慣れをリセットする事は出来ないのだろうか。荒い網目が可愛らしいバスケットを抱え、てくてくと歩くウタは考える。

しかし、子供の成長を受け止められず『あの頃は可愛かった、生意気など言わず天使のように愛らしかった』『時間を戻せるのなら戻したい、あの頃は愛おしかった』と嘆く母親の絵を思い浮かべて、願望の胎児となりつつある思惟の緒を切った。

変化を拒むのは間違いなくエゴだ。頭の片隅では分かっていても、ふとした時に束縛の鎖が浮かんでしまうのは感情で編まれた心臓を持つ人型故の苦労である。去る者は追わず、来る者は拒まず、そうして淡白であり続けたウタの心臓も、軋む縫い目から覗いてみれば結局は感情の毛糸で脈を打っていたらしい。

人間との擦れ違いざま、「カボチャだー」とバスケットの中へタッチしてくる手と声はまさしく幼児の輪郭であったのに、あまりに高い位置から降ってきたものだから不思議に思って振り返ると、父親に肩車をされた女の子の背中が見えた。春もそこそこ、薄手の服がそよ風に膨らみ、灰一色のコンクリートにレースの影を落とす。あの子も元は胎児なのだ、そう思う毛糸は未だ灰への愛惜を捨てきれていない。





今日のビビは珍しく、ウタの帰宅を察してトコトコトコ、と近寄ってきた。近頃では寂しがる時計が減り、ウタが帰ってきても狭い隙間に挟まったまま出迎えをサボったり、あちこちで匂い付けに勤しんでいたりと無関心が目立つが、上着を脱ぐより早く「おたえり。」と声にする今のビビはどうやら、この家の主をきちんとお出迎えする気分に風が向いたようだ。

こんな些細な気紛れにさえ胸の蝋燭は灯る。黒と白を混ぜると灰になるのは世の常識で、色には慣れがない為いつ混ぜても何回混ぜても黒白は灰なのに、繰り返せば繰り返すだけ慣れていくビビの灰色は何故そのままで居てくれないのだろう。───と、考えて、またエゴの木を育てていた自分に鼻で笑う。

室内での日向ぼっこでも糜爛を湛えてしまう頬は塗りたくった日焼け止めで白く浮いているが、平生は血管が透けて青白いビビの白皙にはその方が幾らか健康的に見えた。ふっくらと膨らんだお腹は何も妊娠しているわけではなく、カンガルーポケットに例のウサギを納めているから。

重そうなお腹を抱えてジ、と見上げてくるビビにいつも通りの「ただいま」を返しつつ、ローテーブルに野菜の入ったバスケットを置く。昼過ぎに飲ませたきり中身の減っていないペットボトルがぽつんと立っているという事は、ビビはあれ以来何も口にしていないのだろう。上着を抛り、ソファに身を預ける反動で小さな手を引くと、お腹にもう一匹分の重さを抱えているビビの足が一歩二歩、頼りなくよろけた。

「いいコにしてた?」

「うん。」

片手はお腹へ、もう片手はウタと握り合っているビビの適当なお返事。大事そうにお腹を抱えるビビは朝からこの調子だった為、お昼寝でもしてウサギを潰してしまうのではないかと外出先で心配になったが、もぞもぞ動くお腹のポケットを見る限りでは問題なかったらしい。

カンガルーポケットから顔を出すウサギに伸ばし掛けた手を、ビビの僅かな震えを感じ取って引き止める。見上げてみれば案の定不安そうな目で瞬きをしていたから、浅く笑って小さな手を両手で包んだ。

ビビがこうした目をするのは今に始まった事ではない。いつかの日に胎を傷付け、作り立ての苺ジャムに悪戯する子供の様なウタの指先を、寄り添い合って過ごす現在に至ってもまだ恐れているのだ。だから、ウタに傷付ける意思はなくてもお腹に手が近付いただけで枯れた花の怯えを見せる。「おいで」人間の女の子に触れるよりもずっと優しく手を引いて促せば、緊張に委縮した体は申し訳なさそうに隣へ腰掛けた。

