-諦めた女の子と旧多
      浮気されるお話-




肺の中で蝋燭でも灯された様な、或いは今し方セックスを終えたばかりの女の血液を際限なく輸血された様な、息もままならない程の悲しみについてあと何度反芻したらよいのだろう。

恋愛とはもっとキラキラしている美しいもののはずだった。通学途中に聴いていた流行りの曲ではお互いを愛し慈しむ事こそが“愛”だと歌っていたし、放課後に人のバッグを人質に取ってまでのろけ話を聞かせてきた友人は冬でもないのに白皙の頬を赤らめていたし、子供の頃に母親代わりの父が読んでくれたお伽噺では決まって平面のお姫様が微笑んでいたし、大人に差し掛かった年齢になって初めて読んだ少女漫画でも、それらのどれもが白人の瞳より鮮やかな虹彩を湛えていたはずなのに、それなのに。

人生なんてものは、出会って別れて、拾われて捨てられて、擦れ違って振り向いて、そして冷たい土の下で眠るまで、結局輝ける瞬間など一瞬たりともないのだ。そうに違いない。隣の花は赤いという様に、ただ単に、憧れを探し続けた木製の眼が勝手にエフェクトを掛けていただけ。評価を賜ってから幾年経ち、乾涸びてしまった水彩画でも筆先から一滴の水を滴らせれば途端に陽光を弾く。景色に憧憬を重ねる事なんて憧れ続けた眼からすれば造作もない。

思えば、自分が描く水彩画は決まって水っ気が多く、いつまでもキラキラと画用紙の上に残り、乾かすのに難儀した。叙景に優れた絵を描こうと思ったなら、あんなにも水は必要なかったのだと、それこそ涙の一粒二粒でよかったのだと、今になってそう思う。窓際に寝かせた画用紙が風で飛んでしまわないよう砂時計で押さえ、終わりが訪れては引っ繰り返し、また終わりを迎えては引っ繰り返し、そうして眺め続けていたあの砂粒は、こんなにも心臓が糜爛してしまった五月の夜でも、今なおキラキラと陽光を纏った思い出として胸の内に遺っている。肺か、或いは心臓の小部屋で蝋燭を灯した様に、胸の奥底が水彩を拒み続けた末で焼け爛れている。

名前はもう、吐く溜息すらなく、───手に取ったそれを真白いティッシュに包み、捨てた。

口を縛られた避妊具だ。全く不可解な事に、ベッド脇の屑籠へ遺棄されるべき子供達はドレッサーの足元にぽつんと落ちていた。しかし、名前は訝しむ様子も見せず、かといって昨夜の恋人の姿を回顧するでもなく、一昨日に行方不明になった指先の絆創膏をふと見付けて捨てる様な手軽さで、僅かな白と透明に分離してしまっている色彩達を悲哀のおくるみに包んで捨て去った。

この“忘れ物”に覚えがない、わけではないが、ただひとつ言えるのは、これは決して名前の中で吐き出された色彩ではない。頭には思い当たる節があっても、身に覚えがないのだ。あるのはこの避妊具を買ったのが二週間前の自分で、使った男は自分の恋人で間違いないにしても子宮を貸し出してやった女性が自分ではなくて、そうして昨日も今日もいっそ馬鹿らしい程の快晴だったという事。

毎週水曜、雨の降っていない日だけ、名前と旧多の家にはいつも望まぬ落し物が残されていた。偽薬だけになったピルのシート。ピアスのキャッチ。アイライナー。ネックレス。蝋燭が胸を焼いた瞬間は枚挙に暇がない。

本当に、愛なんてクソッタレだ。『なに読んでいるの』『愛なんてクソッタレとしか書いてない本』『二福はいつも、そうやって嘘を言う』『いやいやホントだって、読めば分かるから』待ち合わせ場所では決まって本を読んでいた恋人が、まだ一緒に暮らし始めるより三ヶ月四ヶ月ほど前、足跡だらけにされた雪が排気ガスの空気さえ澄んだ冷たさにする中で、愛の本当の姿を教えてくれた。信じていればよかった。嘘なんてひとつもなかったのだ。

それなのに、淡い雪を漆の毛先にくっ付けながら笑ってくれる姿が愛らしくて、砂時計をひっくり返した数だけ赤らんだ鼻先をマフラーで隠す姿が愛おしくて、どうしてもあの景色を輝いた絵だと言い張りたくて、クソッタレな愛などないとまともに取り合わなかった。新芽も芽吹く五月より、抱き締められたって寒くて仕方がなかったあの冬の方が、ずっと、ずっと、あたたかい。

名前はあの日を思い出すように、寒いねと大した理由もなく手を繋げていた暖色を思い出す様に、すん、と鼻を啜った。照明を点けてしまった所為であちこちに影が目立つ寝室。バッグは肩に掛かっており、指先には未だ鍵がぶら下がっている。ベッドのそばにいるデジタル時計が木曜の21時を示しているのは、水曜日の存在を恐れ過ぎたばかりに、木曜日を迎えないと帰宅できなくなってしまったからだ。

逃げ続ける事に意味なんてないと知りながら、それでも背中を向けてしまうのが人間なのだと思う。そうであるならば、二番目でもいいと、そばに置いてくれるならそれでいいと、どうにかしてこの家の鍵を回す理由を考えてしまうのは、はたしてそれも“逃げている”というのだろうか。別れを切り出す事こそが立ち向かうという意味なのか、傷付き、糜爛も過ぎた心が融けてなくなってしまおうとも愛したヒトが誰かを抱いたベッドで眠り続ける事こそ“立ち向かう”という意味なのか、斯様な仕打ちを受けてまで今も愛し続けている名前には到底分からない。分かるはずの答えも、寂寞と幕情が邪魔をして辿り着けない、かつての水彩画があんなにも水浸しだったように。乱れたベッドシーツを整えようと伸ばした手が、うっかりその答えを引き上げてしまいそうに思ったから、名前はそ、っと指先を引き戻し、緩く首を振った。

背中の方で扉の開閉する音が聞こえるのは、あの恋人がご帰宅なさったからだろう。今更出迎える何てことはせず、名前はバッグを下ろさないまま窓際へ歩み寄る。手塩にかけて育てているサボテンは今日も元気なようだった。この針山は昨夜、ご主人様の愛した男が罪を重ねる様を黙視していた訳だが、ひょっとしたら、こうした育て方が功を成してここまで立派な棘を得たのかもしれない。別れ話の折には投げつけてやるのもいい。愛した男の元を去るには、愛したサボテンを殺す勇気も必要なのだ。

「やっぱり帰ってる。連絡したんだけど」

そうしてこの寝室に姿を現した男は、肩越し振り返ってみればドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせていた。そのまま、まるで人混みを縫う軽さで足を進めてくる。名前がもう泣かなくなってしまった様に、この男もまた、罪の意識なんてものは絵の具の様に薄れてしまったのだろう。初めからこうではなかったと信じたい。薄手のカーディガンに突っ込んでいた手がスマートフォンを引き抜き、連絡したのにと声無き仕草で咎めるが、名前は自身のそれを確認しようとはしなかった。連絡が届いていたのは知っている。無視をしただけだ。ひとりで帰ってきたかった。ひとりで忘れ物の処理をしたかった。この男に見られたくはなかった、だから。

「…気が付かなかった。ごめんね」

こんなにも薄っぺらいやり取りに意味なんてあるはずがない。僅かに口角を上げた名前に「あそ、」と返ってくる声だって、トランプよりも紙面の文字よりもずっと軽い。

「まーまー何はともあれ」

両手を広げ「ん、」とハグを求めてくる黒髪の青年は、名前から見れば鞦韆の様な男だった。別れ話の際にはサボテンを投げつけてやる、そうした決意もあってか窓際を離れたくなく、その場にて同じように両手を広げた名前に小さく吹き出す姿はあの頃と何も変わらない。だから、名前もこの抱擁を拒むなんて出来ないのだ。早足で距離を詰め、名前を抱きあげてしまう勢いでハグをする絵には愛情が何かに擬態している。ピエロとクラウンの違いを知っているだろうか。名前は知らない。しかし青年は知っている。なぜなら彼は、ピエロだから。

ボトムにお財布だけ差して出掛けたらしい男は、しかし何を買いに行ったわけではないらしく、そんなにも暇そうな手をぶら下げていたのなら手を繋いで帰ってきたら良かったと、そう思ってしまった。きっと、肺を満たした香りの所為だろう。灯っていた蝋燭が酸素を得て、いっそう明るい色を姦しくさせる。抱き締められて眠った夜も、痴漢と窮屈さから遠ざけてくれた日比谷線での満員電車も、いつだってこの香りがそばにあったから、あんまりにも愛おしくて眼の奥がじんわりと滲んだ。

