harukaさんへ
-世話係の旧多と
   キジマに飼われている喰種
       ※強制給餌-既巻:re5-




神経質そうに大理石を叩く靴音と、キーの擦れる曖昧な囁きだけが、唯一この牢から出られる確かな輪郭だった。

名前は堅牢な鳥籠に囚われている。喩えでもなんでもなく、マンションの一室には大きな鳥籠がぴたりと壁を這い、罪などひとつとして侵していない名前と空とを遠ざけているのだ。部屋の造りに倣って格子の檻にもみっつの扉があるが、バスルームやシアタールームへは自由に出入りができても、リビングに繋がる扉の鍵だけはいつも唇を開いてはくれない。

もう、鍵穴を指でなぞる事すらやめてしまった。自分にとっては食物でしかない人間に、右足を差し出して屈する道を選んでしまった。抗っても力のない名前には如何にかできる現実ではなかったのだが、だからこそ、解体を好む猟奇的な白い鳩に目を付けられずに済む人間達が羨ましく思えた。飴玉を舌で転がせる幸せより一層、羨ましく思えた。

震える呼吸をブランケットで隠し、暗がりに浮かぶ二重の扉をドレッサーの鏡越しに見つめる。扉の開く音に続く鉄格子の軋みは硬く、ベッドの中で横たわって聞く囁きにしてはカーテン越しに触れる陽の様に冷たい。

「こんばんは〜…遅くなってすみません。起きてます?」

唇を開いた開閉口の向こう側、リビングとの境目より如何にも人のよさそうな面立ちの男が姿を見せた。旧多二福だ。今日も彼ひとりだけ、あの怖い継ぎ接ぎはいない、そう思うだけで滲んでくる涙は手探りで見つけた安寧をしかと抱いていて、どんな恐怖の中でさえ一欠片の拠り所を見つける精神構造は喰種も人間も変わりはしないと、気の弱そうな容貌を目にする度に強く思い知る。

唯一の救いだったのだ。右足を切り落とされる様を見て情けなくえずいてくれた、極一般的な憐憫の色が。

きっと震えてしまうであろう声は黙したまま、しどけなく投げ出していた腕で緩慢に身を起こす。神経質な靴音がして、「あーいいですよ、どうぞそのままで」次いだ声へほんの気持ち程度に頷いた名前は、暗がりの真綿に包まれる救いを目に留める。一切の乱れもなく着こなされたスーツ。ぺこ、と下げられる頭。救いはいつもと変わらない優男だ。

「今日の空、鳥がたくさん飛んでましたねえ。名前さんもご覧になりました?」

女性を飾るには大きすぎるベッドに膝をつき、身を乗り出した旧多が唐突に訊くのは恒例の事だった。キジマが居ない場合、どちらかが唇を休ませれば瞳も泳ぐ寂寞が鼓膜を刺すのだから、気まずくならないよう配慮した旧多がなんとか編み出した会話のイトといえる。「失礼します、」申し訳なさの滲む断りと同時に恐る恐る除けられるブランケットを眺めつつ、『鳥の影は見えましたか?』全ての始まりとして手渡されたいつかの言葉を思い出す。数拍の休符を挟み、旧多の手を借りて身を起こす名前はゆったりと唇を開いた。

「今日も…見えませんでした。カラスの声は聞こえていたけれど…それきりです。カーテンには何も映らなくて」

ガーゼのネグリジェ越しでさえ革の手袋は冷たい。こうしてベッドから身を起こしてもらう時、何度繰り返しても気恥ずかしそうにしている旧多の温かみとは正反対だ。裾は足元まであるのだし、別にそういった色を湛えているわけではないにも拘らず、この優男はブランケットひとつ除ける動作にさえオロオロと申し訳なさを滲ませてみせる。冷酷無慈悲であるべき白鳩とは思えない性格の丸みが、いつ殺されてしまうかも分からない名前にとっては何よりの暖炉だった。「そうなんですね…この辺りは飛ばない鳥が多いんでしょうか…」至極残念そうな、それでいて繋がる糸のない相槌を聞きながら、ブランケットでやんわりと身を包み直してくれる旧多に大人しく従う。

