今まで過ごしていたワンルームの寮よりずっとずっと広いマンション。

新調されてしまったソファに座っても、埃一つない隅っこに逃げ込んでも、すっからかんのクローゼットに頭を突っ込んでも、全然落ち着かない。タオルケットなんて全て高級ふわふわに交換されており、自宅にも関わらず居場所を作れないでいる茶々は金魚鉢を抱いて只々ぼーっとするばかり。

ああ、落ち着かない。
音の軽い電子ピアノとソファ代わりのベッド。前までのワンルームで十分だった。こんなに広いお部屋をもらったって、住むのはたった独りだけなのに。こんなに立派なピアノをもらったって、見合うだけの指なんて持っていないのに。

「回る区は自由…居合わせた喰種の駆除または足止め…第一として人間の保護…。」

新居へ押し込まれる原因となった新しいお仕事内容。どうしても不安だから決して間違えないよう何度も何度も繰り返す。今までのように誰かの指示に従うだけの任務は終わり。これからは一人で考えて誰かを、人間を護らないといけない。危険が増えるからこその待遇は小切手を握らされてポイっと獣の檻に投げ捨てられた気分。

ただ、上が茶々の単独行動を許したのは意外だった。従順で真面目に働いて来たとはいえ茶々のほぼ半分は喰種。相応の対策はされているけれど、上位捜査官もつけずに野放しなんて。危ないことをしてはやく死ねってことかなあ。

どんよりと落ち沈む睫毛。そろそろ日も暮れる時刻は安心の暗い影をたくさん増やしてくれるが、生活がガラリと変わってしまった不安だけは隠してくれない。覗き込んだ丸い金魚鉢に、今にも泣きそうな情けない顔がゆらゆらと揺れた。


――ピンポーン。

「?」

道路を行き交う車の音しか聞こえないような部屋で、お客さんの指先がぽちっと茶々を呼ぶ。ぼーっと眺めていた金魚鉢から顔をあげると、ほわんほわんと尾を引くように残る余韻。次いで、コンコンと玄関を叩く音。

ここ、オートロックなのにどうやって上がってきたんだろう。有馬さん?平子さん?それとも丸手さんかな?また茶化しにきたのかも。…でも、違ったらどうしよう。こわい。


――ピンポーン、

急かすように再度鳴り響くお呼び出しに茶々の腕が驚き、金魚鉢の水がちゃぷりと跳ねる。普段は喰種との死闘をどうにかこうにか凌いでいるのに、来訪者の音でここまでビビる茶々は根っこの部分が臆病だ。そばのモニターにお行儀よく立っている男が映っているのにテンパっている茶々は全く気付いておらず、金魚鉢を抱いたまま恐る恐る恐怖の玄関へと近付く。

「あの…どちら様で…。」

「こんばんは茶々くん、佐々木です」

「……琲世さん?」

「ごめんね、昨日の今日で。なんだか僕の方が心配になっちゃって…。…お邪魔しても平気かな?」

かちゃり、と開く扉からひょっこり顔を覗かせる琲世。予定を切り詰めてなんとかこの時間に訪れたわけだが、声からしてもう暗い茶々を思えばこの選択は正解だったと悟る。本来世話を焼くべき立場の有馬は基本的に放置であるし気にかける点も少しズレているから、今回の事だって茶々はメンタル面のケアなど少しもされていないはず。だからといって茶々の平穏の為自分が大きく役立てるとは思っていないが、それでも何かしてあげたいと思ってしまうのは同じ様な体で生きる者同士の情。

オドオドしている茶々を見て遠慮がちに笑う姿はどこまでも優しいお兄さんで、情けない困り顔のまま前髪を引っ張って中へ促す茶々にお邪魔しますと断り小奇麗な部屋へと足を踏み入れた。

「琲世さん、あの…どうやってここまで…?オートロック、大丈夫でしたか…?」

「え?有馬さんから暗証番号聞いたから、それで…。まさか茶々くん、知らなかったの?」

ソファへ座ってもらった琲世が部屋を見回す傍ら、人間と同じくお茶やお菓子を出すわけにもいかず毎度のように悩んだ茶々がとりあえず抱いていた金魚鉢を琲世の前にコトリと置く。振動に驚く金魚がくるくると泳ぎ回り、落ち着かないでいる茶々の心を上手に表して水面を揺らした。

