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「え〜ちょっと車酔いするタイプとか聞いてない…ヤバかったら言ってくださいよ、もうどうしようもないですけど心の準備はしたいンで」

結局、愛らしい拍手で以て歓喜を縫っていた男は、色彩の苺パフェに手をつける事なく退店の鐘を潜った。『一口どーぞ』、そうめごに勧められた珈琲もあれ以来茶色を減らす機会は得られず、今頃バックヤードの隅で排水溝へ流されている事と思う。めごの脳裏で擦れる細かい氷の音。それがまるで、痛みに瞼を閉じる夜の様に纏わりついて離れない。

枝垂れ柳の男は今し方“車酔い”と口にしたが、実際、めごの抱える不調は決して酔いなどではなかった。

───淀んでいるのだ。色彩の苺パフェと、舌をお花畑にしてくれた茶白のココアが。胃の中で蛾が暴れ回る不快感はいっそ穿刺により空腹にしてほしい程の吐き気を催すのに、時計の針が一分二分と進んでも馴染む気配のない違和は極彩色を湛え、人間と喰種が如何に合い入れない天秤同士であるかを饒舌に語ってくれる。

右手を上げれば左手を下げる、常に“二”であり続ける天秤が“一”になるなどありえないだろう。どう頑張ったって、何個の時計を耐えたって、人の色彩は身に馴染まない。めごが喰種であり続ける限り、色彩は瞳でしか楽しめない。

バックミラー越しの視線を感じたまま窓枠の外を眺め続けていためごは、胃部に感じる不快感を確かに認めていながらも、しかし一切顔には出さず萎れた花の絵を演じ続けていた。───演じ、と言っては語弊があるかもしれないが、平生と変わらぬ絵であり続けていた。意図をして舞台上の道化でいる訳ではないにしても、移り変わる景色をぼんやりと眺めるかんばせは能面の様に変化なく、身を取り巻く苦を表情に表せない───ようだった。

もしかしたら、自分の身の不調として感じていながら頭では他人の痛みとして認識しているのかもしれない。虐げられて育った子供は別人格を形成するという。一種の自己防衛だ。それと同じで、自身の様々を切り離して考えているのかもしれない。多重人格者の生い立ちを紐解けば目を塞いで蹲りたくなる痛みがある。切り離す事は、どのような者にとっても自己防衛となり得るのである。蜥蜴の尻尾切り然り、蜘蛛の糸然り。

───…」

ハンドルと革手袋の鈍い軋みを耳にして、ふと、思い立った仕草でめごは男へ目を向けた。寝起きの子供が母の口付けに応える、病床の女が今日もむかえられた朝日に首を擡げる───そうした、まるで時を引き伸ばしたかの様な瞬きでゆっくりと、ゆったりと、鷹揚に。

この世の時計は酷く穏やかだ。寝息を思わせる呼吸音も、喉の足元から絶えず響く心音も、その全て全てが。めごは窓枠の中で瞬刻に移り変わってゆく景色を不思議に思った。ひとつ瞬きを演じれば忽ち数ページ渡ってしまう視界の中で、黒髪が美しいこの男は如何様にして歩を進めているのだろう。ひょっとしたら、漆の睫毛は景色が静止画となるまで瞬かずにいるのではなかろうか。

バックミラーに映る古井戸の瞳を、その睫毛を、虚ろな色を隠しもしないまま鑑賞すると、「何か?」走行中のさなか一瞬だけかち合う瞳、短く問われる虚ろな理由。鼓膜で受け止めていながら返答を縫わないめごへ、窓枠の景色が赤信号に捕らわれた頃、もう一度男は「大丈夫です?なーんかこう…意識がトんでいるような気がしないでもないんですが…」と恐る恐る訊ねた。

