※動物の解剖








イトリという喰種は豪快であり、そして生まれ持った情報に対する興味も手伝って、米粒ほどの躊躇すらなく他人のテリトリーに気紛れな猫の足跡を残す事ができる。こう言ってしまうとさもデリカシーがなく扱いにくい女性の様に聞こえるかもしれないが、これこそがイトリの長所で、これこそがイトリの可愛らしい所といえた。4区で面識のある者は多く頷く事だろう。弱みを握られて怖いけれど、親しみやすくて好きです、と。アヒャアヒャ人を小馬鹿にした笑いの中には女性らしく面倒見のいい性情がどす黒いリボンに巻かれて隠れているのだから、4区で見かけるお花を銜えた猫として、鳥瞰する鴉や荒くれ達の頭に愛されるのも至極当然なのかもしれない。

コツコチコチ、時計の秒針にも似た猫の足音。瑞々しい唇は薄闇の中でさえ艶美を湛え、HySyの階段を一段一段上る響きにぬたついた色を添えている。慕われる故か頭を退いてなおウタの元に集まりたがる4区の仲間を、月が欠けた今夜はしっしと遠ざけたらしく、扉を開けても笑い声一つしない寂寞はさながら張りつめた糸だ。その中で水際立つ、鼻腔の奥で籠る異臭と金切り声でひそひそ囁く耳鳴り。顔を持たず継ぎ接いで作られたマスク、燭台として愁傷と共に在る手首、笑顔を忘れないまま絵本の装丁とされた人面の皮、埃被った幽霊屋敷とは色を違え粛々と悍ましい空間は酸鼻すべき酸素といえるが、しかし───耳鳴りに紛れキィと泣き閉まる扉に一瞥さえしない客猫のイトリは、惨たらしさが飾られているHySyにすら気紛れで居心地が良さげな足跡を転々と残した。生きる環境が違えば物の感じ方も違う。視界の端にもげた翅を捉えてもヒトの心は穏やかでいるように、惨憺たるひとつふたつみっつに異色を感じる針刺しの心臓など、ここ4区で過ごす野良にはないというだけ。

目に優しいのか悪いのか分かりやしない仄暗さの部屋で、輪郭を得るに足るまで丸みを持つイトリの瞳孔が、陰に呑み込まれつつある隅っこにてひとり遊びに興じる灰色を見つける。数日前はタオルケットをごわごわして痛ましい飾り達に溶けていたけれど、今夜は───いや、今夜も変わらず仲良しをしているようだ。罪と淫靡が白い水の記憶で織り込まれた、不行状なウタのタオルケットと。

「やあやあビビちゃん。お宅のウーさんにお目通り願いたいんだけどよろしいかね?」

横髪を押さえ華奢な腰を屈めたイトリは、赤らんだ頬を睫毛の陰で彩るビビに問いかけた。返事なんてものは期待していない。しゃがんで合わせた目をジ、と見つめてくるビビからも、刺繍の声はない。丸めた手手が緩徐にタオル生地を揉み、イトリへの興味を伝える蒼がゆうやらとした瞬きで遮られ、部屋のどこかで歩く時計の生真面目が控えめに聞こえるのみ。その間も向けられる色は死んだ貝殻でも転がっていそうなほど蒼く、加わる無遠慮な凝視は誰かの気分を害しがちなのに、「今日もかなり隠してるねえ」ビビの手手が埋もれたままのタオルケットを楽しそうにかき分けるイトリは嫣然とした笑みを崩さない為、半ば独り言の戯れでも大して気にしていないようだ。

また熱でもだしているのだろう、分厚く切り揃えられた前髪の奥、おでこに陣取る四角いピタ冷えろ。体調に難を抱えている虚弱のビビを、ウタはウタなりに思いやれているらしい。健康な体を持って生まれてこなかったことは、ウタの情報、延いては「読んでおいて」と投げ寄越された研究資料から知っている。度を過ぎた近親交配が齎した色も、人間の勝手な都合で課せられた重篤な疾患も。しかし、ただのデータとして纏められた紙にはこれでもかとビビの脆さが記録されていたのに、繁殖生活を終え静かに暮らしているビビは整った環境をなくしたにも関わらず危なげない生を縫い繋げていて、“D”のインブリードがどれほどの危険性を孕んでいるのか察するに難しいのが実際だった。