ここ暫く、キジマ式の姿は見ていない。忙しくしているのか、それとも興味を失くしてもらえたのか、あまり余計な事は訊ねずにいた名前には知り得ない事だが、どちらにせよ、あの継ぎ接ぎの悪魔は鳥籠に訪れていない。そのお蔭もあり右足が切り落とされる秒針はなく、過度の抑制剤に狂わされた再生力の今でもなんとか完治まで至る事ができた。

「それでは…はい、腕を回して頂いてもいいですか?」

「、…いつもごめんなさい」

「いえいえ大丈夫です、お気になさらず!これでも僕、ちゃんと男なので…あっそういう意味ではないですよ、力はありますからご心配なく、という意味です」

だから、旧多にわざわざ抱き上げてもらう必要なんてない。ないのに、「失礼しますね、足に痛みがあればおっしゃってください」やはり名前は旧多の声に大人しく従う。震える睫毛の奥には一種の信頼が芽生えていた。

鳥籠とは、自由な外から眺める分には美しきモノであるが、影の射す中に閉じ込められる者からしたらただの牢だ。格子越しの景色はどこまでも悲しい。例え愛でられる為に囚われたのだとしても鳥は愛されたいと望んだわけではない。もしも自らが望んだのなら、冷たい格子など用意されなくとも進んでそばに寄り添う。どこへも行かない。どんなに装飾された理由を窓辺に並べたって、どんなに愛おしい瞳で格子柄の愛玩動物を見つめたって、鳥が鳴いているのなら鳥籠は牢なのだ。

広くても窮屈な部屋を高い視点から眺め、ゆらゆらと穏やかな揺れに身を任せる名前は、ちらりと揺り籠───旧多を盗み見る。

───、」

そうして、いつもは閉ざされ決して開く事のない開閉口を心地良い揺り籠と共に潜った。

一瞬で世界に陽が射した様な、初めて瞼を開けた日の様な、眼の奥につん、と滲む無音の痛みを感じる。『鳥の影は見えましたか?』顔を合わす度に旧多がそう訊く様に、これもまた、陽の射さない窓辺で生きる名前にとってはいつもの事。悲しみの鳴く鳥籠と赤子の眠る揺り籠では何が違うのだろう。目が合って、気恥ずかしそうにへにゃりと笑う景色に瞬きだけで微笑み返す。「キジマさん怒ってるかなあ…」寂寞の耳鳴りに紛れて呟かれた言葉の意味を、もう一度瞬きだけで問う名前に旧多は緩く首を振り、泣きぼくろが一層の柔らかさを醸す目元で薄らと微笑んだ。

リビングを抜け辿り着いたダイニングには既に食事の準備がされていて、壁際にひっそりと立つ椅子へ降ろされる名前はひとつだけの小さな溜息で以って不安と恐れを逃がした。

このどちらの感情も、キジマに見下ろされた時に抱く色とは全くの違いがある。言葉で表そうとするとどうしたって難しいものがあるのだが、ひとりで入る廃墟とふたりで入る廃墟の間では恐怖の種類に隔たりがある様に、一言で言ってしまえば“苦しいこと”である玩弄と給餌の間にも、救いがあるか無いか程度の違いは確かに存在しているのだ。救いがあるか無いか、もっと分かりやすく言えば苦しみを齎す手が“旧多かキジマか”。眼前に立つ男が変わるだけで、心臓の波はこんなにも凪ぐ。

壁際の椅子からは離れた位置にあるテーブルが照明を反射している。白一色の面に白の強い照明が容赦なく降り注いでいるものだから、ブランケットを膝に掛けてくれる手を追う名前の目にまでも白い痛みが届いた。「寒くないですか?」気遣う問いに頷きながら、椅子の背へ両手を回す。錠を掛けやすいように、大人しく従いますと示すように。しかし、「よかった。少しお待ちくださいね」目元を細めて微笑む旧多は名前の手に一瞥すら寄越す事無く踵を返し、フードプロセッサーやシリンジが用意されているテーブルへと向かってしまった。

「また…」

「はい?」

「…、………いいえ、なんでもありません」

「? 遠慮なさらなくていいですよ。僕に出来る事は限られてますが…なるべく叶えられるよう努力しますから」

「そうではなくて…大丈夫です、ごめんなさい」

眉を下げ、申し訳なさそうにしている旧多にこちらまで申し訳ない気持ちになりながら、それでも名前は黙して両手をお膝へ戻す。

───まただ。また旧多は手錠を掛けずに背を向けた。

ひとつくらいお願い事をしたらいいのにな、そうした色を含んでいる真黒い瞳から逃げ、膝上で重ねた手をじっと見下ろして時間を流しながら、問い掛けられずにいる疑問を頭に浮かべる。一先ず諦めたらしい旧多の小さな、それでいて仕方なさの滲んだ───ように聞こえる含み笑いに紛れて、やっと、知らず知らずのうちに詰めていた息をふう、と逃がす。

