蝶を捕まえた。

耳を塞いだ雨の日。風吹けば散る様な脆弱の花に、小指隠した真白い手を引かれていた。

赤い糸が絡まっていたらしい。傾げた首と、隠した指に。


蒼く白帯の翅が冷たい灰。花が枯れ鳥籠にて愛す。

どうしてか知らないけれど、糸は永えの蝶を捕まえた。





喧騒から顔を背け森閑としたお花畑に、白を捧げるスケッチブックと単調なインクが交合う、片耳に心地良い褪せた音がそよぐ。

静かだ。
星も霞むほど栄えた街で過ごす日々の中、まるで風音でも聞いているかの様に当たり前となってしまった、団子になりたがる女子高生の足音、煤を溶かした排気ガスのにおい、手を叩く下品さに重なる笑い声、目の奥にツンと針を刺す煩いネオン、それらの雑多な存在は一切として確認出来ず───ただ静かに陽が翳りを揺らした一瞬のセピア、自由な翼で葉を弾き飛び立つ鳥の、思わず顔を上げる羽音だけが静かに煩い。

こうして穏やかな空間に身を置いてみると、今までの日常がどれ程姦しいものだったのかを酷く痛感する。たかが花畑、もの言わぬ花が咲いているだけの開けた場所。言葉で表してしまえばとても退屈で有り触れているだろう。

しかし、肺を満たす芳香は極彩色のしつこさを押し付けてくるのに不思議と柔らかく、まるでブーケを大事に抱えたビビを戸惑いの末に抱き締めた様な、もこもこの髪に鼻先を埋めて深呼吸した時の様な、継ぎ接ぐ胸の真ん中にすとんと滲む安らぎを感じた。

ビビが気に入ってくれたら。
少しでも笑ってくれたら。
毎日いい子で“おかえり”と言ってくれる灰色を思いやり連れて来た筈なのに、どうしてだか、ビビよりもウタの方がこの絵に癒され始めているらしい。スケッチブックに描き生まれる灰色の子は温かく、そよぐ風に命を囁かれ今にも振り向いてくれそう。ぱちり、不自然な瞬きと共に。

「好き?お花」

「うん。」

「ちゃんと言わなきゃダメだよ。好き?」

「すき。」

「はい。ぼくも好き」

引っこ抜いた花を見つめたまま呟かれる“すき”に、すとんと落ちる重みなんて少しもない。ウタ自身に向けられた言葉ではないからだ。

いつもいつもそう。時には捕まえた芋虫に、時には枯れてしまった窓辺のガーベラに、時には糸の解れたタオルケットに、時には読めもしない分厚い童話に。ただ頷く様な安直さで、ウタから教えられた“すき”を口にする。

壁に引っかかった塵にも等しいこの言葉を聞く度じんわり熱を持つ胸と、先の寄り添いまで末永く望む深層は、今はまだ、解れの恋心を捨てきれない。どうか振り向いて。と、諦めのまま片頬を見つめる日々は蒼く。

───思えば。
涙の血痕が固まる四角で身を寄せ合う。そう決めてから追い越した月は、数歩ほどになるだろうか。気付けば過ぎている舞台袖のカレンダーを、ああいつの間にと1枚2枚捲る程度の歩数。そう考えると、二人で跨いだ日は未だ厚みに乏しく、長く寄り添ったとは決して言い難いのだと思った。大衆から好まれる恋愛映画や一般常識を参考に考えるとしても、心から欲した灰色を土の下に埋めるには跨いだ月が足りない。

てるてる坊主にそっくりだね、と茶化されたケープのフードを下ろし、咲き揺れるお花の上にぺったりと座り込んだビビは、手垢の少ない花畑にある唯一のしろがね色。愛でられる事なくひっそり咲いていた花がまあるいお尻で踏み潰され、苦い汁で以て痛みを訴えても、拉げたそれへ一瞥の蒼すら手向けない薄情さがウタの目には何より愛らしく映る。

例えるなら、暖色で笑いかけてくれるのに裏を返せば嬋媛の影が差す様な、伸ばす手も躊躇うバイカラーの薔薇だ。少しでも触れようものなら忽ち鋭い棘にじゃれ付かれ、瞬く刹那にはもう心の肉をごっそりと持って行かれてしまう。不思議な事に不思議な面目には裏表があって、それはとても美しくて、誰より温かい太陽なのに、不思議と冷たい面目の不思議。

「?」

「あ、かわいい」

ひらり、ひらり、
灰散らす瞬きにも似た優雅さで翅を遊ばせる青条の蝶が、珍しい事にビビの小高い鼻先へと留まった。色とりどりの花が犇めく中で、迷いもせず。

「動かないでねビビちゃん。それ、逃げちゃうから」

「へんなの…なに?」

「蝶々だよ。いも虫が大人になると蝶になるって、知らない?」

「うん。」

「ちゃんと覚えた?」

「うん。」

「いも虫が大人になると?」

「うた。」

「違うよ。蝶々だよ」

無知が適当で頷くやり取りを、ここまで何度繰り返しただろう。ものを知らないからか、性格の問題か、ビビは口数が多い方ではなくいつでもぼーっとしているから、身にならない会話でもウタにとっては特別なもの。

