しによんさんへ
-何て事はない日の嘘吐きさん
 女の子と半喰種になりたての金木
  ※金木→リゼの描写(原作の範囲内)-





「人間のお肉もスーパーやコンビニで買えたら素敵だね。食べやすい形に整えてもらえて、パックに入れてもらえて、100グラム200円のシールが貼ってあるの。食用に養殖されたものだから、お金さえ払ったなら誰にも怒られないんだよ。レジの人にも“またお越しください”って言ってもらえる」

昼下がりの公園。傷に砂利と木の葉を隠した木製のベンチ。子供の声が背景として騒めく中で、寒がりの子がそうする様に腕を摩った名前が、引き伸ばされた雨粒の様な声で呟いた。前後の脈絡はない。あるのは名前の隣に座っている青年が、実は喰種に片足を突っ込んでいる“元人間”だという事実だけ。いっそ粘性すら湛えた言葉が鼓膜に纏わりつく悍ましさを感じつつ、隣で弁当箱の隅を突いていた元人間───金木は平静を装い唇を開く。

「いきなりどう、したの」

こくん、変な所で呑み込む呼吸は不自然ではあるが、しかし、食事のさなかと考えれば自然ともいえた。事実、名前は少しも意に介した様子を見せず金木に顔を向け、曖昧に笑う。
気になるから教えてよ──僕が喰種だって気付いた?──臆病な声が呆気ないお別れを問う前に、雨粒に濡れた唇が再度言葉を降らす。

「ううん、なんにも。ただね、今読んでいる本の主人公が喰種だったから…最近、ずっとこう考えてて」

子供の声がやけに煩く聞こえて、名前の声だけがやけにぼやけて聞こえたのは、金木自身が答えの色を心から恐れていたからだろうか。一瞬の内に訪れた恐怖の秒針はしかし、一瞬の内にはもう、何事も無く去っていった。心臓は未だ酸欠に喘いでいるのに、子供の声は元気そうに燥いでいる。子供の声は今も元気そうに燥いでいる。相変わらず、金木研は日常に取り残されている。

「ごめんね、変なこと言って…。続きどうぞ。お肉が残ってるとお母さんに怒られちゃうから」

名前は促した。寒そうに腕を摩っていた手で。

「いや…───うん、」

そうして促されるまま言葉を呑み込む。張り付いた喉では“寒いの?”と問う事も出来ず、ただ己の怯懦ばかりを知り、ただ逃げ道だけを探し、ただ情けなく俯いた。

言葉尻に引かれて見下ろした弁当に、金木が口に出来る食材はひとつしかない。そのひとつを胃に入れる為、この弁当箱は膝で大人しくしているわけだが、赤茶けたソースの色で食欲をそそる肉塊は人肉ではなく、食材としては“山羊肉”と呼ばれている物らしかった。
魚や野菜、様々な食物が舌に合わなくなった今、なぜ“山羊肉”だけが胃に歓迎されるのかは分からない。馴染みのある、或いは自分でも手に入れやすい食材であれば名前の手を煩わせることもなかったけれど、どんなに細い藁にでも縋りたい状況に立たされている金木からしたら、“同種”の肉から顔を背け、『ダイエットなんて必要ないのに…』あたかも仕方なく食べて差し上げますと溜息を吐いた方が余程人間らしくて呼吸も楽だった。

ひょっとしたら人肉を喰べて育った山羊なのではないか、幾度となく頭をよぎる“勝手な想像”には、いつも目を瞑って思考をやり過ごす。例えこの山羊が人肉を糧に育っていたとして、一般的な生活を送っている名前がどうやって手に入れるというのだ。流通しているとは考えられないのだし、伝手がなければ情報の一つすら得られないだろう、馬鹿馬鹿しい。名前と肩を並べて箸を握る秒針は、自分がまだ人間であると実感できる唯一の時間。自分はまだ、人間なだけ。

本の読み過ぎにより想像力ばかりが豊かな自分に、金木は瞼を持ち上げる事を一寸躊躇する。燥ぐ声に服の擦れる音が混じった。腕を摩る様子を暗闇に浮かべながら瞼を開くと、やはり寒がりの子と同じ仕草をする名前が目に映る。今日こそ、と勇気を振り絞り上着を貸そうと思っても、自分の右手は箸を握っている事に気がついて、やめた。鼻っ面を折られた気分だ。膝で不安定な弁当箱も“今のは仕方ないよ”と言っているようで、子供の声を聴こうと遠くを見つめる名前の横顔を盗み見ながら、情けない姿は見せたくないのになあと溜息をつく。行き場を失った勇気と共に開く唇は必ずしも勇敢ではない。

「さっきの話だけど…」

「うん」

転がってきたサッカーボールは足元へ届く前に抱き上げられた。一瞬だけ合う瞳。幼い少年の虹彩は恐れを知らない。疑いを知らない。そのままでいてほしいが、どうだろう。この世界は残酷だ。去る足音に楽しげな背中、よれた砂には小さな足跡だけが残っている。俯き、箸の先で“山羊肉”を掴んだ。