最後に拘束の冷たさを手首で感じた日はやや遠く、恐らくは6回ほどカーテン越しの鳥を探したと記憶している為、こうして数字と共に思い返してみれば同じだけキジマ式とは顔を合わせていない。何故今になって些細な自由を与えられているのだろう。───油断させた中で反旗を翻すのか試されている?いかにも惨憺たる戯れを好む継ぎ接ぎがやりそうな事ではあるのだが、気持ちがそのまま表情に出てしまうらしい旧多に平生との変化がみられず、名前は隙間なく嵌るジグソウパズルのピースを見つける事が出来ない。

肉を包装している紙を丁寧に剥がす旧多の背景、天井の隅に設置されたカメラからは虫の羽音にも似た機械音が糸を引いている。以前と変わらず、そして鳥籠の寝室と同じである。食事の管理は全て旧多に任せているキジマであるが、だからといって手放した時間に全くの無関心というわけではないようで、名前が苦しそうに給餌を受ける様はその映像により確認しているらしかった。そういう嗜好、なのかもしれないが、この身は離れた場所にいても継ぎ接ぎの目に映るのだと思うと、身の毛もよだつ恐怖と振り払いようのない気味の悪さを感じた。

例えば───これは例えばの話として、もしも名前が旧多に襲い掛かったとしたら、いったいどうなるのだろう。テーブルの下で細やかな装飾を誇っているあの“箱”で殺されてしまうのだろうか。「うわー…」名前が盗み見た眼前で肉と血液をフードプロセッサーに掛けている旧多の表情は冴えないが、はたして肉塊相手にさえ抵抗を感じている男が生きている人型にクインケを振るう事などできるのだろうか。もしかしてキジマは、名前が旧多二福に対して抱く信頼と安堵を感じ取ったから、クインケで慈悲もなく亡骸にされる様な、そうした失恋にも等しい結末を望んでいるのではないだろうか。

残念ながら、いや、変な気を起こさずに幸いというべきか、RC抑制剤を投与され続けた体は未だ思う様に赫子を形成できない───であろう。逆らう気が起きず試していない為、実際のところ名前には分からない。しかし、依然としてある異様な怠さは赫包の怠惰を何より饒舌に物語っていた。逆らうことなんて出来るわけがなく、このまま黙って享受するのみ、と。

ひょっとしたら、少しでも情けを掛けてくれた旧多二福という人物を傷付けたくないからこその怠惰かもしれないが、どちらにせよ誰かを傷付ける事なんて望んでおらず、名前は黙って右足を差し出す秒針しか渡る気がないのだから、この怠惰は当たり前にして平和的な幸いである。キジマに望まれたとしても、命を天秤に掛けて命令されたとしても、誰かの皮膚を裂こうと試みる結末には至れない。そう考えると、何事にもただ黙しているだけの名前が、手錠をされない理由を探したりキジマの望みを想像したりしているなんて、全く酷く無駄な時間を過ごしているといえた。白い色鉛筆で一心に睡蓮を描き、ふと我に返って見つめ直す白紙に似ている。全く無駄な色だった。

思惟に融け込んでいたフードプロセッサーの雑音が尾を引いて止まり、名前もマリオネットの軋みで顔を上げる。旧多の横顔を目に留め、そのまま仰いだ天井は高く、もうこれが空で構わないと思えてしまう程の果てしなさだ。真四角の空。白い空。鳥だけが飛んでいない。昔の人は空が四角いと思っていたようだが、なるほど狭い空間で思考を育てていると誰しも四角に行き着くようで、名前の世界もいつの間にやら真四角の型にぴったりと嵌っていた。それこそジグソウパズルのように、初めからそう作られていたかのように。ただし、鳥だけが飛んでいない。