ビビは灰被った幼い身に、“D”の血を50%保有しているのだという。父方から25%、母方から25%。5代血統表内でのパーセンテージを抜き出すのなら、ビビを含む“D”の子ども達───その始祖となった“Danzig”のインブリードが 50%、“D”の血を損ねないその他喰種のアウトブリードが31.25%、体質補完を目的として入れられた人間の血がアウトブリードで18.75%となるそうだ。インブリードとは父と母の血統表内に同一人物の名がある近親交配を指し、アウトブリードはその逆となる。

ウタの話によれば、特異な血をインブリードで繋ぐ事により始祖の秀でた特徴をホモ接合型で固定するのが目的らしく、姉妹達が先天的疾患で儚く夭折し、たとえ何とか命を紡げても繁殖能力の有無によっては無残に廃棄をされてゆく中で、唯一“Danzig”の灰を持って生まれてきたビビは僅か程度の繁殖能力を有しており、そして、切望されていた灰の遺伝子をホモ接合型で宿していたらしい。あくまでもウタの話だ、そこまでの資料は寄越されておらず、目を通せていない。ただ、今にも切れそうな糸で繋いでいた命は施設を離れてしまい、そうすると環境に適応できず死んでゆく道も当たり前に用意されていた為、熱を出そうが毎日タオルケットを揉み続けている退屈なループを見て、ビビの生命力は意外に強いのだと思えてしまうのもおかしくはない話。ウタは中々に気紛れな男であるから、いつビビが廃棄されてしまうのか?そう案ずる気持も多少は持っているのだが、こうして些かぞんざいな労わりを受けている内は、儚くてひどく溶けやすい興味の糸が“まだ”繋がっていると見て構わないだろう。

ジ、とイトリの様子を観察していたビビがもぞもぞと身を寄せ、冬の小鳥たちを真似するように、灰の底でなんとなく抱きつつある親愛を伝えるように、傷みが顕著な頬を静かに寄せる。───かわいそうに。イトリは思う。ビビの白皙には陽射しによる些細な熱傷が残ったままだった。

「あの男、せっかくイトリ様が情報を持ってきてやったのに顔すら出さないんだからイイ根性してるわ。新しいオモチャでも見つけたんかね」

「?」

「ウーさんだよ、ウーさん」

ビビの髪に鼻を埋めたままスン、と利かせた時、新鮮な陽だまりの空気を感じてしまうのは、この部屋には鼻腔を通り胸に落ちる異臭が依然として酸素と共にあるからか。なかなか人使いの荒いウタを謗る言葉に棘はない。鼻先を突き合わせ言葉の意味を探すビビの蒼に、眉を上げ、困ったやつだと仕方なさの滲んだ笑みを映すだけ。

マイペースと一言で言っても様々なタイプがいるだろうが、仲良く寄り添っていたり、ふたりして座り込み積み木遊びをしていたり、かと思えば別々の場所で落ち着いていたり、ウタとビビの収まる枠は似ているように思う。時として同じ部屋に入れられた猫で、時として同じ部屋に入れられた犬だ。各々好きな事をやっているところからして今日のふたりは気ままな猫らしい。「……ウーちゃん?」たっぷりと間を置き空耳の鸚鵡返しをするビビに、そうじゃないと訂正をしてあげないイトリはケラケラした鈴音を異臭の部屋に彩る。4区の秩序としてあったウタへ向ける、茶化しの笑いとして。

「さーてと、」

じ、と刺さる蒼を引き連れたまま、イトリは立ち上がった。灰色を視界から失うだけで途端に飛び込んでくるオブジェ達、「ビビも来な」暢気に伝播するイトリの声は彼らの気持ちが知りたい。自由に出歩けず不本意な加工を受ける遣る瀬無さ、飾られるだけの価値、石榴と蒼に見向きもされない孤独、その気持ちを。

「、」

お供を許されたビビは去ってゆく野良猫を見上げ、僅かな寂しさが揺らぐ瞬きを扇ぎはしたけれど、ウタの籠る別室へ消えるイトリを見送った目目は手元に落ち、そうしてまたゴワゴワのタオルケットを緩慢に捏ねる。ここHySyの縄張りには気ままな猫が3匹いるらしい。パタン、扉の名残りに揺れる睫毛。灰は散るのみ。



「あーらら、またそんなモノ拾ってきて…」

感じていた異臭の原因はウタが解剖を楽しんでいる鴉だった。大方争いに巻き込まれたか猫に狩られた死骸を持って帰ったのだろう。膿盆に並んだちっぽけな臓器がぷやりとした艶を差しているのにも関わらず、似ても焼いても口に合わないであろう生臭さに、片眉を上げたイトリは白皙が目立つ手で大げさに扇ぐ。

