スタジオを閉め、ウタがお花を探しにお散歩するのは毎日の事。猥雑としてゴミ溜めの様な4区でもシロツメクサは咲くらしい。遠くの夕日が僅かに赤く、ウタは哀愁を伴って呼び込まれる夜を確かに感じていた。

ビビをそばに置くようになってから、見渡した景色に新たな差し色を得た気がする。そこにある落書きも埃を含んだ空気も、遊び尽くした4区は何ひとつ変わっていない筈なのに、ふとした瞬間、首を傾げる灰色の違和感を覚えるのだ。しゃがみ込んだ足元で山になっているシロツメクサ。一生懸命に編んでも、笑顔見たさに手渡すもふもふの子は隣にいない。吸い込む空気と気紛れに編み込んでいるムラサキツメクサに氷が差され、ビビちゃんも来たらよかったのに、なんて、せっかくの誘いを蹴ってくれた毛玉に唇を尖らせる。釣れない灰色に寂しさを突き付けられるのは何度目か。お花畑へ連れて行った時はあんなにも楽しそうだったから、今日もああやって笑ってくれたらと期待をしていたけれど、蕾は綻びなかった。

まだ、馴染みのある縄張りから出る事に些かの恐怖を抱いているようだ。

最近でこそウタの顔色を窺う事なく窓際での日向ぼっこを楽しんでいるが、1階へ繋がる扉へは決して手を伸ばさない。痛い事をされると思っているのだろう。ビビの足が友人を求めフラフラと扉へ向かう度、それはいけない事だと分からせる為に小さな身を床へ引き倒した。痛みに詰める息と、怖くて震えてしまっていた身体は今でも鮮明に覚えている。これから先何を贈って、何色の言葉を掛けて、どんなに優しい男の子に貰われていったとしても、ビビの根底には怖かったあの日の記憶がずっとずっと淀み続けるのだと思うと、ほんの僅かな笑顔見たさにせっせと花を摘む両手さえ贖罪を演じる愚かしいものとしか思えなくなってしまう。だったらそのまま淀んでいればいいと思う反面、もう乱暴な事はしないと約束したあの言葉を、理解してくれなくてもいいから贈る花の命で察してほしいとも思う。どちらにせよ、あの日あの瞬間の感性がビビの痛みを楽しんでいたのは事実。こうしてほぞを噛む苦々しい記憶がなければ、ビビの微笑ひとつにここまで拘る事なんてなかっただろう。結局はなるようにしかならないのだから、今を楽しんだらいい。ただそれだけ。

───ふ、と。吐き出す息はオモイ。痛くても怖くてもジ、と耐え忍ぶビビの絵が輪郭から薄れ、ぼやけ、そうしてひとつの瞬きをする頃、まるで蝋燭に火を灯した様な曖昧さでシロツメクサの冠を目にとめる。やけに久しく感じる呼吸。思考の目隠しから覚めてしまえば、ああそうだ四つ葉のクローバーを編み込んでいる途中だった。暗くなる前に帰らなければ。灰色のビビが、隅っこを求めて隠れてしまうから。

風がそよぎ、目に掛かった金糸には僅かな橙しか戯れていない。遠く、ずっと向こうへ去ってゆく夕日の赤みはやはり物哀しく、せっせと編むシロツメクサの純潔に悲哀な夜を滲ませ始めている。今し方頬を撫ぜた風はあの鳥籠の鉄格子を抜け、ビビの元まで届くのだろうか。胸にしん、と滲む哀愁の色を伴って。





「また匂い付けしてる…」

「?」

自らの縄張りを広げようとしているのか、与えられた自室に不満があるのか、ビビはあっちこっちに匂いをつけて回る。ソファだったり、ウタのお洋服だったり、クッションだったり。ふたつの贈り物を片手にビビの元へ帰った今日も、例の毛玉はウタのベッドでゴロゴロすりすりとやっていた。

一緒に眠ってしまったら手を出さない自信がない、だからこうして寝室を分けているというのに。身を起こし、ちょこんと座り直すビビは男の子の健気な事情などひとつも読み取ってくれず、じっとウタを見つめて数秒の秒針を跨ぐ。子供の癖していやに雌っぽく、誘っているかの様な仕草と瞬きだが、しかしつまらない事に、眼前の毛玉には僅かとしてその意思はない。誘惑に乗りじゃれ合いを求めようものなら、途端に怖がられて集積した全てが振り出しに戻るだろう。萎靡の明日が目に映るようだ。

ベッドサイドでちょいちょい、と手を招き、申し訳なさそうに寄ってきたビビを片腕で抱き上げる。衣服越しでさえ柔らかな感触は、それでも出逢った頃より幾らか痩せてしまったように思う。あれ以来、食事を摂らずにいるビビを思えば至極当たり前の事といえた。肉を目にするとあまりにも怯えるからと、強要出来ずにいるウタの優しさ、弱さとも言えるだろうか。きちんと首に腕を回すあたり、痛みを徹底的に省いた言葉だけの躾も少しずつ通っていると窺えて、こしょこしょ話の「おたえり。」に「ただいま」を返しつつ、ビビの匂いがほんのりと移ってしまった寝室を後にする。

「、」

「どうして悲しそうにするの?怒ってないよ。ただ、…寝にくいなぁって思っただけ」

「ねに?」

「寝にくい。美味しそうっていうかさ…落ち着かない。好きなコってそうだよね」

「うん。」

ウタの言葉を理解しようと大きな目目でじっと見つめるビビは、紡がれた言葉の刺繍がひとつ区切りを迎える度にこくん、と頷き、ウタとお喋りがしたい気持ちをお返事だけで伝える。実際は、おそらく、少しも理解出来ていない。ウタだってそれは分かっている。分かっていながら、いつも通り誰かと話すようにスラスラと刺繍を進めているのだ。本当は理解して欲しい言葉を混ぜながら、白い布に白い糸の刺繍を。


ビビの寝室はやはり、今日も今日とてビビの香りがした。幼さが滲んでいるといえばそうであるし、雌らしいといえば雌らしい。要するに、とても美味しそうな良血の匂いだ。喰種の鼻でさえよほど近くに寄らなければ感じられない薄さである為、無闇矢鱈と雄に狙われる日は訪れていないが、一応は繁殖用として飼われていた身体がそんなんでいいの?と研究資料を流し読みしながら首を傾げた事がある。この家に集まった仲間も、隅っこで一人遊びをするビビを見て“匂いがしない”と訝しんでいるくらいだから、雄を惹きつけるに至っていないのは明白だろう。あの日、あの大雨の中、ビビの香りを捕まえられた事が本当に不思議だった。ひょっとして西園花の香りだったのでは、なんて、自分の記憶を疑うくらいには。

「はい、ぽーんするから手はなして」

手に持つ贈り物を傷付けないように分厚い天蓋を避け、ウタの髪に鼻先を埋めてくんくん、としているビビを言葉の通りポーンと投げてしまえば、柔らかくふかふかのベッドに毛玉が弾み、けたけたと楽しそうに笑ってくれる。最近はこれがお気に入りらしい。おかえりをした時と、あとはビビを寝かしつける為に寝室へ入った時、ちょいちょいと袖を引かれて強請られるようになった。こんなので笑ってくれるなら、そう思って付き合ってあげるウタは嫌な顔をひとつとしてせず、むしろ進んでビビを放り投げている。もちろん、怪我や痛みに繋がらないよう、ふかふかの寝具やクッションを誂えて。

残滓が淀んでいる幸だとしても、紛れもなくこの瞬間に感じているのは温かさ。ベッドに腰掛けたウタにのそのそと這い寄ってくるビビはまだ笑みの余韻を湛えており、まるで甘える猫がそうする様に、ウタの腕をどけ、小脇にぴったりと寄り添ってくる。今日は何を貰えるのかな、期待をしてジ、と見つめてくる目目の愛らしさ。言ってしまえば媚びだ。強い雄への媚び。自らの匂いすら数多の雄に届けられないくせに、いや、届けられないからこそか、一番近くにいる雄であるウタに媚び、匂い付けまでしている。ビビは時折、こうした甘えの仕草をみせた。ウタが居る事は当たり前と理解したらしく、一日の大半は寄ってきてくれないくせに、自分の気が向いた時にだけ。

