阿月さんへ
 -我儘な女の子と旧多
        既巻:re5-




名前から見る朝は、頼んでもいないのに我が物顔で訪れる春と酷似している。どれほど我儘を言ったって、ずっとくっ付いていたい人とのお別れを清楚なお顔で強要してくるからだ。服を着なさいと指図する朝日が嫌いだった。額縁の涙膜を通り、素肌を突き刺す光に法悦の兆しはない。


「あはは…それは大変ですね…早めに伺った方がいいですか?───はい、…」

電話をしながら片手でシャツの釦を留める旧多を邪魔するように、名前は整った隊列を下から順に外していく。見上げたお顔はこれといって色のない無表情なのだが、声だけは首に巻きついた真綿の優しさで微笑んでいて、もうどうしようもない愛おしさが心臓を苗床として痛々しく花開いた。

あの手で酷く、いっそ乱暴に引き抜いてくれたなら夕間暮れまで倒れ伏して過ごす時計稼ぎにもなっただろうに、仄暗く淀んだ如雨露で水やりをしてくる男はどこまでもどこまでも愛おしく、愛欲に泣く心臓は残念ながら傷付けてもらえない。恨めしく思いながらパタパタ、と踏み鳴らす足はこっちを見てと最愛を呼び、そうしてかち合う瞳の戯れに青一色の水彩と等しかった能面の口角がようやっと持ち上がる。

昨日と変わらぬ寝室で目覚めた名前が額縁を隠すカーテンを戸惑いの指で引いたのは、今を刻む秒針からつい数十分前のこと。伸びて少しだけ跳ねた襟足、眠いなあとぼやく声、触れ合いの夜を手放さなくてはならない寂しがりには全てが愛おしかった。

時計の針を指先でくるくるすれば瞬きの内に夜を取り戻せる、そんな優しい世界だったらいいのに。なんて寿命の無駄遣いに等しい願い事を、雨の朝でも晴れの朝でも額縁越しに目を伏せてしまうのは仕方がないだろう。呼吸すら儘ならない夜に愛してもらえたなら、傍迷惑な朝が下着を片手に窓を叩く。だあれも頼んでなんか、いないのに。

額縁の関所を抜けて足元に届いているらしい陽光は温かい。が、気持ち悪い。気味が悪い。適当に相槌を打つ旧多が身を屈め、一瞬だけ触れてくれる唇は涙すら泣くほどの幸せだが、今が無常な朝なのだと心臓の花が気付くと、やはり今すぐ時計をくるくるしなくてはならない焦りを覚えた。自らの喉元を撫でる。咳を飲み込む。僅かに漏れ聞こえるキジマの声は、下着を持ったまま窓を叩く右手と同じだ。

───いっちゃうの?

哀れなほど掠れた声が、通話中の旧多を気遣ってなお一層空気と混ざり、もはや口パクと何ら変わりない水彩で時計の終着点を訊ねた。釦の隊列を再度整えていた旧多は名前を見下ろし、軽く首を傾げてみせる。垂れた髪を耳に掛けてやりながら“もういっちゃうの?”不安そうに唇だけで問う名前にとって、秒針が幾つか歩いた程度の間でさえ途轍もなく長い渡りに思える事だろう。それだけ、眼前の男へ募る心臓は糜爛しているのだ。

───“まだ大丈夫”

同じく唇だけで手渡された返事に中途半端な安堵を覚え、ぽすりと胸に顔を隠す。素肌への逢瀬を許してくれるみっつばかりの釦は一見優しいけれど、こいつらは今日ずっと、それこそ夜まで大事な恋人と寄り添っていられる浮気相手なわけで、糸を切ってしまえば床に転がる存在だとしても心底羨ましい。穴に何かを嵌めて繋ぎ留めるだなんて、如何にも男女のそれに似ているではないか。性別を考えるなら釦よりも穴の方がぴったりだろうが、なんだかもうそうした常識は廃棄するとして。

まだいらないと言われたにも拘らず早く見たいからという理由で着用させた革の手袋は、名前の頭を撫でる秒針の陰りで軋んでいた。「あまり無茶なことは控えてくださいね、キジマさん。…はい、それではまたのちほど。───失礼します」ほんの数分、されど数分。やっと下ろされた忌まわしいスマートフォンに、名前の呼吸は少しだけ軽くなる。床を照らす日差しは相変わらず気持ち悪い、けれど、旧多の頬に戯れ付く色だけは綺麗だ。

「おやすみだって?」

「まさか。玩具と倉庫にいるって連絡」

けほ、名前の浅い咳に被さる声は粛々と滴り、些か面倒くさそうな溜息へ繋がる。

それもそうだろう。毎日毎秒すら無駄にできない捜査官のこと、朝になって休日を得るなんてありえない。ましてや現在の上司となるキジマは───手に取る選択肢が悉く禁断の林檎だとはいえ、物は言いようとして言い変えれば仕事熱心である為、着き従わなくてはならない旧多も同様に忙しいのだ。