胃の中では相変わらず、胃の中で蛾を飼う蛾が飛んでいる。あの色彩達が翅を得たのだと諭せばあるいは幾分聞こえもよいだろうが、蛾の出生に彩りを添えたとて蛾は“蛾”であり、ともすれば喉元を這い上がり身の内まで鱗粉で爛れる不快感は宛ら火傷である。めごの憂い左頬を見つめる透徹な窓硝子、その向こう側に黙す歩道を数人の少女達が通り掛かった。最もめごに近い車道側を歩く少女がふと、車内に飾られた絵画に目を留める様に、睫毛を大きく開く。そうして、隣の少女の肩を叩き、「あれ、あれ、」と透徹を指し示す。

助手席の肩に手を置いて身を乗り出し、めごへそう、と差し伸ばされる指先の仄暗さを、にこやかな談笑に鋏をいれてまで凝視する少女達は知らない。雨上がりの枯葉の上へ黄色いガーベラを添える様な、硝子越しでさえ小煩い声ではしゃぎながら窓枠の中を通り過ぎてゆく。憧れとは斯くも姦しいものである。彼女達が男を知り、硝子越しの演劇に憧れを抱く十代も去り、それらが“憧憬”にまで至ったなら、お伽噺で描かれる男女の戯れにあそこまで花を散らせる事もなかろうに。

頬には触れず、曖昧な所作で横髪を掬う革へ睫毛を伏せ、めごは浅く息を吐く。知らず知らずの内に肺を詰めてしまっていたようだ。街路樹の影がワンピースの慎ましい裾を撫で、射す陽光は微かに橙を帯びている。決して足を止めてはいけない夕間暮れ。捏色を湛えた男の指先が清楚としてあるめごの詰襟に、男性の身勝手さを淫靡に彩ったままゆるりゆるりと触れる。

「めちゃくちゃチョロいタイプですよ、貴女」

そうして片手のまま器用に、寡黙な胡桃釦をひとつふたつと外してみせれば、めごは極自然と、教会の十字を慈しむ無情さで粛々と顎を上げた。それは宛ら淫靡な指で顎を掬われた女にも見え、一切の言葉を蝶葬した服従の仕草にも見えた。

もしもこれが白妙の映画だったとして、もしもこれが卯の花腐しの小説だったとして、もしもこれが蝋細工の絵本だったとしたら、ふたりの唇は理由もなく重なり合うべきだろう。血の透ける色を柔く啄み合い、睫毛を持ち上げては互いの瞳の色沢を窺い、探る様に舌先を差し出して。去ったあの少女達も確かに思い描いていたはずである。

しかし、男はそうしなかった。瞬きもなく見つめてくるめごに和紙の如く嬋媛な微笑を演じたかと思うと、早々と身を正し、須臾の間には青信号に変わった景色を早送りし始める。一拍遅れで靡いた黒髪の残り香は別れに色を着けた切なさだ。依然として糜爛を覚える腹部の違和と、楽になった首元の哀惜が言葉にならない。

“めちゃくちゃチョロいタイプですよ、貴女”。
あんなにも夜気を湛えた音吐を融かしておきながら、詮ずる所はめごの呼吸を楽にしてやっただけだ。今し方古井戸の彼に手渡された声を、なんと理解したらよいのだろう。アトリエで静かに佇み続けていたマネキン、それが人への過渡期に差し掛かる様な、そんな軋みを伴なって右手を喉元へ這わす。震える爪を胡桃釦に引っ掛けながら胸のまろみを這い上がり、やっとの事で首筋へと。幾度か探りに指先を遊ばせても、楚々としていた胡桃釦はひとつ、ふたつ、淫靡にも外され首を傾げていた。

楽になったはずの呼吸がどうしてか詰まる。肺のお部屋が、白い色の花弁で一杯になる。

なぜこうも首筋とは恥ずかしがり屋なのか、離れ離れになった襟同士を寄り添わせるめごには分からない。しかし、首のないずんぐりむっくりした体系───それこそハンプティ・ダンプティに等しい身体になれたのなら、首にまで白粉をはたき、うつろの身に不定愁訴を抱く朝など決して訪れなかったと思う。首なし鶏のマイクは振る首を失ったからこそ白黒写真で世に遺っているのだと、誰かが言っていた。