不自然な瞬きと共に窺ってくる目は虐待の庭で育った子供の目と等しく、親の───延いては痛い事をする人物の顔色を盗み見て、抵抗は出来ないながらも耐える覚悟だけは抱こうとしている目である。まん丸の瞳が蒼いのは涙の海が出来てしまったからではないのに、灰塗れの睫毛が瞬く度に白皙の頬へ視線をやってしまう。もしも目尻から滑る雫があったとして、その痛みを拭ってあげたいと頬へ手を伸ばしたとしたら、どんなに優しく触れようとビビは怯えて見せたのだろうか。

花瓶ひとつ分の隙間がふたりの距離に氷を添えたから、ウタはいっそ一番端、肘掛けの方まで身を寄せて、自身の足もソファの上へ預けた。「おいで、」もう一度同じ言葉を繰り返し、腿の間をぽんぽん、と叩く。「、」暫しの迷いを見せたビビがそれでもゆったり擦り寄ってくれたのは、無理に距離を詰められる立場にいないウタにとって、ひとつの安堵に繋がる糸繰人形の糸であった。

「もっとくっ付いてよ。痛いことは何もしないから」

「なに?」

「そばに来て」

「?」

ジ、とウタの唇を観察して言葉の意味を考えるビビだが、やはり理解は追い付かず、足の間にすっぽりと収まったまま眉を困らせるのみ。ウサギの重さを支える掌には柔らかな体温が滲むらしく、フイと逸らした目で掌を興味深く見つめ、自身の頬に当てて温もりを確認し、またウサギを孕む腹へ手を添える。そうして、もう一度ウタの目を窺う。こういうとこ面白いなあと眺めていたウタに今更「なにいう?」と申し訳なさそうな窺いをたて、言葉以外での会話を求めるビビは、怖いながらもウタと仲良くしたい淡色の気持ちを持っているのだろう。

ぽんぽん、自身の胸を叩いて示すウタの様子に、逡巡ののち僅かな距離を更に縮めるビビ。そっと胸元に寄り添う灰色頭を見ていたら、ウタは気付かない内にその灰をもさもさと撫でていた。あ、と思った時には遅かったが、ビビに怯えの色は見えず、むしろ心地良さげにジ、としていた為、枯死した花が素肌を撫でる様な───いっそくしゃくしゃに抱き締めたくなる擽ったさを感じた。青臭くとも確かな灯火である時間の渡り。

胸板にお鼻を寄せ匂いを確認しているビビのお腹でウサギがモゾつき、ポケットに足を引っ掛けながらぴょんと飛び出す。ウサギの嗅覚がどの程度のものかは分からないが、野菜の匂いでも感じ取ったのだろうか。頻りにひくひくするお鼻は空腹を訴えているようにも見えるし、いつかのビビが誰かを探していた姿にも似ている。ひよこはいいからウサギはもう一日貸して、と我儘を言い、二匹を引き離してしまったわけだから、相棒を求めてお鼻をひくひくさせていてもなんら可笑しくはない。

「うたぎ…。」

「行っちゃったね。お腹すいてるのかも」

「…。」

不安げにウサギを振り返るものの、結局は胸板に頬をくっ付け直したビビの頭を抱いたまま身を乗り出すウタが、どうみてもウサギ一匹では食べきれない量の野菜を囲うバスケットに手を伸ばし、ブロッコリーを引っ張り出す。「こわい。」「そう?木みたいでカワイイと思うな。これが食べられるなんて面白いし」鼻先に寄せられた小さな木───のような野菜に怖がり、肩を縮こまらせるビビは類を見ない程の臆病だ。

しかし、一層胸に潜り込んで助けを求める行動からして、怖いはずであるウタに信頼の色を抱いている事には間違いない。時には夢に見て、あの痛みを思い出しては怖くて震えあがる生活を繰り返す中、それでも頼るべき相手として心臓の庭に在るのだ。

