雨が降っている、様な錯覚を覚える。
不思議なものだ。柘榴実る伏し目を窓際へ向けてみても、カーテンのお足元から漏れる月明りに雨粒の影はなく、寂寞を濃くしているのは耳鳴りの雨音だけだというのに。

雨。触れれば濡れる雨。心臓の鼓動をも知らんふりして、人を、喰種を、野良猫を、梔子の死体の様に冷たくしてしまう憐憫の雨。誰の絵を眺めようと蒼い差し色が泣く空模様は鬱陶しい目で見上げられがちだが、一般的な色彩などなんのその、数度の瞬きを経て一層と睫毛を伏せるウタは蒼い雨降りも別段嫌いではなかった。

男とはつくづく単純な生き物だと痛感する。これといって好きともいえない女だろうが抵抗なく抱けていたし、出すものを出せばすっきりもしていたし、腕を貸して眠る夜も悪くはなかったし、陳腐な言葉で飾るならば単純な気紛れに従う日々も“楽しかった”。それなのに、冬枯れに添う雨粒が部屋の綿を濡らす様な、頬も睫毛もひやんと冷える寂しさを感じているのだから。

───雨も瞑す春先の夜、灰被ったビビは泣いていた。

ほら、男とは単純な生き物だろう。手探りで愛でる蒼が涙を落とすだけで、葬列の傘を滑るありもしない雨音に耳を傾けてしまう。蒼が悲しい色だと初めに宣ったのは誰だろう。男だろうか、女だろうか。何を思って蒼に悲しみを背負わせたのだろうか。哀しい蒼、哀しい雨、ビビの瞳に悲哀を彩る言葉が嫌いだった。それにも拘らず、指の背で涙を拭ってやる自分は声も亡く泣く蒼い双眸に哀を見る。

ミルクティー色の淡い天蓋に守られたベッド上にはウタとビビしかいない。ウタと、ビビしかいない。あのウサギはいない。

「…、…。」

しゃくりあげる声すら我慢するビビの音吐は切なかった。ぺたりと座り込んだまま大事に抱えているのは、ウタの寝室から泥棒して来たタオルケットとえだまめのぬいぐるみだ。いっそ青みを湛える唇が何か言葉を紡いだようにも思えたから、怖がらせないよう、びっくりさせないよう、まるでキスでも強請る穏やかな所作で顔を覗き込むと、ビビは相変わらず“ぎ”と“げ”の中間の曖昧な発音で「うたぎ…。」と呟く。

おそらく、ビビは勘違いをしているのだと思う。あのウサギはお家に帰っただけで、いつかの花の様に死別したわけではないのに、言葉の壁が高すぎる所為で何て事はない事実が知れないでいる。きっと、指先も白む冬の日のガーベラを思い出している。涙を拭う事すら一寸躊躇するウタには、慰みとして寄せられる指先がない。鼓膜の奥か、頭蓋の内か、首の後ろか、喉の際か、おぼろな空間を濡らす耳鳴りの雨は未だ続いていた。

蒼は悲しい色だなんて誰が決めたのだろう。ビビはどうして、声を上げて泣いてくれないのだろう。

ここはもう悍ましい施設ではないのだ。泣き声に眉を顰める大人もいない。それなのに、ひとつでも嗚咽を零せば叩かれると怯える様に、ビビは肩を縮こまらせたままジ、と耐える。お口をム、と噤んで、ジ、と耐える。ただただ痛ましく思った。繁殖の檻から逃げた末でさえ手酷く扱われる秒針を歩かせてしまった事にも、“いい子で居なくてはいけない”と我慢に我慢を重ねさせている事にも。

「かなしい?」

「…?」

「それとも、さびしい?」

こわい?とは訊けなかった。いつも通りの猫背で胡坐を掻くウタに対し、依然としておさなごの様に座り込むビビは灰色を数度瞬いて言葉の意味を推し量る。もう日付も越えた夜更けだ。こんな時間にウタがビビの寝室に身を置いているのは別に吐き出す穴として足を開かせたいからではなく、単に灰を寝かしつける為であるに他ならないのだが、大した表情もないまま涙だけが姦しい瞼に宵はなく、小さな小さな体を横たえる素振りすら見えない。何度か肩を押し促してはみても、眠る気など微塵もないビビはもそもそと身を起こしてしまい無駄な時計に終わった。

頬に掛かる灰糸を梳き、孕む熱で赤々しい唇を指の背にて撫で、そうしてガラス細工を扱う仕草で愛でるウタのジャケットを、ビビのちいさな右手が遠慮がちに引く。なぜこの時間になってまでウタがジャケットを羽織っているのかについては、ビビを寝かしつけた折には遊びに出掛けるつもりだった為である。