「………えっと…はい。…でも大丈夫です、今知りました。」

「コラ、大丈夫じゃないでしょう。なんの為のオートロックなんだか…。有馬さんにも困ったね…」

突っ立ったままもじもじと前髪を弄る茶々は、お土産をテーブルに並べる琲世を盗み見ては金魚へと目を落とす。白と黒とが混じり合った琲世の髪はとても不思議でとても奇麗だ。濡れた溝鼠に例えられる自分とは大違い。綿飴のようにふわふわで、優しそうな毛先は琲世の人柄がよく表れていると思う。きっと日々辛いことが多いだろうに他人の事ばかり気にかけて、琲世自身は弱音一つ吐かない。

こんな“人”になれたらなぁと、いつだって憧れている。

「あの…。今日、僕…子供たちと遊んできて…。昨日はああ言ったけど、ゆっくりお休みできました。…心配かけてすみません。明日からも僕、がんばりますから…。」

何か話さなきゃ。前髪の玩具箱から引っ張り出した話題。いつまでも立ちっぱなしの茶々をいい加減隣に座らせた琲世が、返答の言葉を選ぶ様に鼻頭をちょいちょいと擦った。

茶々の性格からしてゆっくりなんて出来る筈がないと分かっている。
顔を見ればわかるし、もっと言えば声を聞くだけでわかる。だが、ここで嘘をつんつん突ついたって余計に茶々の精神面を乱してしまうだけ。嘘はつかない様に言い聞かせたいけれど、時として嘘は自己を支える唯一の支柱となる事を琲世は知っているから。「ゆっくりできたなら駆けつける必要なかったかなぁ」と茶化して包むしかなかった。

「ただ、無理だけはしないでね。キツいかなって思ったら、すぐに周りを頼ること。……って、また口煩くなるけど…」

「いえ、大丈夫です。喰種を確認したらまず知らせる様に言われていますし、心配しないでください。…琲世さんいつもありがとうございます。」

隣り合ったソファの上。アハハ、と苦笑いした琲世とほんの少しだけ肩が掠って、唇をむにつかせた茶々がもぞもぞと距離をあける。

他人との距離感はとても難しくて、どのくらい離れたらいいのかわからない。距離を取りすぎて丸手に文句を言われた事もあるし、子供の時なんてくっ付き過ぎて有馬さんに歩きにくいと言われた記憶がある。もっとずっと、子供の頃の話だけれど。

世の中には人間に紛れて生活している喰種もいるらしく、どれほどの距離を保って過ごしているのか本当に不思議に思う。なにも喰種と人間に限った話ではないが、ネット上のお悩み相談室でよく見かける“人間関係”という個体同士の距離感がどんなに深く想像してもピンとこない。心の距離も、体を置く距離も。

お話をするのなら、声が届く程度の距離。こんにちはと頭を下げるなら、ゴチッとぶつかってしまわない程度の距離。

心の距離に関してはこれっぽっちもわからない。今のところ、離れていれば離れているだけ安心するような気がする。気がしている。たぶん。

じゃあ、琲世とソファでお話する時の距離はどのくらいだろう?このくらい?このくらい?と考えてしまうと不安な心臓が煩くて、為になる話をしてくれている琲世をチラチラと確認しながらまあるい金魚鉢を琲世との間に置いた。相手の顔がみれて、声が届く距離。すっぽりハマるそれは糸電話の橋のようで少しだけ安心する。中でくるくる泳ぐ赤い子たちは小さな通訳さんだろうか。

琲世の話をぼんやり受け流す茶々が餌を求めパクパクする金魚を真似て、つんとした唇であむあむと遊んだ。こっそり、こっそりと。


――茶々くん、聞いてないならお説教するよ?僕の心配も大概だけど、大怪我してからじゃ遅いんだ


心配して、心配されて。
客観的に見て自分たちがどんな距離にあるのかわからないけれど、こうして気にかけてくれる人がいると肩が縮こまるようなぞわぞわ感を覚える。不快なのかその逆かはやっぱりわからない。

わからないから、

茶々は金魚鉢二つ分の距離をあけて申し訳なさそうにごめんなさいと謝った。ちょいちょいと押し付ける前髪は、腿の支えを失って安定をなくす金魚鉢に今まで薄れていた居心地の悪さが少しだけ濃くなった気がして。


近寄って、離れて、心配して、大丈夫です。

なんとなくの日常で過ぎてしまった新生活のページ。それでも、明日になれば新しいお仕事はやってくる。

琲世から並べられた言葉を一つずつ頭のメモに残し、ぐらりと揺れる金魚鉢を両手でそっと包み込んだ。


benefActor
十、又、える、ヒト


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -