-冷たく思いやる宇井と奥さん-



見上げた夜空に冬の吐息にも似た紫煙が燻る。宇井が帰宅をし、一服を告げてバルコニーへ出るまでは僅か数分だった。

一刻も早く屑葉の集まりを燃やさなくてはならない理由などないが、繊細な硝子細工で編まれた名前をそばへ置く様になってから、どこまでも吹き抜けてゆく夜空を求める足は早まった様に思う。薄々感じてはいた。後ろめたい気持ちが湧いているのだ。害多き煙を扇いでしまう事にも、帰宅早々こうしてバルコニーへ逃げる事にも、汚れを知らずにいるべきだった星の煌めきに紫煙が昇ってゆく事にも。職場で数多の狸共を相手にするのと同じ様に自分自身をも取り繕えたのなら、呼吸の一部になってしまった溜息に、こんな、冬の吐息にも似た紫煙は踊らなかっただろう。

家に独り残しておく時間が長いからと、何かあった時のため局にほど近い高層マンションに名前を飾っている。土に足を立たせた人間よりは僅かばかり空に近い場所。それでも深く白を吐いた後には一瞬の静寂すら訪れず、トランペットを吹いたままくしゃみをした様な車のクラクションが響いた。咥えたタバコに歯をたてる。もう、麻痺をしてしまってよく分からない。分からないが、ぎちりと潰れたフィルターが妙味な苛立ちを表し、宇井はすう、と胸を曇らす麻酔を吸い込んだ。ぼんやり眺める夜空に、間断なく昇る煙の罪深さ。

「……疲れた」

見上げる首が痛い。疲れている。様々な事に。

灯るそれを指で捕らえ、かくんと俯くと、堰き止められていた温かさが凝り固まった頭に流れ込むようで。こめかみが脈を打ち、あと僅かでも大袈裟に血が巡れば頭痛を起こしてしまいそう。

垂れた髪の隙間から灰の折れかかった煙草を一瞥し、怠い瞬きと共にガーデンテーブルの真ん中に用意されている灰皿を薬指で引き寄せる。そうして噛み跡が残るフィルターに親指を添えて数度弾けば、実に呆気なく灰は落ちた。順序は決まっている。次いで口元へ運んでしまう手は繊細な唇を隠し、ジジ、と焚き火を泣かす。僅かに生まれる灰。順序は決まっている。

きっとこのバルコニーでは白日の一番柔らかい陽射しの中でお茶会が開かれていたはず。「鳩が食べるから」、そう言って過度な掃除はしないままでいる足元にはビスケットの屑が僅かに食べ残されていて、共に在った紅茶の燻りが目に見えるようだ。薫り高い賑わいに紫煙の燻りなど似合うわけがなく、わざわざ灰皿を丁寧にしまって色彩の菓子を並べ、楽しみ、お開きの後にもう一度ガーデンテーブルの真ん中へ添え直したのかと思うと、毎日変わらずにあるこの灰皿さえ憎い。全ては結局、堂々巡って自分に腹を立てているだけだけれど。

灯の先でなぞる灰皿は艶美な馬の彫刻が成され、毎日使っている物にも関わらず汚れひとつとして潜んでいない。宇井自身はぞんざいに水を流すだけで終わらせているのに、不思議だった。名前はいったいどんな気持ちで───落ち着きを求めて唇を隠し、肺を満たそうとした所で静かな音が滑る。あまり聞きたくはない音が。

視線だけを向ければ、リビングを縁取るアーチの奥にすっかり寝衣姿の名前が立っていた。うっすらとした陽だまりの笑みは紫煙で汚してしまった夜でさえ変わらず、頼りない手で支えられているひとり分のコーヒーが淀んだ空へ燻る。

「…煙たいですよ。早く中へ入って」

未だ他人行儀な言葉選び。少し、棘が含まれていたかもしれない。それでも婉麗な笑みで頷く名前は一歩を踏み出し、そしてもう一歩と淑やかに足を運ぶ。宇井は今、紫煙を燻らせているというのに。

こんな事、世間では毎日毎秒囁かれていて、煙草の箱にだって胸を張って書かれているが、紫煙が健康に齎す害は大きい。そればかりか、吸っている本人よりも隣で紫煙に戯れつかれている者の方が健康被害は重いそうだ。よくよく考えればそうだろう。本人はフィルターを通しているから幾らか軽減されているのだろうが、燻る白は有りの侭だ。喫煙者にとって頭が痛むと同時に、難しく、非常に申し訳がない話。

世の喫煙者と同じく肩身が狭いはずの宇井は呆れた様な、大人ぶった白い溜息を落とし煙草を潰そうと灰皿を求める。しかし、名前は「どうかそのままで、」と、笑みによく似た温かさで有りの侭の宇井を求めた。火傷を恐れず、真白い手を灰皿に翳して。───咄嗟に親指を引っ掛けて火先を持ち上げたから良いものの。

「名前、」

「叱りますか?」

「当たり前でしょう。おイタをしたら叱るようにと父君から言われてるんですからね」

腕を遠ざけ、火先が、そして紫煙が名前に届かない様にと思いやる宇井はいつもと変わらない穏やかな「ごめんなさい」に呆れを隠せない。最もらしく名前の父を引き合いに出しても、その実陽だまりで囀っている金糸雀を案じているのは宇井自身なのだ。白皙の手が灰皿を覆い隠した時、心臓はどくりと血を吐いた。連なって痛むこめかみはまだ糸を引いている。甲の雪を案じつつ押し付けてしまうお小言にも、自らへの呆れは隠せていない。

ことり、と。眼前に差し出されるコーヒーから白い白い靄が昇った。愛を手渡されたようだった。

「またそんな格好で…」

「大丈夫。温かいコーヒーをお持ちしましたから」

「貴女が飲むんですか?」

「いいえ、郡にと」

「そうでしょうね。もう、…とにかくこれを羽織って」

白皙など容易に焦がしてしまう灯火に自らを晒しても尚ゆうたりと凪いでいる稲穂の名前に、呆れが滲んでしまうのは勿論の事だが、それ以上の安楽を感じているのもまた事実だった。呆れる話だろう。宇井にとって最も受け入れ難い感情である。こうして名前をそばに置く事でこんなにも凪ぐのなら、今まさに指で捕まえている百害など必要ないのだから。

視界の端を掠って昇る白の様に、なんだか薄ぼんやりとしていて掴めない女性だと思う。棘のある言葉で刺されても荒れひとつない唇はいつだって微笑んでいて、蔑ろにされているに等しい今も煙草を咥えて上着を脱ぐ宇井を幸せそうな瞳で見つめている。風が遊び、そうして届いてしまう紫煙の香りを厭悪する様子はない。優しく包む様に肩へ添えられた上着から香る名残すらも、名前には愛を綴った白い煌めきなのだろう。

名前の暖と共に両手は自由になり、唇で支えていた煙草に指を掛ける。「難しいお顔になるの、たばこを咥えていると。指でね、こうしている時はとても可愛らしいのに。それはどうして?」宇井を真似、煙草を指で挟む仕草をして見せる名前は金糸雀の声で訊ねた。無邪気に指先を寄越し、眉間をくるくると撫でる宥めの戯れ。「やめなさい」、そう言って咎める宇井に名前はまたぞろ「ごめんなさい」と笑み、くすくすとした囀りに金糸雀の訊ね言は攫われてゆく。今更答えるには一拍だけ遅く、制した割には気になってしまう眉間を薬指で揉む宇井にとって、責のない問いが中々に答え難いものであった。燻る紫煙が煙たいなどと、どの口が言えるというのか。頼って火を添えたのは自分だというのに。

「郡、」

「…うん?」

金糸雀の囀る名前は不思議な事に、もう呼ばれ慣れ何とも思わなくなってしまった“こおり”の響きさえ、譜面に綴られた4分音符の様に思える。当たり前の音であっても時として特別な響きを齎らし、返事の前にこうして4分休符を添えて寄越すのだ。

夜気に飾られた名前の手前、灯火を消す事も出来ず、かといってこのまま肺を満たす事も出来ず、トントン、と弾く親指が灰を崩し、そして問いの先を促す。ふっくらと優しい涙袋が瞳の大きさを如実に囁きかけてくるが、その中に燻る紫煙を探してしまいそうになり、宇井は漆の睫毛を静かに伏せた。灰皿の縁を硝子細工の指先でなぞり、ゆうたりと開く名前の唇。

「キジマの野郎はお元気にしていますか?」

一拍の後、額を押さえてしまう事を許してほしい。

「いったいどこでそんな言葉を…」

花を敷き詰めた鳥籠での囀りには違いないが、しかし、決して耳に心地良い言葉遣いではない。よりにもよって“キジマの野郎”、名前が口にしたのは“野郎”だ。こんなに粗暴な言葉を知っている育ちではなかった。犯人はハイルか?なんて、懐疑の元でつい唇を隠そうとしてしまう手も許してほしい。なんだか、大事に飼っていた金糸雀に枯れた花弁を咥えさせられた様な、そんな気分だったのだ。呆れにも似た萎靡の呆れの萎靡。白い溜息は深い。

「少し前、郡の寝言で幾度か聞きました。彼は患っておられるのでしょう。頭を」

そして要らぬ言葉を教えてしまったのが自分であれば、もう世話のない話だろう。「もー…」と、それこそ自らへの呆れを含んだ声で突っ伏し嘆く郡に、どうしてかこのタイミングでコーヒーを勧める名前はどこまでも穏やかであった。重ねて「灰が、ほら…」視線で示す先はまさに宇井の心を模っていて、矮小な色が今にも頽れてしまいそうで。ちょんちょん、支える指越しに煙草を小突く名前に新たな疲れを感じているのは確か。確かだが、それでも自らの心音さえ煩わしく思う疲弊の棘が凪いでいるという事は、やはり、眼前で目を細めているこの名前こそが宇井にとっての家であり、安らぐ湖であり、帰る場所なのだろうか。たとえバルコニーに逃げ込む日々を送っていたとしても。

透明な溜息と共に背丈の低い煙草をもう一度弾き、思いやって遠ざける宇井に、依然として胸の幸を滲ませる金糸雀の名前。受け入れ難い感情である。心臓の真ん中に煙草の灯火を押し付けられる幸の燻りは、僅かな肌寒さを得た宇井とて同じだった。


鳥葬免るるビスケット

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