タイを手に取った旧多の腰にキツく腕を回しつつ、ほんのもう少し踏み込んで訊ねてみれば、どうやらキジマは捕獲した喰種とのお遊びに忙しいようで、今頃も尋問と称した趣味の時間を楽しんでいるらしかった。「キジマは楽しそうで羨ましい」「欠損嗜好みたいなとこあるから、あの人」お買い物途中で出会った仲間達との会話では“いい人なんですけど、グロテスクで見ていられないんです…”、なんて苦く笑っていたのに、今し方どうでもいい事の様に紡いだ唇でキスをしてくれる男の様子には、そうした青ざめる苦労など微塵も浮かんでいない。

昨夜は清い喰種の首が転がったらしい。しかし、どうでも良い事が旧多の記憶に留まるわけはなく、したがって、そんな男の番いとして在る名前がわざわざ不謹慎を唱える必要など何処にもないのだ。むしろ、一生懸命な背伸びと共に自ら舌を差し出す。髪を掴むようにして頭を支えてくれる割に積極的ではない舌を捕まえて、拙く下手くそに絡めてみせる名前の仕草には哀悼の色なんて少しもなかった。

踵を落とせば離れてしまう唇を数度だけ啄み合い、名残惜しんで繋がった僅かな糸を断つ。そうして終わりの見えるお着替えが本当に終わってしまう前に、構ってほしい名前は旧多の手を引いたまま足を進める。

「ほんとうに行っちゃうの?」

肩越しの一瞥に添う掠れた声は、まるで保育園へ預けられる子供の問いだろう。返事を待たずのそのそとベッドへ乗り上げ、しどけなく身を横たえる姿は紛れもないお誘いを湛えているのに、離れたくないと告げる声はどこまでも純だ。仕方ないなあなんて思いながら覆い被さる旧多にとっては恒常とした戯れなのだろうが、清々しい朝にはどこか不似合いな絵だった。

「一緒にいようよ、今日の昼ドラおもしろいよ。前回なつみちゃんの浮気がバレちゃったからきっと修羅場。予告ではよしゆき、包丁もってた」

「不倫モノはちょっと…。やったら誰かさんが泣くし」

「泣かないよ。されても泣かない」

「いやいや。“泣きぼくろ野郎は浮気野郎”って言われたの、まだ忘れてないからね」

エクストリームアイロン掛け然り、生身のサバンナツアー然り、世の中には実際にできない事だからこそフィクションとして楽しみたい場合も、ある。浮気に関しては“できない”と一言でいっても禁じられているわけではなく、旧多はご自由にどうぞ、と容認してくれてはいるけれど、せっかく可愛がってもらえる身体を汚してまで興じる魅力をどうしても感じなくて、また生憎な話にそもそも旧多の匂いを消してまで会いたい相手がいないのだ。だから、できない。現実的に考えてできない。でも、されるのは構わないと思っている。それは本当。

指で触れる泣きぼくろは視認しなければあるのか無いのか分かりはしなくて、名前は頭を抱えるようにして旧多を引き寄せた。まんまるのおめめに黒い点ポチ。愛おしくくっ付ける頬も、布の擦れる大人な音も、溜息で黒髪を撫でてしまうほど心地が良い。

「んー…」

「なにー」

「んー!」

「はいはい。泣きぼくろですみません」

どんなに我儘を言えど今日もひとりでお留守番なのだから、シーツをぱたぱた蹴ってしまう事くらいは許してほしい。浮気野郎なんて暴言は初対面でつい出てしまった糸くずであり、その背景には当時熟読していたほくろ占いの存在がある。何も旧多という為人を知った上で口にしたわけではなく、名前としては今日一緒にいてくれるなら昼ドラに感化されて浮気してくれたっていいし泣きぼくろだって大好きなのに、よしよしと大人ぶって宥めてくる最愛は全く酷い男だ。愛おしい。

今も怜悧な旧多に儚い会話すら上手に躱された。そうじゃないよー泣きぼくろはいいからいっしょに居ようよーと声帯を酷使する隙も与えてもらえず、首を掴まれ、シーツへ押し付けられる事であっさり離れてしまう身が一層の幕情を募らせては、昨夜を繰り返して無抵抗のまま見上げる男を心臓から欲しいと泣く。けふけふ、浅く咳き込む名前の首にくっきりと浮かぶ指の痕は、昨晩の名残りとして滲む愛情の証。放任の首輪。ただの戯れに添えている手は紛れもなく赤黒い痕の持ち主であり、そうされるだけで苦しくて幸せだった夜気を思い出させてくれる。