「お花。」

「ほしいの?」

「うん。」

「なんて言うんだっけ?」

肩を抱くようにして頭を撫でているウタに、待ちきれないビビからの催促。俯せ、ウタの横腹に頬をくっ付けたままジ、と見上げる目目は数度瞬き、もぞもぞと身動いではおねだりの言葉を探している。ビビはまだ子供で、何も知らなくて、蠱惑的な仕草など考えもつかないだろうに、おっとりと扇ぐ扇に従い喉元を撫でてしまうのは、無垢でいるべき灰色を組み敷くまま汚してしまった記憶があるからだろうか。

「お花、ちょだい。」

「“ちょうだい”」

「おはな、ちょうだい。」

何も特別な意味をもたせて教えた言葉ではない。不埒な影も───ないとは言いきれないが、誰が相手でも通じる言葉を選んだつもり。しかし、ビビの瞬きに蠱惑する雌の色を垣間見ただけで、べちゃりと粘着質な白い糸を思い出すくらいには、何気なく教えたおねだりの言葉はこの世の淫靡な者達に使い古されていた。そうした色が悪い事だとは思わない。楽しいし、言うなればそれが当たり前。結局は個々の考え方によるのだろうが、猥雑を楽しむのが4区の生き方だと考えれば、そこの頭に拾われてしまったビビは場違いな程に毛並みが良く、馬鹿らしい程にお上品で、だいぶ世間知らずと言えるかもしれない。

いいコ、と髪をもさもさしてやれば「ちょうだい。」ジ、と見つめたままもう一度強請る言葉に、そう急かさなくてもちゃんとあげるよ、なんて、手を突き身を起こしたビビに一層の雌らしさを感じながら、くんくん寄せられる鼻先を掌で遮る。そのまま立ち上がってしまったウタを追う寂しそうな目目、恐る恐る握られる裾。膝立ちの向こうにある足首は可哀想な程に細い。

「今日のはポイしない方がいいと思うな」

「?」

「ひどいコトしちゃうかも」

意味は、幾つかある。そのまま受け取ってくれてもいいし、火に焼べて見えない刺繍を炙り出してくれてもいい。しかし、アハ、と粗忽さを含ませて笑うウタはビビのオツムがどの程度か知っているのだから、言葉だけの戯れなんてものはもう、ウタの一人遊びと変わらないのだろう。分かっていてもからかってしまうのは、一生懸命理解しようとしてジ、と見つめてくる目目をほんの数秒だけでも求めているから。綺麗な蒼だなぁと思う刺繍の裏側で、ぼくをずっと見ていてと願っている。あくまでも裏側。深層の海のずっと底。

そうして毛玉に載せるシロツメクサの冠は愛らしく、秒針の経過と共に褪せたアイボリーが優しさを帯びており、ただ静かにビビのまあるい頭に落ち着く。自分で自分を確認出来ないビビは首を傾げるばかりなのに、もこもこの髪を整え、前髪を数度撫でてやるウタはひとりだけ満足げに頷く。ビビの灰色には淡くて柔らかい温かさが似合う、そう思っていたから。

「待ってね、」理解できる一言で“待て”を告げ、今にも冠を外してしまいそうな両手を片手で捕まえたまま天蓋を避ければ、そばのチェストから鏡を出す僅かな間、すんすんとお鼻で呼ぶ待ちきれないビビ。ウタはこの瞬間が好きだった。ビビが興味を示してくれて、早く早くと急いているこの瞬間が、とても。喉で笑ってしまうのは仕方なさを装っているだけ。「かわいいね。お姫さまみたい」なんて言いながら鏡を背に隠すのも、せっかく整えてあげた前髪をふーっと遊ばせるのも、全てはそわそわ落ち着かないビビをもう少しだけ見ていたくて。

「…、」

身を屈め唇を寄せるウタを見て、芸を披露する様にぷにっとキスをするビビはとにかくウタの時計を進めようと必死。唇を離して、ジ、と窺って、そしてまたぷにっとくっ付ける。フラついた腰を支える為に離した両手はいい子でウタの服を掴み、いい加減疲れたのかウタの手がお腹付近に来たからか、伸びの良いそれを引っ張りながらぽすっとお尻を沈ませた。そろそろ滲んでくる悲しみの色。糸の撓んだマリオネットの様に俯いてしまいそうな頭を引き寄せ、ほんの軽く戯れを啄み、数度だけ愛らしい上唇に吸い付く。数度だけ。───ごめんね、そう言ってやっと、やっと差し出した鏡には果たして、ビビの気に入ってくれる絵は映っているだろうか。