しかし、もう、諦めた。この調子では夜中に起きてしまう可能性も否定できないのだし、そうした場合、自惚れるつもりはないが孤独で泣く灰に寂しい思いをさせないとは限らない。ウサギの代わりにすらなれない自分が惜しまれる立場であるかどうか?と訊かれたら、“さあ、”としか言えないけれど。

つ、───と裾を引く手が名残惜しさを滲ませつつ、ベッド上へ落ちる。ちいさな手だ。踏めば拉げる様な、あの日の花畑で見た花の様な、ちいさなちいさなおてて。十から一歩二歩と歩いた程度の子供など相手にした試しがなかったから、あまりの幼さに玩具でも眺めている気分になった。

ふと、四季と共に移ろった過去を思い出す。いや、過去と言ってもほんの一年程度の暦だろう。ビビを拾った今では遠い昔か、あるいは映画で見た映像の様に他人事として思えるが、灰も柘榴もお互いの顔はおろか名前すら知らない白紙の過去は、指折り数えようと今からたった一年ほど前に過ぎない。まだビビと出会う以前、あの雨音に頬を濡らす以前、ビビが繁殖小屋で物言わぬ子宮として過ごしていた、たった数ページ遡った極彩の過去。どういうわけか、今ではすべてが灰被っている。

「前ね、付き合ってたコがいて」

睫毛を伏せ、音もなく見下ろす手首は死んだ肌の色だった。

「初めから出逢わなければよかったって、言われたんだ」

そばでくしゃくしゃになっているビビのブランケット。それを手繰り寄せるウタは雨音の声で語る。何てことはない思い出話の色彩には引かれる後ろ髪もないらしく、ただただ淡々と縫われる無地の刺繍は褪せも染みもしない。

彼女との間に、長く付き合っていたとか、特別な事をしただとか、子供が出来たとか、そうした引っ掛かりはひとつもなかった───と記憶している。間に何人も挟んでいた為に正確な顔立ちも今となっては思い出せないが、彼女は元々の性情ゆえかどうしても割り切れない日々を送っていたようで、いつも可愛らしいやきもちばかりを焼いて来る子だった。

決して、悪い思い出として残っているわけではない。いや、“付き合っている”なんて名ばかりの日々を過ごさせた挙句あのような言葉を言わせたのだから、彼女にとっては悪い思い出で間違いないだろう。しかし、無様なキャットファイトを繰り広げるわけでもなく、誰もいなくなってからクッションを投げつけて来る様な外面の良い彼女は、最後の憎まれ口さえ何だか可愛らしさを残したままだった。こういう子は普通の男と付き合えば幸せなのに、他人事ながらそう思ったのも覚えている。

「あの時はよく分からなかったけど…なんとなく分かった気がする。なにも恋愛だけじゃないんだよね、出逢いって」

今になって彼女の事を思い出したのは、泣かせるくらいならウサギとなんて会わせなければよかったかな、と思い至ったからだ。飽きたら次、飽きたら次、そうして子宮を渡る毎に硝子の瓶は引っ繰り返してきたつもりだったけれど、空の空間から引き出す思い出も世の中にはあるらしい。

泣いているのはビビである。従って、あの彼女と重なるのはビビ以外に居ない。しかしどういう訳か“出逢わなければよかった”と、まるでポプリの様に枯死していた彼女の姿はおおよその輪郭が自分と重なった。チョコレート色をした暖かなブランケットでビビの身体を包む。束になった睫毛を持ち上げジ、と見つめてくる瞳が蒼い。出逢わなければよかったなんて、そんなこと、別れの日に紡ぐ刺繍は針を失くしたままでいい。

「ねえ。ビビちゃんもいつか、そう思うの?」

小首を傾げる柘榴、雨の悲哀を伴ってゆうたりと瞬く灰。蒼が悲しい色などと誰が決めたのだろう。

───なんて、ウソ」

ちゅ。
ブランケットの合わせ目を引き寄せお鼻に贈るキスは小さく、ビビは石榴と蒼を重ねたままもう一度瞬いた。未だ合わせ目を纏める手、ちょうど親指の背に雨粒が落ち、温度を失くしながら緩やかに滑落してゆく。

涙を拾う事が出来たなら、まあるくて蒼い玉を指先で拾う事が出来たなら、ジ、と見つめてくる蒼に雨音を聴く耳鳴りもなかったのかもしれない。

結局のところ、雨は瞳の中で降り頻っていたらしい。宵を湛え、矢車菊にも似た双眸から涙が落ちる。嗚咽はない。おさなごの様に鼻を啜る訴えすらない。ただ静かに、ビビの矢車菊は一枚、また一枚、ひとしずく、と水彩を落とし続ける。

