-敬愛してやまない元孤児とドナート
         脱コクリア後の再会-



思い悩む首の柳が鬱蒼と枝垂れ、風の遊びにいちいち擦れ嘆く。未だ群青の小煩い夜気には古びた教会が月へ頭を差し伸べているが、そのさまはある種異様な樹木にも似て、淑やかであるべきだった花たちの墓土臭さを暴いていた。

庭園は見渡す程に広く、枝分かれの道を圧迫する様に種々様々な花が植えられている。喋々する噴水へ至るアーチ、赤レンガに四方を囲まれたアバウトフェイス、いつでも摘んでしまえる白百合。さながら花たちが人々への興味を押さえ切られずにいる絵だ。
もしも太陽の高い時分に訪れたなら、薄暗い花も愛らしく、愛想よく、暖色で描いた風景画として見られたかもしれない。しかし、爪の甘皮の境界すら満足に視認できない宵闇の中、それでも嬋媛に微笑む花弁の様子は月に刺さる十字架に酷似している。

そうした古びた教会の陰鬱なる裏庭で、ひとりの神父が柳のようにひっそりと佇んでいた。

「…困った子だ。愛嬌ともいう」

群青に呟く言葉を花たちは、あるいは土の住人たちはどう解釈しただろうか。“シスター”は“シスター”として生きたものの、待ち人が帰り、修道服も襤褸となり果てた今、それは形骸化された単なる言葉にすぎない。柳のさざめきが神父の頬を慰め、懐かしき匂いが上唇を撫ぜる。

「クラウン!───ああ神父様!」

疾うに失くされた子供の甘やかさを、その声に探してしまう瞬間を人は親心と呼ぶのだろう。

修道服の裾を捌く音に声を縫わせて、柳の遠く真正面、噴水のそばから一人の娘が姿を現した。足首にじゃれる子犬の花を一切の慈悲もなく蹴り殺し、今にも泣き出しそうな目元で、代わりに噴水に涙を授けながら、両の手を一杯に伸ばし、もうそこにしか酸素がないとでもいうようにアーチを潜る。

宵闇に満たされた視界の中でさえも、その娘の格好が酷い事はよく理解できた。神父は胸に逃げ込んで来た娘の身を両の腕にて穏やかに隠してしまいながら、そっと背を見下ろす。繰り返す通り、酷い有様だった。
清楚であるべき修道服はずたずたに破れ、解け、赫子の名残りからクインケの傷跡さえも残している。肺の壁に貼り付く血液の濃厚さは氏名が多すぎて判別が出来ない。

「怪我を?」

「いいえ神父様、すべて罪深き人間のものに他なりません」

娘の告白は嘘に違いないが、“シスター”は“シスター”として生きたものの、待ち人が帰り、修道服も襤褸となり果てた今、纏う殻などどうでもよかったのだろう。「…困った子だ」再度そう呟いた神父ドナート・ポルポラに「お会いしたかった…」と嘆息を逃がしたシスター名前にとって、今この一瞬こそが沈黙の日曜日に願い続けた最も鮮やかな望みだったのだ。



二人の間柄を説明するには言葉が足りないものの、名前はかつて亜門鋼太朗と共に教会の庇護を受け、生の教えを乞い、十字架を温める日々を過ごしていた。今や決別した亜門との違いといえば、片や人間の子供、片や喰種の子供であった事程度であったが、しかし、それこそが最も大きく、代えがたい違いであった点は、名前は幼少の頃から、亜門は大人の月日を追うごとに理解していった。名前はその頃から、友人達の柔らかな太腿を好物として生きていた。

名前はドナートという道しるべの神父に対し、誰よりも敬虔で誰よりも熱心だった。赫子の感覚も掴めず、喰種として全く無価値な自分を生かしてくれた心優しい神父を、一欠片も愛さずには居られなかったのだ。
その思いは幾年月を跨ごうと変わらず、赫子の扱いをどうにかこうにか会得し、人を喰らい、同種すら喰らい、いつか復讐の墓をたてる静かな日まで、貪欲に確実に過ごしてきた。最愛の神父が戻って来た今、あとは黒磐と瓜江の名を冠する者どもを滅ぼすだけである。あとはそれだけなのである。彼らの命を埋める時、植える木は既に決めてある。