これだから水彩は嫌いだ。変に浮ついたバッグは邪魔だし、もう自分の腕を持ち上げる事すら怠いし、この顔の癖に肩幅が広い所為で回す腕はやはり疲れるし、さっさと離れようと胸を押しても頭を抱き込んでくる男はどうしたって憐憫の香りを肺に押し付けてくる。仕方なく、本当に仕方なく、それでも泣いてしまわない為に緩く腰へ腕を回すと、いつだったか───初めて抱き返そうと勇気を出してみた時と同じように、こんなにも綺麗な顔をしていても本当に男の子なのだと、無理矢理首肯させられる程がっしりした男性らしさが腕に伝わって、府抜けた姿を曝してしまわないよう暗い色の布地を掴んで縋った。

「知らない匂いなんてさせて〜。全くどこほっつき歩いてたンだか」

「どこほっつき歩いていたの?」

「僕はちょっとそこまで」

「なら、わたしも“ちょっとそこまで”」

六月になり、五月に咲いていた短命の象徴も儚く消え去ってくれたなら、息も白むあの季節までなんとか生きていけそうな気がする。その頃になれば、セピア色の恋愛に価値はないと閉じたシェイクスピアの文章に、生温かい染みのひとつやふたつくらい落とす事が出来ると思う。

「あ〜ヤダヤダこーいう女!」とケタケタ笑う男に「…うそ。ゆいちゃんのところに泊まっていただけ」なんて、決して他の男の元に居たわけではないと真実を手渡してしまう自分の弱さは、たとえ五月に背を向け六月と擦れ違い、たったひとりの冬に辿り着いたとしても、結局はまた同じような男に引っかかってしまいそうで、もう、誰でもいいから助けてほしいと思った。

「はいドーゾ」言葉と共に見せられるスマートフォンの画面には“名前預かってるよ”と白状のメッセージが記されている。送り主の名はゆい。昨夜名前の身柄を預かった友人。もしあそこで嘘をつき、いきずりの男と一晩を過ごしたのだと宣っていたのなら、こんなにも愛されたくて仕方ない気持ちを針の先程でも察してもらえたのだろうか。胸板に片頬を預けて眺める液晶画面は眩しい。「知っていたならどうして訊ねたの」「相手の口から聞きたい言葉ってあるでしょ。ましてや恋人同士なら?」「うそ。二福はいつも、そうやって嘘を言う。本当は白状させたかっただけ」見上げた先には最愛の男しか映らないが、きっと、カーテンの向こう側では眼も痛む程白い月が輝いているのだろう。それなのにこんな締め切った部屋で、まるで鳥籠の中で踊ってみるように、指先で鞦韆を漕ぐ鍵を落とせもしないまま───

名前はそっと、身を離した。今は五月だ。頬を撫でた冷たい針先の意味を、温もりが残っている内は知りたくない。「信用ないなあ」と、壊れたオルゴールが踏鞴を踏むようにケタケタ笑ってみせた最愛の姿は、そう言っていながら名前の事も信用していないようだった。

「ねえ二福」

「はいはい」

「もしも。もしもね。私が本になって、ある日突然ポストに届いたとしたら、あなたはどうする?」

変遷と共に厚塗りされるばかりだった愛を、人はどうせ口に出来ないまま枯れてゆくのだから、それならばいっそ、言葉を持たない人生も決して悪くなかったと思う。むしろ、“わたしには言葉がありません”と首を振るだけで、臆病でいられる肯定にもなる。鉛筆を持つ手も、刺繍を縫う手も、手話を演じる手も、果ては言葉を模る唇も、愛を恐れ過ぎた人間には全て全て必要なかったのだ。そうすれば、伏せた睫毛の震えだけで泣きしきった夜を察してもらえたのかもしれないし、伝え損ねてきた言葉を嘔吐してしまいたくなる日も訪れなかったかもしれない。愛してると伝える秒針に意味などないと知ったのは、冬服の差し色にも使った試しがないほど冷たい黒髪を、こんなにもこんなにも愛してしまってからである。