「あー垂れる垂れる、」聞こえた声にもう一度瞳の色を旧多へ向ける。苦戦しながらも、どうにかねとねとの液体をシリンジに移しているらしい。ゆったり瞬いた名前がひとつ呼吸を逃がす。久しく縮めたように軋む肺は長い間思惟に耽っていた事実を物語っているが、時計の針は等しく刻まれていたのだろうか。零さず移せたようで、うんうん、と納得した様子で頷く旧多を眺めていたら、自分までもが緩く頷いていた事にふと気付いて、名前は忙しない瞬きを数度扇いで目を逸らした。簡単に器具を片付ける音に続き、神経質そうな靴音が大理石を叩いて近付く。壁も床も天井も全てが白いここはどこを見たって眼が痛い。

「こうした食事の方法って、何か意味があるんですかね…」

真っ赤を閉じ込めたシリンジと輪にして纏めたチューブを掲げての言葉は、言ってしまえば名前が一番知りたいし、勇気さえあったならこっちが訊きたいくらいだ。そういう嗜好なのではありませんか、私が最初の食事を拒否したからではありませんか、服従の心を育てる為ではありませんか、あなたとの間に何かしらの情を持たせる為ではありませんか───幾つか思い浮かんだ返事は望んでいないにも拘らず刺々しさを孕んでいるようで、唇でなぞるのは些か戸惑われた。指先に顎を掬われる事で眼前に立つ旧多を見上げ、チューブがキスをせがむ前に言葉を、と唇を開く。

「…どうでしょう。わたしには…分かりません」

正解なんて無い問いだったのだ。味気なく模範的なこの答えこそが、キジマ本人の居ない此処ではもっとも正解に近しい音階だったであろう。それは例え、名前が問う側で旧多が答える側であったとしても。

「まァそうですよねえ」

首を傾げた旧多の頬に暗い色の髪が寄り添う。会話はそれ以上、続かなかった。少しだけ後悔した。

───あなたがそこに立ってしまったら、わたしの姿はカメラに映らないのではありませんか

縫えず呑み込んだ問いを追うように唇を滑り、無抵抗の舌を通り過ぎるチューブ。500mlのシリンジと接続されたそれは太さがない分呑み込みやすく、余程のヘマをしなければ食道を傷付ける危険性は少ない。

「すぐに終わらせるので…頑張りましょうね。失礼します、」抱き上げられた時と同じ断り文句が耳を撫でるが、慣れを得ても若干の吐き気を催す感覚に抗う事が精一杯で、名前は瞬きの静かな返事すら出来ずにいる。白の強い照明が邪魔をして、見上げた旧多がどういった表情をしているのかまるで分らなかった。こんな時に耳を突く虫の羽音、のような機械音。食道まで下りるチューブの気持ち悪さをどの言葉で表せばいいのか、ただ意味のない白紙を考えて秒針が過ぎるのを待つ名前は、自らの手がスーツの裾をキツく握っている事に気付いていない。

「、ぅ、…ん、く」

眉を顰めて瞼を閉じる。が、すぐに目を開けた。瞼裏の暗いスクリーンが怖い怖い継ぎ接ぎを映し出し、眼前に立つ救いを疑ってしまいそうになるから。

「ペンギンの雛もこうして餌をもらうそうですよ」

「…、?」

「ああすみません、水族館で飼われている雛の話です」

可愛かったな〜と呟く口元は薄らと笑んでいるようにも見えて、気持ち悪さに抗う秒針のさなか、確かに旧多はそういった可愛らしい動物が好きそうだと思った。鳥籠の中でしか彼を知らないのだから、これは全くの想像ではあるのだが、身に纏う柔らかな雰囲気がそう思わせたのかもしれない。あるいは、喰種にさえ情をかけてくれる優しさに触れた為か。同じように給餌を受けているという水族館の雛たちはどの様な気持ちなのだろう。切なくなったりするのだろうか。優しさが痛みに感じたりも、するのだろうか。

ちゅう、可愛らしい音で押し出される赤は焦らずゆっくりと胃に落ち、名前はチューブを噛み切ってしまわぬよう細い気を紡ぎながら、ぼやける視界で旧多の口元を見上げ続ける。チューブ共々頬を支える手が滲む涙を拭ってくれたけれど、優しさに等しい指先はかえって悲しみを大きくさせるから、黙して飼われている内はその優しさに触れたくないと思った。