傍らで佇む絵本へ一瞥を向けるが、しかしビビの睡眠薬としてある童話には手を伸ばさないまま、ウタは一層とチョコレート色を引き寄せてみせた。棺の色彩として王子様を待つ白い姫の心情も、毒林檎を差し出す片手の軋みも、白痴美を絵に描いたビビには理解どころか想像すら出来ないのだから、泣きしきる夜に紡ぐ糸車などないといってよいだろう。

ウタは痩せ細った身を抱き上げる。少しでも僅かでも、灰被ったビビが穏やかな眠りに就けるように。「震えてる。…怖がらせた?ごめんね」怯えさせずに済む方法があるのなら教えてほしい。

「お外に行くだけ。ぼくもそばにいるから大丈夫」

「…おとと?」

「そう、お外」

「…。…おとと。」

ベッドから下り、天蓋の隙間を潜り、そうして寝室の扉を開ける頃には、抱き上げられてもなお大事に大事に抱えていたウタのタオルケットの中から、えだまめのぬいぐるみが虚しく転がり落ちた。ビビはウタへ頬を寄せる様にしてえだまめを見下ろす。白黒の床、みどり色のえだまめ、ワックスで捩じられた金糸の毛先、稍もすると浅く閉じられる扉、それでも隙間から覗くみどり色のえだまめ。見下ろす景色が移ろおうとビビの視界の額縁には金糸の毛先が在り続ける。

未だ腕に伝わるビビの震え、その仔細はウタにも分からない。繁殖小屋へ連れて行かれる揺籠を思い出しているのか、あるいは単純に、痛い事をされるに違いないと思っているのか、今自分自身がビビに与えている震えの色を正確に推し量るのは難しい。手触りのよいブランケット越しにぽん、ぽん、と背をあやしてやっても、まあるく丸めたタオル生地を大事に抱く灰は変わらぬ怯懦を示す。なにも別に、怖い所へ連れていくわけではないのに。

ウタとビビが過ごすこの家の、最も奥まった扉を開けると10畳程度の一室がある。ウタにしろ仲間たちにしろ出入りした形跡が極端に少ないのは、下の四隅、上の四隅、隅々まで見渡そうが“螺旋階段”ひとつしか存在していないからだ。

室内中央より天に向けて抜ける螺旋。この部屋には照明すらなく、ウタが一歩一歩と螺旋へ近付くに従いビビの背が宵闇に呑み込まれてゆく。一層と震えが強まったのはやはり、宵に紛れる異質をビビでも感じ取れたからだろう。螺旋のみを湛える一室は酷く閉塞的である。ポッテンジャーの猫の、まあるい瞳孔が眺める夜色のように。

ウタが足を向ける先は屋上だ。いつかの夜、澄み切った星空の下、ビビと共にお星様を見上げたあの屋上。ドラム缶が転がっていたり、たばこの吸い殻が落ちていたり、確かに風景画としては猥雑で恐ろしい色を湛えているかもしれないけれど、それらにビビを放り投げる訳ではないのだし、どうかどうか怖がらないでほしい。ただ少し、夜気に肺を落ち着かせながらお話がしたいだけ。ただ少し、眠れない夜に頬を寄せ合っていたいだけ。ただそれだけ。

螺旋階段へ足を掛ける前、「だいじょうぶ」そう言って小さく笑んで見せるウタの優しさはビビが大事に抱えるタオルケットと同じ暖色を滲ませていた。「どうしてそう怖がるの?ぼくがいるから?」矢車菊が蒼い為に、雨音は依然として水たまりを叩いている。そうしてまた、ビビは答える事無く静かに灰を瞬かせている。人付き合いの何たるかを一切として知らない反応だ。「なにか言ってよ」突き合わせた鼻先にキスを弾ませようと、「ねえ、」もう一度ちゅ、と戯れてみようと、「、」ビビのお口は頑固に閉じられたまま刺繍を拒む。

あまりにも徹底した無視に、何だか笑えた。だってそうだろう。目もお鼻も突き合わせたままなのに、声だけは延々と無視されるのだ。言葉が分からない故の意地悪だとは分かっているが、それでも今日一日朝から宵までの間で“うたぎ”と“おとと”しか聞いていないのは笑うしかない。思えば今日は名前すら呼んでもらえていなかった。自分は何度も、何度も何度も灰被った名前を呼んだのに。