めごはシーツを掻き抱く女の絵で襟を閉ざし、走行音と交じり合う男の鼻歌に耳を傾ける。ポーリュシカ・ポーレの深い青色。冬、新雪に囲われた湖にサファイアを沈めると、ちょうどこれ程まで心悲しい色になると思わせる声の運び。いっそ痛みに等しい冷たさはしんしんと指先を悲しませ、肺に溢れる白い色の花を永遠の墓碑銘とする。彼の粗忽な声に幽かな哀愁を孕ませる異国の旋律は清閑で厳かで、まるで葬列に泣く教会の鐘のようで、おさなごの花笑みには到底届きそうもない。

すう、と肺に招いた酸素は確かに冬の虚飾を纏い、夜気にも似た仄暗さは青色を信じてやまなかったのに、睫毛を持ち上げ眺めた先は暖色の橙をまた少し濃くしていた。視線を彷徨わせ、膝元、自身の指先、彼の黒髪を眺めてみても、それらのいずれにも蝋燭の灯火が射影されている。

冬とも夕間暮れともいえないこの車内には物という物が何もない。真四角で装飾の輪郭を誇る箱と、あとは助手席に本が一冊。もしもめごが望んだなら、このまま後部座席で寝転んでしまえるほど平坦な空間だ。部屋は心の有様を表すという。ハンプティ・ダンプティはいったい何方であろう。めごはゆゆと緩徐な揺らぎにて、無意識の内に男の横顔へ手を差し伸ばす。啜り泣きの鼻歌が凪いだ。腹部では今も尚色彩の蛾が翅を打っている。めごの指先を横目で見やる古井戸の虹彩はとてもとても歓迎している風に見えない。

「首筋を。…触らせて頂いても構いませんか」

唇をほとんど動かさず、人形然とした声で訊ねるめごに、男は当然「え、…怖い」と狼狽の演目を渡った。それもそうだ、主観的に眺めたとて、客観的に俯瞰したとて、首筋の柔さを求められる秒針など歩いた覚えはない。忙しない横目に不安の影が滲むのは恐らく、こういった時ばかり青信号に迎えられる運の悪さ故か。「僕なにかしました?気にくわない事したなら謝りますんでちょっと待ってタンマタンマ!」そうして、丸みを帯びた拒絶を易々掻い潜りながら触れる、まるで死人の如く無口な指先に、情けない声を台本の台詞通り落として見せた男が、肩を縮こまらせる事でめごの体温を拒んだ。

しかし、柳の様にくたりと首を擡げた手は声帯の方へ周り、顔の割に主張している喉仏を鷹揚に撫ぜる。「ひゃわ…っ」薄気味悪い虫が喉元を這った時の、引き攣る声を絞り出してしまうのも仕方がないだろう。なにせそれだけめごの手は気味が悪いのだ。寂寥に輪郭を与えた様な、血管を一本たりとも持たない寡黙な体温。先の男を真似て助手席へ手をやり、身を乗り出し、もう一方で喉仏を摩る指先の寂しさ。

「ホントもうやめましょ?ね?ね…?」

片手にハンドルを任せ、めごの袖の屋根───汚いものにでも触れる様に───を摘んで、男はそっとそっと蛆虫の湧く手を遠ざけた。くたり、と垂れた手首の影、袖の隙間から、鈴の名を冠す特等に良く似た縫い目が顔を覗かす。枯れ木の如く細い手首をぐるりぐるり巻く硬質な糸には、覚えがある。

めごは一言「…ごめんなさい」と刺繍を綴り、アトリエに佇むマネキンの姿にゆゆとして戻った。脈を打つ首筋を撫ぜていた割には指先が冷たく、窓の額縁から射し込む暖色と相反し合って馴染まない。膝元で行儀よく重ねてもそれは変わらなかった。「びっっっくりした…」そう僅かに見返る男は咎める秒針を手放したようだが、しかし、めごの瞳が外へ向かったのを見計らった赤信号に「ええ〜今更…」とした不満を禁じ得ない。薄ら寒い車内に蛾の羽搏く耳鳴りだけが揺蕩う。ややしてまた、瞬きもなく見つめるめごの虹彩に、足を速めた窓枠のモザイクが被さる。



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