ベールに包まれていた事もあり柔らかなままの髪が、拘束を解かれ夜気に滲んだ。記憶の頃から長い髪を持つ子供だったが、それでも年を閲した分だけ色を違え、ドナートの中で印象の塗り替えが忙しい。
ベールをそばの薔薇に預け、赤レンガの花壇へ腰掛けるよう導いてやる。カソックを貸し与える事であられもない身を隠してやると、小さな頃にそうしていたように肩を縮めて見せるものだから、大人になりきれなかった皮膚の中身を明確に知った。こうなるだろうとは思っていた。思っていた、知っていたが、それでも記憶の塗り替えは忙しい。
穿たれた腹を静謐に見下ろす瞳の色沢が、羽織るカソックに埋めた鼻先の上で必死に愛情の日々を手繰り寄せている。隣に腰掛ける事で幾分かの温もりを分けてやれば、それでも足りない程に冷え切っていたか、名前はドナートの胸元へとまたぞろ逃げ込んだ。

「私は貴方のいない間、とある本に出てくる一人の医師に救われました。映画までみたわ。台詞、仕草、痛みの隅々まで、貴方の名残りと思える何かを一つ一つ捜したのです。神父様、貴方のいない日々は針のように辛かった。私は羊の声に耳を塞ぐあの娘のように、蹲り貴方の声を聴いていたのです」

白く、楚々としたブラウスに鼻先を寄せながらの告白は、そう生きてきたように今にも耳を塞ぎたいと耐える様子にも映り、伏せる睫毛にて必死に鼓動を捜す様子にも映った。
ドナートは喉で笑む。豊かな後ろ髪に指を差し込んでやりながら、名前の言いようが余りにも親離れを拒んでいる為に、仕方のなさを醸しながら浅く浅く笑む。

「退屈しのぎは未だに絵本か?あの頃のお前はそうして過ごしていた。今もさして変わらんように映る。白兎、帽子屋、眠り鼠。…名前、“退屈凌ぎ”は未だに絵本か?」

名前は何一つ否定できない様子で緩やかに首肯してみせる。お前は今も幼いままだなと、言外に言われたのだ。否定できようわけがなかった。名前は子供の自分と手を繋いで生きてきた。子供の自分の手を引いて生きてきた。伸びきった皮膚の下に子供の丸みを押し込んで生きてきた。
それがまともな行いでない事など深く理解していながら、それ以外の生き方も見付けられず、それ以外に愛する家族もなく、眠れぬ夜に聴かせてくれた絵本の声だけを、鼓膜を慰める刺繍として生きていた。噴水の独り言など夢を隔てた朝には忘れてしまっても、安楽としてあった刺繍の声を忘れた事は未だかつてなかった。

「……貴方はいつだって絵本を読んでいたわ。耳を塞いで、瞼を閉じて、私は聴いていたの。そうです神父様。私は今もまだ、絵本の貴方を手放せておりません」

この庭園で最愛を想ってはひとり嘆き、返らぬ問い掛けにいつしか音吐すら忘れた。それが今、掠れる声に耳を傾けてはいちいち髪を梳いてくれる手が、「それでいい」と生温かく隠してくれる声がある。至りたかった結末が、すぐそばに居るのだ。

「鋼太朗も私も離れた中で、お前がどう過ごしたのか知りたいものだな。すっかり冷え切った心で何を観た?何を感じた?」

腐敗を招く白皙の様に、色素の冷たい瞳はいっそ広漠として映る宵闇を眺める。鳥の声は聴こえず、柳の指先も群青に紛れ、名前の醸す濃厚な血液の香だけが姦しい。この庭園は宛ら名前の心なのだろう。靄に包まれた花たちは怖気を誘う淡さだ。時に揺れては手招きの仕草を見せ、壁に掛けられた絵画でない事を証明したがって聞き分けない。

「…面でこの素顔を隠す、貴方の居ない間、失った仲間は何人もありました。しかし哀惜はありませんでした。あるのは憐憫と、眠る前にその者らの名を思い返す僅かな時間だけでした」