するすると胸板を落ちる指先がカーディガンの釦に引っかかる頃になってまで、最愛の男は名前の腰を離さないままでいる。もう離れてしまった頬が酷く寒々しい。凝然と見下ろされる視線から逃げたくて睫毛を伏せてはみたものの、そっと、まるで羽でも触れたかと錯覚するような淡さで唇を撫でられたから、そこで初めて浅く噛み締めていた事に気が付いた。

───ふ、と。身を屈め、唇を掬おうとしてきた最愛の胸を掌で制す。全くの無意識だった。ほんの僅かでも傾ければ唇が触れ合う距離で、キスを拒む理由なんて編めるわけがない。むしろなぜ、今この瞬間にこんな事をするの。本としてでもそばに置いてもらいたかったたとえ話よりも、先ず以てそう訊ねたい毛糸ばかりが雑多に浮かぶ。

「…色、移る、…から」

言い訳にしてはお粗末すぎる言葉の羅列の中、上目で咎めるその睫毛があまりにも美しくて、サボテンの前だろうと情けなく蹲り、両の耳を塞ぎ、かくれんぼの様に泣いてしまいたくなった。「…ね、」「別にいい」「よくないよ。それにこれから出かけるの。塗り直すのも手間だから、帰ってからにして」「嫌。いかにもキスしましたって唇で悪い事なんかある?どこ行くんだか知らないけど送ってく」「送りも迎えも大丈夫。だから、」「お嬢さんどちらへ?」「…ちょっと、そこまで」「本にでもなりに?」「そう」「マジメに言ってンなら生で犯すけど」

きっと名前が本になったなら、この瞬間のページには周遊したって拾いきれない程素直な言葉が心情を吐露しているだろう。結局交わした声の編み込みでは“あなたの元から離れる、キスはできない”との二つしか伝えられず、心の片隅にでも残しておいて欲しい“愛していました”の一言は喉の宝箱から出てこない。鍵は自分で持っているつもりになっていたけれど、どうやらそうではなかったようだ。指先で囚われたままの“鍵”は体温が移って温くなっている。頬に掌を添え覗き込む男のそばから離れたくて、腰を引き寄せた手に逆らい一歩二歩と踵を引く。もう千切れてしまいそうなこの糸など、最愛の目にも寒い五月の景色として映っているはずだ。せめて、そうであってほしい。

「嫌な予感がするのは気のせい?」

へら、と肩を竦めて笑った最愛には「五月だからね」と、同じ様に眉尻を下げて微笑みを返した。

新しい恋人に意地悪なんてしないから心配しないで。本に剃刀を挟んで投函なんてしないから心配しないで。夜道に包丁を持って追いかけ回したりなんかしないから心配しないで。この鍵も六月になった頃にはポストに届けるから心配しないで。ただひとつ、サボテンを置いていく事だけはどうかゆるしてね。

いずれかひとつでも名残りを彫っていこうとも思ったが、言葉にしてはまるで引き止めてほしいようで、やめた。別れ際にぐずぐずしてしまうヒロインの気持ちが分かった気がする。気がするだけで、本当は自己を投影して慰めているだけだとも分かっている。ロミオだってあの瞬間に死に腐りさえしなければ、いつかの五月にはジュリエット以外の女を抱く事だってあったのかもしれないのだから、誠に嬋媛たる恋愛などこの世にないのだ。引き際が美しいか美しくないか、悲劇に酔えたか酔えなかったか、たったそれらが違うというだけで。

先に寝ていてと、穏やかな音吐でそう言った名前に、黒髪の最愛は羽織っていたカーディガンから腕を抜き、差し出した。首を振り遠慮しても「いいから」と制されてしまい、名前はそれ以上拒絶する気にもなれず大人しくその身を包まれる。残酷だなと思った。ただ肩から羽織っただけなのに、鼻を埋めて目を閉じたくなる香りが肺を満たしていたから。

寒々しい五月が過ぎ、雨音以外何も知らずに済む六月が早く訪れてくれることを、切に願う。最愛に背を向けた名前は愛おしいカーディガンが風に失せてしまわないよう、自身の体ごと抱き締めながらこの家を出た。放らずに終わってしまったサボテンも家具も、最愛すらも真四角の部屋に遺したまま。


























生白い首を傾け、黒髪に紛れたピアスを鷹揚に引き抜く。そうして、まるで見付けてくださいと懇願するように、有り触れたキャッチをサボテンの隣へ飾った。最愛はもう、帰ってこないと知りながら。

「あ〜…………ハハッ」




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