「、」

「見えてる?これだよ、シロツメクサ」

ちょんちょん、一生懸命に編んだ指が冠を示すと、ビビの蒼が上へ持ち上がる。「わあ。」次いで咲く灰色の声に、微笑ましさから首を傾げていたウタが、囁く白波に似た優しさでくすくすと笑んだ。お馬鹿なビビは自分のお鼻あたりを見ていたらしい。訝しげな顔をしていたからそうかなとは思っていたのだ。期待の輪郭には、もちろん、ポイされませんようにと願った十字架が列をなしていたけれど。

よく言うだろう、“花が咲いた様な笑顔”だと。ウタは僅か数秒もすれば凪いでしまうこの笑顔の為に、時には血気盛んな邪魔者をバラし、時には白鳩を吊るし上げながら、決して楽ではない時計の中で毎日お花を摘む。ビビが気に入ってくれそうな子を見つけては、せっせと。

全部が全部、花笑みで迎えられるわけではない。中にはくんくん、と数度鼻先が寄っただけでポイされてしまった物もあったし、枯れてくしゃくしゃになっても枕元で添う事を許された花もあった。ビビの好みは未だによく分からず、というよりは毎日毎秒時計の針がちくたくする毎に変わっているのかもしれないが、ウタ自身はこうして、窓際で大事に育てている花へ水をやる様な時間を心から楽しんでいる。ビビの笑みには瞬きの間に咲く薔薇の華やかさはなくても、綻びる蕾を早送りで眺めた穏やかさがあるから。ゆうらりと咲き、暫しの後に俯いてゆく花のしおらしさ。

掴んだままの裾を緩徐な手手でびよびよ引っ張るさまからはタオルケットに添える愛情表現が見え、それが愛であれ恋であれただの情であれ、毛玉のビビがシロツメクサの冠にそれだけの価値をみたのだと知る。鏡を放り、両頬を包んで覗き込む蒼の額縁には同じように穏やかな花弁を湛えている自分が映り、ああこういうのって照れくさい、そう思いながらコツンと額をくっ付けた。照れくさい、照れくさい、───よく分からないけれど、もしかしたらこういうのを“愛しい”と呼ぶのかもしれない。何度目でも慣れない感情が咲くたびに、こうして灰まみれの愛に結び付けている。

過ぎた秒針で滑り落ちた冠に気付きもせず、けたけたと子供の声で笑うビビは確かにウタの感情そのものだ。この世にはあとどれくらい、ビビに気に入ってもらえるものがあるのだろう。例えば、ビビとさようならをして背中を送る日まで、あとどれくらい笑ってもらえるのだろう。

数えてしまえば枚挙に暇がなく、両手の指を折り、そしてビビの指を借りたってひょっとしたら足りない程度には咲いてくれるのかもしれないけれど、そうだとしても、終わりを迎えた日に残るのは“こんなものか”という寂しさだ。俯きしか残らない。分かっていながらせっせと花を運ぶのは、先の未来まで紡ぐふたり分の綱となってほしいからでもあり、先の事はどうであれただビビの笑顔がみたいからでもある。

「今日はもう1個あるんだ。ウサギのチョーカー。途中で見つけて可愛かったから…どうかなって」「うたぎ?」「ウサギ」「…うたぎ?」ふかふかのベッドに落ちたまま、もう一瞥の蒼すら得られずに影となっている冠。それは沈みゆく夕日のように物哀しく、ぼんやりと灯る短調の哀愁を滲ませているが、今まさに鼻先を寄せ合いこしょこしょ話でお喋りをするビビが、つい数秒前には笑ってくれていたという花笑みの秒針があるのだから、ああしてポイされているのは致し方ない事なのだ。少しして冠の存在に気付いた時、もう一度咲くか黙するかはどこの本にも書いていない。分からない。だからウタは、未だ花の滲む灰色を愛おしく見つめる。最後の日を過ぎた時、瞼を閉じればいつでも会えますようにと。


硝子を想う詰め草と聖櫃


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