出来るならいつまでもこの声を聞いていたいし、無駄なお喋りだって遠慮しないで聞かせてほしいし、ワケの分からない変な歌だって聞かせてほしい。一日の大半は噤まれているこの唇が、何か1つでも多くをお喋りしてくれるなら、もう何だって。そこには恋だとか愛だとか、蒼い色の灰は混ざっていないと分かっているけれど、ビビの声ならもう何だって。

じ、といい子にしているビビの丘で穏やかに翅を休める蝶はきっと、神様の技巧で整えられた容貌を隠すマスク。その灰色に目を細めるウタはきっと、休める翅さえ持たない黒い蜘蛛。

幼い横顔に焦がれて走らせるペンを見ればどの口よりも素直なもので、恋をしています、と、そうザラついた紙越しに告げているようで。

この一瞬を、共に在った一瞬を、寄り添った一瞬を、たった1枚の絵で構わないから遺しておきたいと願う心は蒼い。ふよふよ自由な毛先と物言わぬ花に似た唇の艶まで描き込むウタの手が、死出の旅路へ立った───もう戻ってこない想い人の頬に縋るかの様に、少しだけ寂しく、なにより愛おしげに寡黙な想いを描いた。

ややして、また陽が翳る秒針。移り気に飛び立った蝶を追い雲色の空を見上げたビビが、それでも目に痛い陽を嫌ったのか緩慢な動きで顔を背ける。先まで在ったビビはもう無い。蝶も去り、灰色も顔を背け、そしてこの絵はあの一瞬を知る唯一の紙ぺらとなった。

歩んだ未来。一人ぼっちか寄り添いの幸せかは知る由もないが、ひょっとして、忘れた頃に埃かぶったスケッチブックを見付け、眺め、焦がれるままにペンで愛したこの瞬間を、ああそんな事もあったなあと懐かしむ日が来るのだろうか。一人きりで棄てた恋を思う痛みは想像に容易い。けれど、もし。

もし、ビビと一緒に褪せたスケッチブックを開く事が出来たら───その幸せを想像する事は、蒼い雨粒を縫い繋ぐよりもずっと、ずっと難しい。

恋とは不思議なものだ。痛みを想像するのはこんなにも容易なのに、綻びた花が開く事なく枯れる程の幸せとはいったいどれだけ温かいモノなのか?煩い色彩の上にぺったりと座り込む灰色へ身を寄せ思考を捲っても、やはり落ちる答えはなかった。

「あたま、撫でてもいい?」

「うん。」

「本当?がぶってしない?」

「がぶって。」

「うん。しない?」

「ないよ。」

じゃあ噛みついたらキスするね、そう言っても当たり前に頷くビビはどこまでも素直だけれど、惜しむらくは、これが自分にだけ向けられる頷きではないという事。

不貞と罵るつもりはない。育った環境を、いや、ビビを現在養い育てている男を思えば、常識なんて育つ筈がないと良く分かるから。ビビが無知だからこそ、今も一緒に居られると分かっているから。

怖がらせないよう、ゆうるりと風を割った手が灰色の髪に触れる。心地好さに澄んだ瞳は控えめな甘えを滲ませ、催促のつもりか無意識か、お腹の服を掴んでくる手がどうしても庇護欲を煽った。

黒く塗り潰した爪も灰に埋まり、指の間を誘惑する様に滑り落ちる尊い灰色。ビロードにも勝る艶と手触りはどこまでも尊く、これは指先だけでもビビに触れていたいと願った片道のウタが、毎夜の約束事として丁寧に手入れを重ねた賜物だろう。血で固まり束になっていたのはもう、過去の話だ。日捲りの足跡でどれだけウタに可愛がられ、大事にされ、守られているのかが、紫滲む柔らかい毛先を見ただけで窺える。盲目の者でも知りたいと願うのなら、ウタとビビの許しを得て触ってみたらいい。愛でれば愛でるほどに愛らしさを増す灰の柔らかさは、過ぎた日で盲いたとしても、指に触れさえすれば染み込んだ恋も瞭然だから。歩む先にその指が残っている保証は、ないけれど。

1つ、撫でる度に胸は鼓動を打ち。2つ、撫でる度に花が綻びる。かつて糸の切れた足で拉げた花を擦り、ゆったりと身を寄せてくるビビを仕方なさの装いで抱き締めれば、まるで胸を焦がすお手伝いをするかの様に可愛らしいお日様の匂いがした。

ちりん、
安心を運ぶ鈴が耳元で揺れたから、言葉の代わりに頬を擦る。小さいその両手で、少しでもこの想いを掬ってほしくて。


名残惜しく離した身の瞬き。風に運ばれた花弁がビビの頬を掠って去った。

柔らかく片目を瞑る一瞬の愛らしさを、土に還る末まで知らないまま。


回れ右して鱗翅目

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