『鳥の影は見えましたか?』救いとして頼っているくせに、落ちる右足へ憐憫の色を向けてもらえて嬉しかったくせに、それなのに、一時の苦しみに囁かれて“優しさなんていらない”と心中だけで紡ぐ。涙が落ちた。遣る瀬無い。本当に廃棄したいわけではなく、ただ遣る瀬無いのだ。言葉を発せない今で良かったと思った。逆にいうのなら、こうした瞬間でなければ人の行為を無下に思えない。瞬きにもう一粒涙が零れ、冷たい革の指先に受け止められる。言葉が発せない今で良かった。睫毛を伏せ、心の中でだけごめんなさいと縫う名前の時間は、毎回この繰り返しを通り過ぎなければ終わりに至れない。

「吐き気は平気そうですか?あと少しなんですが…」

視界にチラつくシリンジに目をやると確かに残量は僅かとなっている。残り全てを流し込んでもいいか、という問いであると受け止め、名前は握っていた裾を数度引いてYESを伝える───と、今になってやっと自分の手が旧多の服へ縋っていた事に気が付いた。「っ、」手首に錠がない今、自由な手は最も近しい救いに伸びてしまったのだろう。石膏の様に固まった指先を解き、焦りを伴なって服を放す名前は忙しない瞬きを繰り返す。ちゅう、全てを押し込まれる音と「あ、残念」ほんの小さな呟きは同時だった。

こんなの、優しくしてくださいと懇願しているようなものだ。立場の弱さはもちろん理解しているし、いつ如何なる時であれ従う立場である事も理解できているが、胸元で情けなく握り合う手には生地の手触りと籠った温もりが残っていて、情けないなら情けないなりに従うのみを望む名前には、綻びているとしか言えない自覚の縫い目がどうしても受け入れ難い。「はい、終わりました」抜き取られるチューブを追って、けほけほ、とした小さな咳き込みが酸素に融ける。

「ふ、っ…ぅ、」

なんだか、部屋の白さが眼の奥に刺さった。今までの背景も強い白であった筈なのに、思い返すと旧多のシルエットだけがぽっかりと浮いていて、それはまるで照明に当てた切り絵を眺め続けていたような感覚だ。未だ手に残る生地の手触りに悪い事をしでかした気持ちになり、唇へ袖口を添えたまま俯きを深めてしまう。お行儀よく膝に掛かるブランケットが輪郭から青黒く滲んだ。それはまるで、やはり照明に当てた切り絵を眺め続け、白い鉛筆で睡蓮を描いた白紙にふと目を移したような感覚に似ていた。

「今日は少し苦しそうですね。お水でも飲みましょうか」

残滓に侵食されつつある視界の外、神経質な靴音を立ててテーブルに近寄った旧多は、鈍色のトレーにシリンジを預けてミネラルウォーターを手に取る。申し訳なさそうにちらりと上目を向けた名前へ首を傾げて見せ、真綿の笑みを零し、そうして新しい故に抵抗のあるキャップを外してやる手は、傷付ける方法しか知らないキジマよりずっと優しい。濡れた睫毛の気持ち悪さを拭う勇気もなく、名前はもう一度俯く。「もしかして今日の僕、ヘタクソでした?」首を振る事が精一杯だ。

手渡されたミネラルウォーターにはキャップがなかった。先とは反してしゃがみ込んだ旧多を見下ろしながら目を探らせると、どうやら小さなそれは旧多の指に捕まったままらしい。「どうぞ、」微笑んで促してくる様子に、名前は世話を焼かれている気分になる。いや、文字通り世話を焼かれている事には違いないのだが、世話は世話でも子供に向けるような丸い気遣いを感じたのだ。ニコニコと人の良い笑みが擽ったくて逃げたいのに、その本人がしゃがみ込んでいる所為で俯いてもあまり意味がない。肩を縮こまらせたまま口にしたお水は冷たさを感じる間もなく喉を過ぎていった。

「…名前さんは大人しい方ですねえ」

ほんの一口二口しか減っていない透明を受け取り、キャップを閉め直す旧多は猫の尻尾の様な声でぽつりと呟く。名前が揺らす緩い瞬きが問いを返していると分かっているから、薄くて整った唇は続けて言葉を縫い繋いだ。

「ほら、僕らが出逢うのは気性の荒い喰種が多いですから、こうして会話をできている事がまず信じられなくて。皆がこうなら仕事も楽なんですけどね…」

“わたしが出逢うのは気性の荒い白鳩が多かったから、その中でも穏やかで気弱な性情を持つあなたに妙な情を抱いた。白鳩が皆こうであれば良かったのに。”