このまま目を瞑ってしまえたら、と柔らかな花びらで恫喝してくる欲は姦しく、生きるか死ぬかの二択だけを片手に雪山で遭難する方がよほど楽に感じた。糸を張り詰めた一瞬の静寂に小鳥の囀りが横切る。なんて言っていたのだろう。分からないから、お返事として最愛を見上げた瞳でひとつ瞬く。おはよう。唇に感じる革の冷たさ。昨夜にはなかった。朝が窓を叩いたから冷たくなった。そうして最愛の手を引いて連れていく。

「かわいいなあ、寂しがり屋」

「ん…」

名前が僅かな軋みと共に噛む革から手を引き抜き、垂れた髪をついと耳に掛ける仕草は額縁の中がよく似合う。ずっと、ずうっと飾っておきたい。どこにも行かないでほしい。

ゴミと大差ない扱いで抛られた革の手袋には目もくれず、愛情と淀みを汚らしく撹拌した額の瞳に水彩の涙膜を湛えていた名前は、ふと───ふと、サイドで粛々と時を刻む時計を一瞥した。無常な秒針は働き者だ。拍を止める事は許されない心臓でさえ、いつかは黙して身を横たえるというのに。

男性としては柔らかく、どうにも油断を誘うくすくすとした笑みを聞きながら、下唇を這う中指に舌先で以て行かないでと伝える。人の口には戸が立てられない、だから死人に口なしを求める旧多がこうしてそばに置いてくれるだけで歓喜に指を組むべきだと分かっているのだが、絆された挙句ぐずぐずに煮詰められた花はなかなかに恐れ知らずで、名前は自らの命よりそばに居られる有限の砂時計を望んだ。

いつか砂は枯れ、引っ繰り返す手はないかもしれないと危惧していても、───いや、全てに危惧しているからこそ、手の届く距離にある今を一欠片でも手繰り寄せようとするのだろう。愛とは臆病だ。それは誰だって知っている事で、それこそ手の届く距離にある古書店へ足を運び、埃を栞代わりにしている陰気な恋愛小説へ潤む瞳を落とせば、どの様にして無謬が臆病になるのか丁寧に書き記されている。たとえフィクションでも、事実が小説より奇であったとしても、臆病の目で追う恋物語は総じて臆病なのだ。針先が迫れば瞼を閉じるように、感情を持った生き物として生まれた以上、司る心臓は誰だって臆病。

ちゅくり、と何かに似た音で愛しい中指を銜える名前は、舌を圧される事で得る微妙な吐き気を唾液と共に飲み下しながら、引き抜かれてしまうそれに一生懸命吸い付く。こういう戯れもなかなかに楽しい。少しでも視線を逸らせば首をキツく掴まれて咎めを受ける為、小首を傾げて見下ろす旧多をじっと見つめたまま指を銜えているが、自分は逸らすなと命じた癖に秒針を一瞥する瞳だけはどうにか咎めたくて、押し込まれたそれにすこし、ほんの少しだけ噛み付いてやった。もちろん、言いつけは守って目は逸らさずに。

浅く笑って鼻先にくれるキスは短く、秒針ひとつにも満たない瞬きだが、しかし、引き抜いた指を口へ含む絵画な仕草にほわりと頬が熱くなる。外で小鳥が囀った。今は朝だ。もう───きっと、あと20分もすれば最愛は行ってしまう。

不安を隠しもしない名前は抱き竦められて唇を啄み合うさなか、悪足掻きの意地悪で指通りの良い黒髪をくしゃくしゃに乱した。繕う事に誰より長けた旧多の事、そんな戯れは鏡の前で数度指を梳くだけで容易に整えられてしまうのだろう。先までくちゅりくちゅりと舌をかき回していたあの指で。

いよいよ泣きそうになる名前は濡れた舌先を柔く噛み、未だ隊列の整っていない胸板に手を添える。そうして名残惜しく離れる身はお留守番への決心を固めている風に───見えたのだけれど、ぽっかり空いた空白には朝の寒さが跋扈して丸くなり、

「ううう…やっぱりいやだ〜!」

一人で嘆いた名前が旧多にしかと抱き着いたまま力いっぱい横へ引き倒した。ばふりと弾むベットは笑い声にも似た軋みを囁き、額縁から射す陽に粉雪然とした埃が浮く。「あー皺になる…」そう呟きつつも大人しくホールドされる旧多は慣れたもの。