「名前ちゃんは怖くないの?その…人間の肉が合法で買えたとしても、人を襲う喰種は居ると思うんだ。…たぶん」

道を歩けば幼い子供に胃袋を撫でられる。喰種と人間の間には絶対的な隔たりがあって、法律を整える事で共存の道を繋げようとしても、趣味嗜好や個々の性格、感情の沸点、人間と同程度の知能───それら“犯罪”の起因となる要素を喰種が内包している以上、人と喰種、天秤の皿がひとつに纏まる事などある筈がない。人間がいい例だ。食事に苦労せず、喰いもしない人間を殺す必要なんてないのに、“犯罪”を犯すのだから。

金木は自身の異変に気が付いた当初、名前に会いたくなかった。『顔色が悪いよ』、『食欲はある?』、『お弁当喰べて』、───言い難そうに気遣ってくれる声が重くて、食材としての名前を見たくなくて。手の平返しを白状するようだが、もしも“山羊肉”が口に出来ると知らなかったら、もしも喰種としての飢餓が名前と会う事で希釈されると知らなかったら、きっと、こうして名前と肩を並べる日は訪れなかっただろう。

膝を擦りむいたまま蹲る子供によおく似た匂い。腹の底から熱が湧き、喉元までせり上がる欲が食欲なのか何なのか、もう分からなくさせる脳内麻薬の匂い。名前には会いたくなかった。今だって、待ち合わせ場所で顔を合わせると一瞬だけ後悔する。胃に頬擦りをしてくるような赤い匂いに、一瞬だけ。

顔を上げる事が出来ないまま、遠くを眺める事が出来ないまま肉を咀嚼する金木を、名前は穏やかな瞳で見つめながら静かに唇を開く。

「…最初は怖いと思うよ。でもきっと、慣れる。東京は人も多いし今までに何人の犯罪者と擦れ違ってきたか分からないけれど、私はこうして無事に生きてるから…私にとっては誰も犯罪者じゃなかった。それは擦れ違う相手が喰種でも、きっと一緒だよ。きっと」

ゆうやらひらりと紡がれる言葉は以前と欠片も違わず大人しかった。凪ぐ海辺にも似ている。遠くへ馳せた視界の外から微かに耳打ちされる様な声だ。肉を嚥下する内側の音が異様に大きく聞こえるくらい名前の声はひっそりとしていて、燥ぐ子供の声だけが耳の奥に待針を刺す。

「名前ちゃんはいつも…運任せだなあ…」
本当に、運任せ。平和ボケ。昔からそう。

顔を上げず、困った様に笑いながら小さく零した金木に、名前は一度だけ頷いた。恐らく金木の視界には映らなかったであろう。しかしそれが正解なのだ。名前の姿は表も裏も金木の目には映らない、これが正解なのだ。華奢な手が腕を摩り僅かに睫毛を震わす。哀れ子羊となった隣人の瞳には映っていないが、名前の表情にはあの頃と何も変わらない四葉の優しさが覆っていた。天秤を恐れるようになってしまった瞳では透明の四が視認できないだけで、子羊の幸を願う名前は今も変わっていない。

「金木くんは怖い?」

「…それは怖いよ。合法とか非合法とか…どっちにしろ怖い。喰種って存在自体が僕にとって…」

───読む事の出来ない文字だから。
言葉を呑み“山羊肉”を口へ抛り込む。

「なんか…なんだろ、ゾンビみたいなものだから」

上っ面を塗り替えて落とした言葉はもごもごと誤魔化しを含んでいて、ウソを頬張ったハムスターみたいだと思った。

「…ふふ、そう考えると少しだけ怖いね。噛まれたら感染しちゃうのかな。ヒデくんがやってたゲームみたいに」

「まさか…もしそうだったら今頃大変だよ。実際に見たわけじゃないし何とも言えないけど…あくまでも印象の話。……喰種もゾンビも人を喰べるでしょ」

ある日突然外からやって来た知らない文字。それはまだ受け入れがたく、かつては単一民族であった身の内で激しく鬩ぎ合っている。異文化、異国語、移民、初めからすんなり受け入れられる人型なんてない。

喰種なんて存在していなかったらよかったのに。そうすれば、“人間”の部分を取り戻したいと思う事も、こんなに苦しむ事も、築いてきた日常を失っていく事もなかったのに。戻れるものなら人間に戻りたい、───