言葉のパズルを組み替えつつ内心で相槌を打つ。今までずっと思ってきた事ではあるけれど、この言葉を聞いて一層“この人は白鳩に向いていない”という思いが強まった。鳥籠から出られない、抗う勇気もない、そんな名前から心配をされるなど心外な話かもしれないが、ゆくゆくは廃棄される運命である人型と普通に雑談をして、あまつさえ『鳥の影は見えましたか?』『寒くないですか?』なんて気遣いまで見せるのだから、いつか寝首をかかれてしまうと憂慮するのも当たり前だろう。

来た時と同じくブランケットで身体を包んでくれる旧多に大人しく従う名前は、涙ぼくろに掛かる睫毛を眺めながら何かを言いかけて唇を開き、そして閉じた。結果的に言葉を返せずに終わっても旧多は咎めない。これが他の白鳩であればそうはいかなかったであろう。噂で聞いた拷問の話は恐ろしかった。咎めを受けず優しく抱き上げてもらえるのも、ひとえに相手が旧多だからだ。

「痛くはないですか?」「はい」「それじゃあ気持ち悪くは?」「ありませんよ、…大丈夫です」揺り籠によく似た安らぎは心地良い。しかし、椅子の脚元で寂し気に立つミネラルウォーターを俯瞰しひとつ瞬くと、もう幾つか短針が進んだ頃に旧多は去ってしまうのだと悟った心臓が、まるで言葉無きおさなごの様に声を殺して泣いた。ふと、とおりゃんせの歌が思い浮かぶ。名前の心情に優しく寄り添う仄暗い夕間暮れの童謡。

そうして、また唇を閉ざすのであろう開閉口を心地良い揺り籠と共に潜った。
一瞬で世界に影が射した様な、初めて瞼を閉じた日の様な、眼の奥にじんわりと滲む無音の傷みを感じる。『鳥の影は見えましたか?』顔を合わす度に旧多がそう訊く様に、これもまた、白い真四角へ思考を行き着かせた名前にとってはいつもの事。

───、」

ああ、鳥籠へ戻ってきた。次に会うのは恐ろしい継ぎ接ぎかもしれない。そう思うと旧多の首に回している腕の力さえ抜けてしまうようだ。今日の始まりを繰り返す様に近付くベッドが怖くて、でも縋れる糸は何にもなくて、今日一日が幸せで終われた事に感謝し唇を噤む。胸が締め付けられる切なさに眉を下げた名前を見たからか、同じように眉を困らせて見せる旧多に心配しなくていいと瞬きで伝えたつもりだけれど、返ってきた笑みは過剰なまでの痛ましさを湛えていた。

「…いつもありがとうございます」

ベッドへ柔らかく座らせられる軋みの中でぽつりと呟く。何も珍しい秒針ではない、それこそいつもの事。だから、「いいえ、お気になさらず」角のない声で答えた旧多も敷かれたレールを歩いたまでであり、柔和な困り顔も型紙が用意されたものである。要するに、鳥籠の中で起こるやり取りは繰り返しているのだ。

格子の中に時計はなく、そうとなれば時間を確認する術はないのだが、待ち合わせの予定も帰宅に合わせて食事を仕上げる必要もない名前にとってはどうでもよかった。しん、と眼の奥を刺す耳鳴りに耐え、気付けば触れ合ったままの右手へ目を移す。望んでこうしているわけではないとはいえ、両手で包まれた右には革の冷たさが滲んで伝わり、膝の上で温まっている左より酷く心地が良い。睫毛を持ち上げた先で交わる瞳の色、一拍置いてへにゃりと笑む目元は確かに救いそのものであった。一方はベッドに腰掛け、一方は手を取ったまま見下ろしている様子は、どこかの小説やお芝居の中にて散々使い古された絵だろう。

旧多が足の代わりとなってくれたお蔭で用無しとなっていたルームシューズへ爪先を通す。寒いだろうからと、あの時も困った様な笑顔で贈られた物だ。もこもこの優しさはまだ冷たい。夜気を抱え込んでいて、温かくなるまで待ったら?と囁きかけてくる。どちらかが唇を休ませれば瞳も泳ぐ寂寞が鼓膜を訪れる、はずなのだけれど、革の肌に温もりが移るまで言葉を紡がずにいた今は、無理に話題を探す必要性を感じない程度には穏やかな時計を渡っていた。