ドナートの手を鷹揚と捕らえ、暖でも乞う様子で唇を寄せる名前は曖昧に呟く。

「私の正義は“家族”にだけ向きます。そうであるべきです。しかし、鋼太朗は…」

「そうではないな」

「はい、神父様。そうではありませんでした。そうしようとすらせず、私の言葉など一つも聴かず、まるでもう十度の視野さえも求める臆病な馬ででもあるように、その正義を丸く丸くしてみせました。耐えがたい事でした」

「自らを憐れむか?」

「いいえ、神父様」

「自らを蔑むか?」

「いいえ、神父様」

「鋼太朗を憎むか?」

「いいえ、神父様」

「では?名前」

「はい、神父様。ただ空しいのです。私は、ただ虚しいのでした」

強請られるまま親指の腹でそっと愛でてやった口端が朱にざらついていて、ドナートは動物たちの眠りに紛れる彼女の痛みを垣間見る。誰に懺悔も出来ぬまま、こうして生きてきたのだろう。ピエロの者達とも付き合いは希薄だと聞いた。恐らく、自問自答の日々だったに違いない。その布に自責と呵責を縫い付け重ね、重ね、模様となるまで針を働かせたのだ。

あの日に逃がしてやった正否についてなど、ドナートには分からない。名前の言葉を聴いている限り、死なせてやった方が幸福だった気もしてくるし、その一方で、ここまで生き抜いたのなら生かして正解であった気さえしてくる。生かした事によって使い道が出来た点は確かだったが、それさえも正否を問われてしまえば亜門の責め立てるような目がこちらを見つめてくる。

反して名前が、感謝をしているか?感謝をしていないか?の二択を答えようと思ったなら、“現状は感謝をしていない”と言う他ないが、彼女の精神は感謝をするか?感謝をしないか?と問われたなら、その答えは“感謝をする”である。
名前が庇われたあの日を思い起こした時、まずどうあってもドナートを捕らえた捜査官共に激しい怒りがこみ上げ、それは身を挺して守ってくれた事に対する感謝より先だって訪れる。だから、名前の精神に感謝の道が用意されていても、そこへ至る前に憤怒の落とし穴へ身をやってしまう。そうした激情に胃を掻き回される時、やはり記憶の亜門鋼太朗は責め立てるような目でこちらを見つめてくるのだった。

「毎夜…温まらぬブランケットを知るごとに思うのです。私はなぜ、幸福であるべきだった時間を奪われなければならなかったのかしら。私はなぜ、最愛の貴方を取り上げられなければならなかったのかしら」

名前は眼窩とされた下腹を撫で、既に皮が張っている様子を指で知ると、同じ仕草で皮膚を撫ぜる大きな手にかつての温もりを感じる。

「私がもし自分の身を守れるほどの力を持っていたのなら、きっとこうはならなかったわ。貴方を取り上げられたあの日はなかったわ。けれど…こうなる必要はあったの?私がこうなる、貴方を取り上げられる必要はあったの?……幾度考えようとも分からない。怒りにも似た悲しみが背中をさすって、一本の答えに至らぬのです。聴いてください、神父様、私のクラウン…私の幼さが招いたあの日の別離に、何か他の理由を見付けたくて堪らない日々でした」

鼻筋を滑落し、おさなごの象徴である涙は慎ましやかな上唇へそっと降り立った。「あとはあの者たちを沈黙させることさえできたなら」「お前は救われるか」「ええ、クラウン」「たとえその身が息をやめる事になろうと?」

頬を引き寄せ、親指で拭う涙石は生温かい。擦り合わせる鼻先などいっそ熱く、やっと泣く事の許された子供を器用に演じてみせる。

「あの坊や達がいよいよ眠るというのなら、それに伴う犠牲など知った事ではないのだわ」

柳を嘆かせる風は懐かしい香りがした。墓土と、花と、厳かな優しい香りだ。“シスター”は“シスター”として生きたが、待ち人が帰り、修道服も襤褸となり果てた今、教会墓地はただの庭園にすぎない。「そう、ムキになるな───」紫の花が揺れている。時折うつろを歩いて、噴水の水が上唇を濡らす。幕は下がらない。

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