「いかないで〜いっしょにいようよ〜…」

割り切れない現実はどんなに宥められたって割り切れないのだが、名前のこうした我儘にひとつの言い訳を添えるならば、キジマになりたい、クインケになりたい、釦になりたい、羅列するこれらは全て旧多と共に在りたいが為だ。変な跡でもついちゃえ、とヘアゴムで可愛らしく前髪を縛るのも、結局は“いってらっしゃい”をしなくてはならないのに困らせる事を言ってしまうのも、全ては全て一緒にいたいから。

物が少なくて余白が目立つ部屋には、ぐずる名前の我儘さえよく跳ねる。そこまでひとりが嫌いではない旧多に涙を落とす程の悲しみは理解できないが、「まーまーそう言わずに…」なんて困り顔で笑いながら大粒の涙を拭ってやる程度には、毎朝毎朝しつこいこの生物となるべく一緒にいてやりたいと思っていた。行ってくるねと鳥籠に背を向けた時、忙しなく呼び止める鳴き声につい振り向いてしまう人は多いと思う。それと同じ。有り触れた一般的な踵の迷い。

「せめていい子ちゃんしてる二福が見たい…ねえ一緒に着いてってもいい…?」

「昨日の尾行はノーカン?」

「途中で撒かれたからノーカン」

昨日は尾行、一昨日は午後4時に職場訪問、一昨昨日も尾行。今日の名前はどの策を取るのだろう。「一回許すと後が大変だからダメ」まろい胸元に散った鬱血へ指を這わせ、傷付けた張本人は却下を渡す。昼ドラが始まる前にはきちんとテレビの前で待機をする習性があるとはいえ、旧多としては良い子でジっとしていてもらいたいものだが、こういった事に結構な行動力を持つ名前はなかなかに聞き分けがなかった。

今日だけは本当にムリ、といった日があったとしたら、冗談抜きに縛り上げて行かなければならない。それも戯れの内といえば全くその通りであるが、世間一般的には誰の言葉を借りても“クソ面倒くさい女”だ。これを“可愛げ”の一言で済ませられる旧多がおかしいという事を考えれば、類が友を呼ぶのはまさしく真実なのかもしれない。

「キジマはいいなあ…」

度重なる首筋の痣により声が掠れてしまっている名前は、チョウチンアンコウの様に縛った旧多の前髪へ鼻先を寄せながら呟く。悪い男に引っかかる前は水彩の声をしていた。真雪の肌をしていた。しかし、『うわー痣だらけ。痛々しいなあ…どうでもいいけど』いつかの最愛が言っていた通り、傷付く痛みなんて名前にとってもどうだって良い事。

「じゃあ…はい、わかった。今夜キジマさんと飲みに行くから名前もおいで」

「……。………え?飲み?」

「そ、飲み」

仕方なしに紡がれた言葉は前述の“待て”をひっくり返す形になるが、これを最大限の譲歩と言わずしてなんと表すというのか。“そんな話聞いてないよ”と騒ぐ事も忘れた名前は胸板に押し付けていたお顔をパッと持ち上げ、前髪のゴムを取る旧多に期待の目を向ける。

「いいの…?」

「大人しく“いってらっしゃい”するんならね」

「やったー!いってらっしゃい!」

拘束されていた前髪に癖はついていないらしい。一度かき上げるだけで揃って落ちる黒はなだらかな輪郭に沿い、鬱然とした朝へ安定剤の淀みを希釈して名前を宥めた。一瞥する時計の行き止まりまではあと10分。大喜びの名前ごと身を起こす旧多は数度頭を振り、頬に掛かった横髪を耳に掛ける。

「いってらっしゃい、いってらっしゃい〜」

「着替えるから待って。さすがに皺だらけのまま行けないでしょ」

「枕に巻いてもいい?」

「どうぞお好きに」

暗澹とした湿気を知っていながらの無邪気というのは、声帯を失くし、両の手を失くし、誰かに伝える術を亡くした泥人形よりよほど可愛らしいもので、異なる目を徹底的に排除する旧多にとって名前は紛う事なき異物の唇であっても、矢印が常に恋人を指し示している性情はいっそ可哀想な程無口と等しい。転じて、日常の擬態に近しい。

にこにこと嬉しそうにしている名前へ唇を寄せ、夜までお預けとなる戯れを瞬きの秒針だけ散らせた旧多は、寄り道をした首筋の痣に色濃い痕を重ねたのち、結局整わないままであった釦に指を掛けながら床へ足を預けた。抛られるシャツを捕まえた名前が大事そうに枕へ巻き付ける様子を古井戸の瞳に映し、ひとつ、曖昧に口角を吊る。淀めば淀むほど朝は清々しい。そういうものだ。額縁の外を渡る小鳥は全てを諦めて黙す。

「あしたはダメ?月山くんちのお掃除」

「残念だけど一日お留守番かな」


お別れを左に、下着を右に。


被り心地のよい猫

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -