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鷹揚と唇に招いた無辜な茶白は、筆舌に尽くしてはいけない極彩色の味がした。

───、」

自らの舌の肉が割れ、裂け、蕾を脱した花の様に糜爛してゆくさまを想像する。空想の中でぷつぷつと咲くそれらの花は現実と掛け離れた場所にある花畑での色彩なのに、胃に落としても尚舌に残る痛みはやはり花を咲かせる様な針先を湛えており、めごはそっと舌先を噛んだ。

指先まで気恥ずかしげに引き下げた袖の下にて鳥肌が立つ。酷く気持ちが悪い。めごの感じる不快感を別のものに例えるとしたら、皮膚病を患った淑女が水泡だらけの左腕を掲げ、潰れる音に唇を噛みながら必死に掻き毟る秒針と等しいだろう。潰せば穴が開く。左腕は細かな穴だらけになる。蓮の花托を目にした人々が、自身の皮膚と肉の間で蛆虫が蠕動する感覚を覚えるように、ぷつぷつと舌を刺す茶白の針先はめごの白皙を蠕動して渡る。

「…熱くて飲めないんだ、可愛いなあ猫舌」

穏やかに頬杖を突いて微笑む男は、あれだけ嬉しそうに迎えていたのにも拘らず色彩の苺パフェには手を付けていないままだった。

グラスの内側を伝うアイスは時間の足並みに従順で、息を吐く隙すら与えずにつらつらと落ちてゆく。人には美味しく食べるタイミングというものがあるらしい。いつ学んだ知識かは分からない。しかし、例えば、アイスは僅かに溶けてからスプーンを入れるだとか、林檎は頬を染めてから頂くものだとか、そうした文字としての知識はいつの間にか知らない引き出しの中に鎮座していた。

ほんの唇を濡らす程度にしか含めなかった茶白のココアを、あともう少しだけでも飲むべきだ、もう一度だけ唇へ招くべきだ、身の内に住まう何方かがそう急かしても、枯死した白枝の様な手は軋んで動かない。人間に不自然を抱かせずに時計を繋げるタイミングを逃した。瞬刻の間、大事に包むカップの熱が青白い皮膚を焦がす。

「もっとフーフーしてあげてもいいンだけど、まあ、…冷やしちゃった方が早いですよねえ」

木目に馴染むめご達のそばを早足で通り過ぎたせっかちな店員。男の黒髪を僅かばかり揺らせた風は彼女の残り香だろう。せっかちが移ったのか、粘土を歪ませて笑む男はそうした言葉を紡ぐ。過ぎた秒針で自分達の絵を恋人のようだと例えておきながら、その実、めごの茶白に無地白紙の吐息を撹拌した男にとっては別段面白い戯れでもなかったらしい。茹だる鍋の中に入った猫を両手で可愛がりながら力強く押し留める手の色彩。ココアをそっとテーブルへ預け、喉元を摩る。背の高い鈍色のスプーンを指先で摘みぷらぷらと振って見せた黒壇の男は、演者宛らの手付きにて掬ったバニラアイスをめごに差し出した。血液にも似た苺ソースは器用に避けて。

「猫舌の子はすぐ火傷するっていうし、冷たいもので冷やすのが一番ですよん。特別にあげちゃいます、僕のパフェ」

お道化た道化が茶目っ気を滲ませ片目を瞑った秒針、被せるようにバックヤードから皿の砕ける音がして、一拍も置かず───いや、悲鳴に似たそれが鳴り止むより早く「失礼致しました」と喉を張る声が客席まで届く。静謐を貫く茶色の空間はどこまでも穏やかだった為に、突如眼前で手を叩かれる猫騙しにも等しい一瞬ではあったのだが、しかし、めごも男も驚愕の瞬きひとつ弾かせる事なく、ただアイスの水彩だけが鈍色を伝って木目に落ちる。一難去らずまた一難とくれば、めごの声帯はまるで外側から圧されたように凪ぐ。

「…、」

半角スペースを挟んだ何処かの席から、半ばより幾らかの年を過ぎた男性二人の静かに手渡し合う声が聞こえた。

「いやになるよ、こんなんばかり。お前も大変だろうけどさ、…分かるだろ?終わらない内から次の仕事を押し付けられる。本人は椅子から動きもしない。押し付ける方は気楽なんだよ。むしろそれを楽しんでる。俺の首が回らなくなる様を楽しんでるんだ」

「どこだってそうよ。俺んとこもそうよ。四十も半ばになってこれじゃ一生このままってやつでさ、物事は諦めが肝心なのさ」

そ、と唇に触れる鈍色の、暗く悍ましく淀む冷気を感じながら愛おしい何方かの舌先を招く様に唇を開かせためごは、疲弊に喘ぐ彼らの声を背景として聴く。

「今すぐ酒が飲めればなあ、上司の顔も忘れられるのになあ、哀しいもんだよなあ。受け入れなくちゃならない事ってのは、どうしたって受け入れなくちゃならない。無理なモンも無理と言えないんだ、哀しいったらありゃしない。お袋もこんな人生を歩ませる為に俺を産んだわけじゃないだろうに」

「いやさ、でもさ、よく考えるとよ?これって子供の頃と何一つ変わっちゃいないわけさ。だってさ、お前、」

───親に逆らえた?

プ、と吹き出す男の笑いと、育ちのよい生成り色にも似た水彩を舌に招いたのは同時だった。

「あ〜おっかし」にへらにへら。つらり。眼前の笑みと舌に広がる糜爛は黒いオーガンジー越しに眺める傷跡と酷似し、帯びた色は腐食の気配を湛えている。舌をパレットとして滲む水彩が痛みを花咲かせるから中々喉を通す秒針が掴めず、そうしためごと合わせるように男性二人の声は一拍だけ途絶えた。次いだ勢いの良い反駁の頭が僅かばかりつっかえたという事は、あの一拍で珈琲なり何なりを口に含んでいたのだろう。

睫毛の長さ故か、生まれ持った墨色故か、覗き込む古井戸ほど仄暗い瞳と凝然と見つめ合っていためごからしたら、男が何に対して可笑しさを感じたのかは分からない。分からない事に、違和は感じない。生成り色を飲み込む。もう一度唇へ寄せられる水彩と鈍色に従順な唇を開かせると、「あ〜おっかし」開き違えた台本を読むように短調の声は繰り返された。

す、と照明を纏って引かれる鈍色のスプーン。男はその手を戻さず、人差し指の背でめごの目元に触れる───仕草をする。

「昨夜はよく眠れました?」

瞬刻の間を縫う戯れに融けたのは一拍前の古井戸と転じた、不自然な程の優しさを湛える言葉であった。片目のジャックが左頬を見せたような、先とは一変した空気に黒いオーガンジーは失せゆく。前後の脈絡もない言葉と共に視界の額縁には茶色い真綿が戻り、めごの舌には糜爛の花だけが残った。塗りたての絵の具に似ためごの肌には触れず、引かれる後ろ髪もなく、ただ駒送りで引き戻される手の静かさは何も語らない。

ひとつ、空白を撫でる黒睫毛の瞬き。神経ごと花が咲くものだから味とすら言えない針先の痛みを飲み下し、めごは絵画の不変を保ったまま眼下のココアを見下ろす。苺パフェが再度キスをせがむ気配はない。男は静かな瞬きでめごの声を待つ。

「…いえ、」

そうして音になったのは、鍵を落とした方がまだ耳を刺すと思う程小さな二文字だ。俯きに倣い茶色の空白へ紛れて消えるが、しかし、男がめごの唇を注視していたからか、少しだけ笑う声と共に「すみません、分かってて訊いちゃいました」と返事が返ってくる。「酷い隈ですよ。先日お会いした以上に」ココアから木目、木目から苺パフェ、苺パフェから本、本から男へ瞳を移すと、革の鈍い手を口元に添えてくすくす微笑む絵が見えた。

男から受け取った問いを反芻するめごは、寝起きの子供がそうするようにゆったりと瞬く。何かを考え込むような顔立ちもそうだが、思惟を巡らせる時は決まって視線を落としてしまうこの仕草が、昼行灯を絵に描いためごを一層悩める子羊然とさせていた。

男が睡眠の声をひとつ縫って見せたのは、恐らく、先日の診察室をなぞっての事だろう。思い出す心臓の裏で紙の擦れる音。非常勤だからしっかりと紙ぺらを読まないといけないのだ、そう語っていた男──宗太と名乗った非常勤医師──は、何でもかんでも薬を出していたら患者をヤク中にする事と大差ないからと、めごには数日分の眠剤を出すのみで診察を終えた。前回まで診察室のテーブルを挟んでいた医師よりも長くとってもらえた時間は、『寝る時に羊を数えたりします?』『なに座?』『ちなみに僕、彼女いなかったりします』カウンセリングとも呼べない会話で消費してしまった訳だが、パキシルなんてたった四文字の眠剤しか手元に残らなくても、そう悪い時間を過ごした気にはならなかった。現にめごは、ナンパ紛いに声を掛けられた数十分前だって、男の顔をきちんと覚えていた。

萎れる花のように黙り込むめご、そのさまを男は如雨露を持っていながら水をやらない少年の瞳で見つめる。無邪気さと、興味と、哀惜と、背伸びをした性と、窃笑が綯い交ぜになった愛らしい瞳。額縁の茶を黒ずませる視線に気付いているのかいないのか、男の元にある“自分の本”へ手を伸ばしためごはひとつ瞬き、しかし目を合わせる事なく俯いたまま言葉を探す。音もなく手に取った本を、そ、と自身の胸に抱く。

「先生」

「はい?」

伸びてきた左手を一瞬だけ、薄気味の悪い虫を嫌がる目で見た男の様子には、萎靡した花のめごは気付いていないようだった。心臓に住まう誰かが気付く秒針はあったかもしれないが、少なくとも、俯きにあった瞳はその様子を映してはいない。浅井めごは気付いてはいない。

「よく眠れる方というのは…なぜ…よく眠れるのでしょうか」

そうして縫い繋がれた声はやはり、鍵を落とす音にも、鳩時計の挨拶にも、お客様のお帰りを報せる鐘の音にも掻き消されてしまう。上司の悪口で以て人生の疲れを吐露していた男性二人は仕事へ戻ってゆくらしい。感謝を渡す店員の声が彼らの背中を押した。古井戸の男がめごの小さな声を拾えるように、店員の声はまたも早口だ。

「どうでしょうね〜。夢の中でしか会えないヒトでもいるとか」

抱く本が膝にすとんと落ちた。ストローで珈琲を構いながらの言葉も、めごのどこかにすとんと落ちる。妙な感覚である。自分の中にもう一人が住んでいて、その子だけが理解を示したような、妙な感覚である。夢の中でしか会えない人がいると何故眠れるのかめごには分からないが、しかし、自身の中に居る、或いは在る何かは納得が出来たようで、頻りに忙しなく頷いていた。

「一口どーぞ」そうストローを向けてくる男に、暫しの休符を挟んで大人しく唇を寄せるめごは、これが男の飲みさしである意識は働かない。まるで朦朧とする女のような睫毛をひとつ瞬かせ、お口直しの珈琲で糜爛の花畑を冷たく潤す。唇を離すと同時に筒の中を下ってゆく色。小首を傾げた男の横髪が囁くように揺れる。

「…先生はよく、眠れますか」

「どう思います?」

この男が眠れているとはとてもとても思えなかった。めごに似た薄暗い目元が細まって笑む。湛えた色はやはり似ている。



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