両手共々右を引き、頬でも寄り添えたくなる気持ちに首を振って立ち上がる。ただ立ち上がっただけなのに、まるでそうする事が当たり前の様に肩を支えてくれる両手はガーゼのネグリジェ越しでさえ温かく感じて、代わりに夜気へ触れる右手がやけに冷たい。「大丈夫ですよ、足はもう…繋がっています」「すみません、つい反射で…」あはは、旧多らしい乾いた笑みに瞬きだけで返す名前は、いよいよ終わってしまう今日に名残を惜しみつつ、寒がりな手を胸元で組む。せっかくベッドへ導いてもらえたのに、お見送りがしたいと足を立たせるのも、切り落とされる日から遠ざかっている今ではいつもの事だ。

荷物は全て鳥籠の外にある為、忘れ物の確認に足を止める必要がなくて少しだけ寂しい。旧多は柔和でどちらかといえば女性らしい顔立ちをしていても、本人が事あるごとに主張する通り女性である自分よりずっと背も高くて、名前はなんだか、見上げた分の身長以上の距離を感じた。格子の中で知れる旧多の事など一握りにも満たないのだから、こうして感じた距離は決して勘違いなどではないのだろう。歩幅を重ねて歩みつつ、なんとなく、扉から入る光に墨を増す黒髪へ触れたくなる。けれど、足を止め、手を伸ばしてまで触れてもいい色には思えない。

見送り人に促され、開け放たれたきりの開閉口を潜ろうとした旧多は、「あ、」ふと足を止めて名前を振り返った。格子の扉に添えられた手が革の軋みを伝え、蝶番はキィ、と鳴く。

「一応、明日の夜も会いに来ようと思っていますが、何か必要なものはありますか?」

もう一度鳴いた蝶番の声と重なった言葉に、理解が少し遅れた名前はその分だけ拍を置いて首を傾げた。ぱちぱちと瞬く目元がどうにも不思議そうなのは、このような事を訊かれたのは初めてだからだ。

可愛らしいブランケットや、今まさに足先を温めてくれているルームシューズは名前が望んだものではなく、全て旧多がキジマの許可の元で買い与えてくれたもの。まさか直接的に望みを訊ねてもらえるなんて思いもしなかったから、瞬いて視線を落とした名前は大いに戸惑った。もじもじと遊ばせ合う指が自己主張の弱さを如実に表す。

「あの…」

「はい」

「キジマさんに……叱られたりはしないでしょうか…」

「キジマさん?」

リビングから遊びに来る照明は白くて目に痛い。薄暗く淀んだ鳥籠には毒にもなり得る鋭さだ。名前は、不思議そうにキジマの名をなぞった旧多を見上げもう一度「キジマさんは…」と呟く。恐怖を体現している人物である、継ぎ接ぎの名を。しかし、

───ああ、死にましたね」

また、理解が遅れた。
旧多の零した聞き慣れない言葉に、また、理解が遅れた。
名前は睫毛を二度瞬かせ、三拍目でゆうやりと首を傾げる。

「……死、?」

「はい。といっても、もう一週間ほど前の話ですよ」

「…、?」

理解が追い付かない。
世の中の常識を再確認させるような口調は穏やかで、難解な早口などでは決してないのに、どうしても言葉の理解が追い付かない。呑み込んで“はいそうですか”と頷くには、縒り合わせて来た糸を疑わなくてはいけない点で不都合が多すぎたのだ。

旧多を見上げている筈なのにシルエットだけがぽっかりと浮いていて、それはまるで照明に当てた切り絵を眺め続ける気分に似ている。白の色が目に痛い。いつもと変わりない柔らかさで首を傾げる優男は紛れもない救いだった、はずの者だった。

「それなら…どうして私は…」

掠れたまま酸素に溶ける名前の疑問も当たり前というものだろう。キジマ式が存命していないのであれば、旧多が全く同じ糸を紡いでいく理由など何処にもないのだから。自分勝手な期待だと重々承知しているが、キジマとは性情が異なって見えた旧多の事、何かの不幸で継ぎ接ぎの命が落ちた時にはきっとこの鳥籠から手を引いてくれると思っていた。助けてくれると思っていた。