まるで盲目の想い人に宛てて恋文でも認めた気分である。いつになったら読んでくれるの?と、自らの足で訪ねてしまいたくなる様なもどかしさ。

「ムカつく」

そうして融ける悪態は、浅く笑う真綿の音吐に包まれていた。なんだか空虚で人型を模していながら空っぽなビビだが、年月を渡れば人並みにお喋り出来る日がくるのだろうかと、ウタは時折、疑問に思う。胎を開けば矢車菊が溢れる様な、足を切り落としても矢車菊が溢れる様な、きっちり肉と内臓が詰まっているのか確信できない程ビビの輪郭は曖昧だからだ。想像の中、噛み潰した眼球からやはり矢車菊が溢れる。べ、と舌を出せばきっと、赤い先端には矢車菊の花弁が貼りついている事だろう。ほんの数ヶ月前の玩具箱ではビビの胎を味見したにも拘らず、そんな空想を縫ってしまう。

再度ぽんぽん、と背をあやし、ウタは螺旋の鍵盤を登る。一面に澄み渡る星空の元へはいつぞやも連れだした事があるのに、ビビの震えは相変わらずだった。まあるいお尻を片腕で支えたまま重苦しい鉄の扉を押し開く。やはり雨は降っていない。濡れた頬が擦り付けられると夜気を含む風が酷く沁みた。臍の緒で首を吊った胎児の様に、金切り声で軋む扉がビビを怖がらせたらしい。片腕では大事にウタのタオルケットを抱え、もう片手でしかとしがみついて来るビビは頬をくっ付ける事で怖い怖い現実から安心を拾う。

こうまで震えていようと、お鼻を啜るわけでも、しゃくり上げるわけでも、ちいさな泣き声ひとつあげるわけでもない臆病者のビビに、ウタは「みて、」と魔法の刺繍を縫って見せた。

“みて”。この一言は紛れもなく魔法の言葉だ。今まで何度となくビビの意識へ縫い進め、ふたりの間でまあるく実った糸造りの林檎。一見しては柘榴の様に赤く、時計を瞬かせてみれば足の間で咲く花を真似て割れ開きそうなものだが、しかしながらこのまあるい果実はアダムとイヴに葉っぱの一枚を齎した林檎に違いなく、今更足を開くには糸の撓みが足りない。

「…?」

魔法の刺繍に呼ばれたビビが肩に手手を突き、ジ、とウタを窺う。誰何された犬の様な眼差しで。

「、」

しかし、鼻先を仲良くさせて見つめ合う時計を数秒跨いでも、ウタは“ドコにあるナニ”へ目を向けたら良いのか、瞬きで問うビビに教えはしなかった。下睫毛の縁から尾を引いて下る、寂しがりの涙を柘榴で追ってはもう一度矢車菊の色を見上げる。男性にしては艶麗な唇が水彩画の淡さでうっそり微笑むにとどまるのは、甘ったれの自主性を少しでも促そうという魂胆だろう。

伏すウタの睫毛をジ、と見下ろす目目は、稍してゆうたりぼんやりと周囲の風景画へと移ろった。春先の夜、睫毛にじゃれ付く風が幾らか冷たい。褪せた宵ではビルの切り絵達もただの色として其処にあり、跳ねるでも蠢くでも滲むでもない為に、興味を示しもしないビビの目目は徐々にお空へと向く。ウタはそっと、その項を支えた。間抜けなビビのこと、そのままコロリと引っくり返ってしまいそうに思ったから。

馬鹿みたいにぷるぷる震えていた身体がやっとの事で凪ぐ。穏やかに緩やかに、白浜の波が去ってゆくように。そうした秒針をちくたくちくたく渡った頃、ビビはお空を見上げたまま林檎の唇を開いた。ウタはその絵画を静かに瞬いて見つめる。

「おうしさま?」

ビビはあの夜、ふたりで退屈そうに見上げた夜空の事を、幾夜瞬いた今もしっかりと覚えていたようだ。大事に抱えていたはずのタオルケットを地面に落っことしながら、月しか貼りつけられていない寂しいお空をピ、と指し示す指先が、あの星空の下を真似する様にお月さまへ向いている。「思い出した?」こしょこしょ話で問うウタに適当に頷いて見せた白痴は示していた手を胸元に引き戻し、もう一度ほっぺたを寄せてみせた。

「ね、怖いコトなんてなかったでしょ」

それでも水たまりを湛える頬は冷たいままだけれど、まるで寒がりの猫の様に胸元で畳まれた手が愛らしかったから、震えていなかったから、今の所はこれで良いのかもしれない、と思う。肩から溶け落ちたチョコレート色を引き上げ、「ねえ、」と灰を呼ぶ。

「どうして無視するの」

ほっぺたをくっ付けたままウンともスンとも言わない灰被りがあまりに潔くて、ウタは甘ったれる猫の様に頬を擦り寄せた。ただ、はふっとした緩いあくびだけが金糸の毛先を撫でる。宵のそらは蒼い、雨音で描いた水彩画のように。

そら

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