一時の興味で集めたものが押し込まれる部屋は雑多としていて姦しいが、決してセンスを疑われる不味さはない。チェス盤の床に、いつかのビビが飾られていた大きな硝子ケース。中には枯れた花弁が敷き詰められ、もの哀しい血痕を湛えた木製の椅子が静かに佇んでいる。喩えるなら、この部屋全体が大きなおもちゃ箱だ。統一性がないからこその共通性はうまく調和をするもので、「…いらっしゃいイトリさん」一瞥すらくれず、床にしゃがみ込んだまま適当に呟くウタすら飾られたモノに見える。羊頭狗肉ではないのがHySyの恐ろしい所といえよう。手首が転がっていたなら間違いなく手首であり、右足が横たわっていたなら間違いなく右足であり、眼球が舐められていたなら間違いなく眼球なのだから。

開きにされた鴉は、ほんのわずか水溜まり程度の血だまりを鏡にしていて、やはりそれはおもちゃ箱を覗いた時に見える彩りと同じ。どうしてか分からないが不潔には感じず、まるでそう白いパレットの上、潤沢な筆先でまあるく愛でた様な───

「どうだった?白鳩のヒトたち」

鴉の鏡が赤い絵の具に似ているのなら、ウタの音吐は乾いた筆鋒に似ている。しん、と響いて酸素を蠕動してゆくさまは喉元を筆の穂先で撫ぜる無邪気さで、穏やかで優しいはずなのに淡々として冷たい。

「なーんにも。これといった進展はなし。西園 花の行方は未だに追ってるようだけどビビの名前はとんと聞かないわ」

瞬きの刹那には喉笛を掻っ捌かれていたなんて4区ではよく囁かれる話だが、決して眼球を潤してはいけない恐怖というよりは、どうやって玩弄されるのか想像もつかない盲目のストレスといえた。ずっと共に在るイトリにとったらこれこそがウタであり、いまさら何を思うことはない。しかし、そういえばこんな男と暮らし、傷付けられた痛みを抱えていながら暢気にタオルケットを捏ねていられるビビは、誰の目も届かないふたりぼっちの空間で何を思い何を感じているのか気になった。一緒に暮らし始めて早数ヶ月。一般的には“まだ数ヶ月”だが、気付いた時には「うるさかったから」とか仕様もない理由で恋人や遊び相手をバラしてしまうウタにしたら、こうしてそばに置いている時計は長い。

「そっか。…うん、まあそうだよね」

鼓膜を引っ掻く音と共に、生温い色のメスが膿盆に預けられる。置かれた間は、風に揺られた柳の緑が凪ぐまで見上げ続ける秒針の渡り、とでも喩えようか。CCGの持ち物であるビビを匿い、育て、こうして危うい立場に身を置いている男の様相としてみると、返ってきた返事も何もかもいっそ清々しいほどに平常だ。聞くまでもなくイトリの情報など予想していたのかもしれないし、悪事が露呈したならそれはそれで歓迎なのかもしれないし、そもそもどうだっていいのかもしれないが、それにしたって。

まるで小陰唇の様に開かれた鴉の腹をフォルセプスで挟み、そのままニードルで貫くウタを眺めつつ、数拍の休符を挟んだイトリが唇を開く。

「ひょっとしたらだよウーさん。有馬 貴将は黙ってるんじゃあないかねぇ、ビビのこと」

白鳩、西園 花、行方、未だ、ビビ、名、有馬 貴将───今から数ヶ月前、まだふたりが時計を渡り始めた一歩の頃、イトリはウタの一声により白鳩の動向を探り始めた。ひとつ間違えばアタッシュケースにされかねないお遊びは中々にスリリングで心が躍ったものだが、しかし、短いこの会話からも読み取れるように大きな進展はなし。資料の破片すらなければ当時の研究員に生き残りもおらず、CCG内でビビを知っている者は有馬 貴将のみ。それでも、似顔絵と身体的特徴だけで指名手配犯を追う世の中なのだから、どんなに探ってもビビの名前や蒼の一言すら聞こえないのは、花の手により失くされた情報は有馬 貴将の中で錠と共にある、そう結論付けてしまっても強い否定はできないだろう。ちょっと珍しい喰種を捕まえて繁殖を行っていましたなんて、公にできる内容でもない。楽しんでいたイトリからしたらすこし、いいや結構、興が醒める話ではあるが。