震える声で、また微かな勇気で疑問を手渡した名前の眼前、頬に掛かる横髪を耳へ預けた旧多が薄っすらと、曖昧に持ち上がった口角のまま理由の糸を紡ぐ。優しい瞳には瞬きの気配がなく、どうしてか直視が出来ない。

「いや、どんなモンかと思って」

そうして耳に届く言葉は、なんの重みもないただの興味を表すものだった。
顔を覆って俯く。頭では分かっている、勝手に信頼をして勝手に期待をしていたのは自分であり、あくまでも飼われている側の鳥が外を望む事が許されないのは分かっている、頭では分かっている。しかし、繰り返すようだが、優しさの滲む救いならきっと鳥籠から手を引いてくれると信じていたのだ。その先に待つのが廃棄であろうと、空の下へ導いてくれるのはあの腕だと信じていたのだ。

「鍵も開いたままだったンですけど、気付きませんでした?」

信頼と期待を縒り合わせ過ぎて、手の届く距離にあった自由に瞼を閉じていた。

“鳥の影は見えましたか?”
“鳥はご覧になりました?”

いつから影の言葉を聞かなくなっただろう。思えば見付けた変化は幾つもあったのに、鳥籠は導かれなければ出る事が出来ないものと思い込んでいたから、白紙を眺めるよりも無駄な思惟など巡らせないようにしていた。白い紙に白い色鉛筆で描いた睡蓮が見たいと思ったなら、黒の色鉛筆で薄く塗りつぶしたらいい。そうして、知恵と行動を伴なって形の尻尾を捕まえたらいい。それだけの話だったのに。

訊かれない事には答えようがないですよね、と言わんばかりの態度を見ていれば、自分がどれほど飼い慣らされた思考をしていたのかを痛恨する。ふらついた名前の肩を支える旧多の手。ガーゼのネグリジェ越しに感じる革の感覚は温かいと思いたかったけれど、椅子に座らせられた死体の様に冷たかった。

「わたし…どうしたら、…」

頼りない声は旧多にも伝わっているはずだが、つらつらとした曖昧な笑みしか返してもらえない。鳥籠の時間は繰り返す。先と同じように名前を横抱いた旧多は、リビングの明かりを背にしたままベッドへ歩みを進め、遡った秒針では繋ぎ合っていた手で寂しく顔を覆い続ける名前を見下ろした。こんな時でも泣くばかりで抵抗のひとつも見せない。力加減を誤らない様になんて喰種相手にはあまり持たない気遣いだが、それでも柔い腿と背を優しく支える旧多は泣きぼくろが人の良さを偽る目元を綻ばす。「キジマさん怒ってるかなあ」笑いながら囁く言葉に首を振る名前は可哀想な程脆弱だ。

「ではこうしましょう。僕はまた明日、同じことを訊ねます。名前さんは何と答えるか考えておいてください」

「明日…?」

一緒に倒れ込んだベッドの上、『鳥の影は見えましたか?』いつかの日に聞いた柔らかい声のまま旧多は微笑む。重力に従って垂れた髪を耳に掛け、その手で名前の手首を縫い付ける様からは、今まで曖昧だった上下関係を言葉がなくともはっきりさせていた。

明日も何も、欲しいものはひとつもない。名前の時間は今日で止まってしまったに等しく、瞬きをしていられる秒針が明日まで続いていくとはどうしたって思えないのだ。また来ますなんて約束を手渡されたって、待っていたらいいのか、空を求めて逃げ出せばいいのかすらわからない。擦り合わされる鼻先になおさら焦燥が募る。どうにもならない気持ちから顔を覆おうとしても、たいして力の込められていない手を振り払う事すら出来なかった。

つらつらと、薄気味悪く笑う旧多は実にあっさり身を起こす。女性を飾るにしては大きなベッドが軋み、男性と女性を飾る事に些かの不満を挺した。薄い生地の下で胸を上下させる名前を憐憫と悦の宿った目で見下ろして、遠くの子供へそうする様に手をヒラつかせてみせる。さようなら、また明日。できれば会いたいので待っていてくださいね。手渡した約束の行方については一言も添えず、不満げな軋みと共にベッドを降りた。

しどけなく身を起こし、“待って”と呼び止める事すら出来ない名前は、閉まる開閉口を最後まで見つめ続ける。鍵は掛けない。大理石を叩く靴音が遠ざかる。鍵は掛けなかった。名前は試されている。

『笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑?』

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