腰の内側を意識するたびに同じ事を考えて、何だか馬鹿みたいだ。
『気になる子が出来て…』そう話したいつかの日が恋しい。まだ遠い記憶では決してないのに、もうセピアに憧れて褪せ始めている。公園で肩を並べては淡い恋の話をして、名前の静かな相槌と幸せそうな口元を盗み見ながらふたりで夕間暮れを待ったあの日。人の恋愛話を、いや人の浮かれ話を聞いて何が楽しいのだろう、どうしてそんなに幸せそうに話を聞いてくれるのだろう、ずっと気になっていた事はどうやら、もう訊ねる機会は来ないようだ。好き、嫌い、好き、嫌い、ひとり、ふたり、ひとり、ふたり、
ひと、“  ”、ひと、“  ”、───頭の中には既に引き抜く花弁がない。花は咲かない。あの日以来、名前とはリゼの話をしなくなった。あの日以来、名前の───家族写真を眺める孤児の様な顔は見えなくなった。

思い出せば思い出す程当たり前に過ぎていった色彩を懐かしく思う。こんなにも褪せていくばかりで、本当に“ふたつの世界に居場所を持つ”なんて出来るのか───なんだか剥製にでもなった気分が胸に絡みつき、金木は膝の上へ“の”の字を描いた。軋む関節は無理矢理に動いた剥製のよう。防腐処理をしてあるだけ彼らの方がまだマシかもしれないけれど、もう元に戻れないのは自分も剥製も一緒で、そこに落ちる感情はただ悲しい。誰かの手によって滅ぼされた身からしたら尚更のこと。

───やっぱり、人間のお肉が普通に買えたら素敵だね。もしスーパーに売っていたらきっと、ヒデくんが真似するように“あー”とか“うー”しか話さなかったゾンビも日本語を勉強するかもしれないよ。だってお肉を買うには意思の疎通が出来ないと」

「それはまあ…物語としてはありそうな話だけどゾンビには無理じゃないかな…実際に存在するかしないかは置いておいて、彼らは本能で動いてるって設定だったし…どの本でもそうだよ。ゾンビには知能がなくて、感情もない」

大して騒がしくもない子供の声に揉まれ訥々と零された囀りに、「喰種にはあるのに不思議、感情も知能も」大人しい声は否定も何もなくただ頷く。陽だまりの微笑みを湛えた声は柔らかくて、柔らかすぎて、またしても燥ぐ声に混ざって消えた。

サッカーボールの真似事か足元でお散歩をする鳩達に、何も持っていないと掌を見せる仕草は拳銃を向けられた犯人の姿を想起させる。抵抗しません、大人しく従います、貴方を傷付ける武器は捨てました、───

名前は人間だ。銃を向ける人型が喰種だとしたら、どう考えたって手を上げる側で、振れるはためきは白旗しかない。「……かえって期待させるからやめなよ、」なんて、如何にもな事を言って名前の手首を掴む自分は、いったい何方に属するのだろう。親身を装って犯人確保に尽力する警官か、はたまたもう一方か。
至極申し訳なさそうに眉を困らせ“そうだね、”と鳩に謝っている様子からして、金木がその何方だとしても一つ頷いて受け入れてしまう、と思える程、名前は風に身を任せる蝶の片翅のようだった。千切れ、戻る胴体もなく静かに旅を楽しむ流浪の色彩。各地を旅する広き心に自分の事も知ってほしい、受け入れてほしい、そう望みそうになるのを、ぐっと我慢する。

ここで、喰種と天秤を分かち合ったと吐露するのもアリだろう。しかし、始めこそは良いのだ、何事も。

“山羊肉”を味わえると知って救われた。即ち人間としての幸せを得た。そして半喰種になったと告げて、もし受け入れてもらえたとしたら、手にするのはきっと幾らかの幸せと左向きの安心感だ。
一方で、誰にも内緒でいる事の安心感、嘘吐きでいる事の安心感、これらは何方も右を向いて左目だけを見せている。誰かと、名前と秘密を共有して初めて得られる安心感とは違う。二つの矢印は手に出来ない。秘密を口にした瞬間、もう右を向く事は叶わない。

右か左か、ふたつだけの枠に拘る金木を引き合いに出した上で言う。幸せなんてものは無い方がよほど幸せである。なぜなら、幸の快味を知らなければ、人は不幸を不幸とも思わないのだから。初めから無であれば天秤は傾かない。どちらかを手にするから天秤は首を傾げる。ならば同じだけの重さを片皿に、と思うかもしれないが、しかし、この天秤という人型は言葉を有し、加えて不安定な感情まで手にしている為、簡単な数字のバランスでは水平を保ってくれないのだ。手にするから失う、何も持たない手からは取り上げる玩具もないだろう。

───人間でいられるこの瞬間はきっと、僕に残された唯一の“  ”なんだ。いつかこの味にも苦痛を覚えて、知らないで居た頃よりずっと深い絶望と向き合う時がくる。それでも、人間ならそうして生きなくてはならない。“人間”だからそうして生きたい。


はあ。溜息をひとつ、小さな肉を一欠片だけ口に含む。

名前は腕を摩った。寒がりの子がそうするように。膝を擦り剥いた子供が落ちた肉片を追って蹲るように。金木は気付かない。それ即ち、


ジングシュピールへようこそ、
    ドードーは泣いている

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