く地下にも疑問を抱かないめごは、さして煩くない稼働音に鼓膜を舐められながら首肯する。男が腰をこごめた所作がやけにゆったりと映り、脳裏では見つめ合った自身の顔が今もこちらを向いていた。ひょっとしたら、男の動作は実際に緩やかなものだったのかもしれない。瞬きもなく眺める睫毛の奥をじ、っと見つめ、人差し指を唇に立てる男はそのままめごの朱唇へと指を降らせていく。冷たいめごの上唇に、冷たい男の革がしっとりと触れる。

「メリーゴーランドについて何か知ってます?」

もしもその指が上唇に鍵を掛けてくれたままだったなら、そのまま閉ざす事を言外に許してさえくれたなら、今や去った鳥の声をいつか別の場所で聴きたいと願う日は来なかったろうに。
男の指はめごの口端を撫ぜ、頬を過ぎ、素気無い壁へ物静かにつく。そうして体重を支えているのか、めごの鼓膜には革の軋む様子が音として届いた。

「……いいえ」

嘘偽りはない。綴った声も確かに、自身の朽葉色のものに相違ない。

「よね」

にこり、と、水に浸した和紙の様に微笑む男の目元は、子供の手で捏ねた粘土に似ていた。
エレベーターの扉が開き、男の黒髪がめごに残り香を渡す。糸に等しい。この香りは糸に等しい。めごの睫毛の先に結い繋がって、そちらへ目を向けるように強要してきかない。はたして男の向こうには最後と思われる両手扉があった。装飾が煩く、茶色い木目のものだった。

「はいどーぞお入りください、“V”の館にようこそ!」



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