「…それならそれでいいよ。ビビちゃんは寂しがるかもしれないけど…彼にも思うところがあるだろうし。どっちにしろ、逢わせてはあげられないから」

ニードルの導きにより通ったキャプティブビーズリングにボールを嵌め、ちりんちりん、髪に結った鈴音を伴い部屋へ入ってくるビビを一瞥したウタは、特に手を招くこともなく再度ピアスで装飾された鴉に視線を落とす。やはり小陰唇に似ていて、まるでインナーラビアだ。指で広げてみればまさに。オスかメスか分からない、というよりは誰も気にしていない鴉を女性器そのものに変えてしまう指の、遊び半分でさえ絵にできる器用さ。

「それどーすんの?」「さあ…。蓮示くん行きかな」会話の畦道を抜けたビビは、ニードルやメスを抱える膿盆を反対側へ遠ざけるウタにぴったり寄り添って座った。怖い記憶を持つビビは血液を嫌うと聞くが、鴉の死骸に特別思うことはないらしい。馴染みのない動物とはいえ痛みを感じるのだということを理解していないのかもしれない。そうでなければ、自分と同じ命であるとリンクが出来ていないのだろう。丸められたタオルケットが赤い鏡の上に置かれ───こんな薄闇の中ではよく分からないが、おそらく、侵食をする様に色が滲んでいる事と思う。“今日もいっぱい隠してるねえ”、覗いた時に見つけた詰め草の、純粋で潔癖な生成りにも。

そうすることが当たり前のように並んでいるふたつの身体は中々に可愛らしい。これといった会話はないのにお互いの存在を認めていて、毛玉の手手は趣味の時間を邪魔したことに対する謝罪も縫わず、早速タオルケットをもさもさと解し始めている。フォルセプスで摘んだ部位へニードルを通そうとしていたウタが、しかしその手を止めじっとビビを見下ろし、ひとつ瞬きを揺らせたあとにスンスンと匂いを確認する仕草から、縒り合わされた興味の糸が見えた気がしてイトリは茶化すように肩を竦めた。きっと先のイトリが感じたように、ウタのお鼻もお日さまに出逢えたのではないだろうか。異臭の立ち込める部屋で灰を吸い込むと、不思議なことにお日さまの匂いがする。お昼寝前のビビと日向でお昼寝後のビビでは、どちらがよりぽかぽかしているか、いつだったか大真面目に実験をしたことがあるけれど、今回の条件で同じように比べてみたら多少の暇潰しにはなるかもしれない。なにより、ビビが日向ぼっこを始めるまでウタと共に待って、ビビが起きてくれるまでまたウタと共に待って、そうして心なしかふかふかになった毛玉に鼻を埋めたあの時が、平和ごっことはいえそれなりに楽しかったから。

「よし、泊まる」

「うん。…はい。どうぞ」

いつの間にやら縫いかけの布を手手に持ち、花か、脳みそか、なんだかよく分からないものをちくちくと縫い進めていくビビの隣に身を落ち着かせると、乾燥が進み粉を吹き始めている鴉が相変わらずインナーラビアを増やされており、お裁縫の不要となった待ち針を受ける針山代わりにされていた。女性器の腹の、その真上。鳥でいうちょうど喉辺りに、可愛らしいウサギやニンジンの待ち針が咲いている。

別に泊まる気でいたわけではないし着替えの用意だってない。もっといえば今夜は四方の元を訪ねる予定もあったのだが、申し訳ないことに気が変わってしまった。「うたぎ。」自慢気に、また見せびらかすように待ち針を引き抜き、「うさぎさんだよ」そう注意をされながら鴉の喉笛に針先をぶっ刺しているビビと、4区には到底似合わないお日さまが昇るまでくっ付いていたいと思ってしまったのだ。大した理由ではなく、2本の撚糸よりも3本を望んだというだけ。理由は知らないけれど、このふたりが一緒に居る絵が好きで、唆されるまま少しでも永く眺めていたくて。

結局は切れ目の仕込まれた綱渡りであり、ウタの一存によっては糸が切れると知っているからこその陽だまりである。気が気ではなくとも見守ることを望む気持ちは確かなのだから、いつか道が途絶え、僅かな埃しかない足元に灰被った遺体が落ちてきたとしても、悍ましい絵本や手首が目に入ってこなかったように、望んでひとりになったウタをただただ見上げ続けるのだろう。しかし、どうせひとりになってしまうのだとしたら、誰かの手で引き裂かれた現実の中で、灰を想って泣けばいいのにと思ってしまうのは内緒のお話。


烏猫として在りたい塀の上


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