引っ付き虫を抱く様に回した手でブロッコリーを毟ると、あまり耳にする機会のない不思議な音にビビは再度振り返った。お勉強にも等しい時間はそれ即ち未知を体験していくわけだから、灰を塗り固めた睫毛の奥は幾らかの怯懦を孕み、ブロッコリーの動きを見逃さないよう蒼で以て瞳孔を絞っている。ただの野菜で間違いないブロッコリーはそこまで警戒する相手ではないのだが、人肉以外は何でも無警戒で口にしがちなビビからしたら大変よく出来ている方だろう。

食べやすいように小さくされた緑の木、ウタが差し出すそれをウサギはもさもさと食べる。硬さと瑞々しさを伝える咀嚼音は喰種の耳でも美味しそうに聞こえるのに、人体でいうとどの部位に近しいのかはこれといって思い付かない。

「人間もさ、こういうのを食べて生きてるんだって」

「?」

「不思議だよね。喰種には食べられないモノを食べてるのに、ぼく達はそんな人間を喰べて生きてる」

猥雑で、力の前では学など何の役にも立たないような4区だ。小難しい話をしても返ってくる言の葉は解れ、煤け、とても実を求めてやり取りできるものではなかったから、こうした話を口にするのは初めてである。しかし、声の刺繍を縫わずとも心中では深く物を考える性情のウタは、予てから人と喰種の間で玉を成す不思議な矛盾の糸を眺めていた。

きっと、同じような疑問を持つ喰種、或いは人間というのはそれなりに多いのだろう。別に答えを欲しているわけではない。ただ、暇な時に白昼夢を描く感覚で薄ぼんやり考えてみると、不思議で不思議で仕方がなくなるというだけ。

ビビの中に人の血が入っていると意識するようになってから、舌のない無口な本を棄却する日は遠退いた風に思う。混ざり合った材料により形を成すビビが人の食事を取れない事も、日々痩せ細っていく灰色を眺め続けるウタからすれば不思議で、不条理で、哀しいものだった。

片腕を千切られほんの少しだけ小さくなったブロッコリーの親玉を、ビビは暖かなカンガルーポケットへ大事に隠す。そうして身体ごとウサギに向き直り──ウタの胸に背を預け──片腕を美味しそうに食む様子をジ、と眺める。この体勢は何となくお腹に腕を回したくなってしまうから、ウタは何気なしに唇のピアスを鈍く噛み、相も変わらず荒い網目が可愛らしいバスケットへ手を伸ばした。

「はい、抱っこ」

「?」

ビビのお膝にぽん、と置いたのは、まあるくて少しだけ重いかぼちゃ。ウサギは食べないだろうと思いつつ、ビビが好きそうな形だった為買ってきたものだ。蔕の部分が萎靡して細い影を抱き、まるで鬱蒼と茂る森の奥にひとり佇む切り株の様な絵を湛えている。しかし、頭に残るそれは死んだ白を隠せずにいるのに、まあるい体は元気な緑色をしていて、ひとつの中に白と緑の矛盾を抱えている。

「なに?」

「かぼちゃ」

「かもちゃ。」

まだ爪の小さな指先でかぼちゃの輪郭をなぞるビビは、神様がふざけて作った妙な丸みがお気に召したらしい。お腹のポケットへ入れようとするも上手に持ち上がらず、ジ、と見下ろして逡巡したのち、大事そうに抱き寄せた。

腿とかぼちゃの摩擦で引きあがってしまうワンピースの裾。ポケットがお腹にある以上手助けをしてあげられないウタは、せめてもと言うようにくしゃくしゃになった裾を正し、子供らしい膝小僧を隠してやる。ビビが肩越しに振り返るから小首を傾げて見せるも、特に用があった訳ではないらしく早々にフイ、と顔を背けられた為、肩透かしをくらった気分でなにそれ、と笑った。鼻先の触れる距離だ、なんならキスのひとつでもイイかなと思ったのに。

「かもちゃ。」

「うん、かぼちゃ」

「…。…かもちゃ。」

「好き?」

「うん。」

「ちゃんと言って。好き?」

「すき。」

「はい。いいコ」

本当にいい子?と訊かれたら、正直分からない。かぼちゃをきちんと可愛がっているし、躾通り復唱も出来ているし、悪さをする事なく足の間にすっぽりと納まっているけれど、なんの色も含んでいない“すき”はウタの灰被った心臓に払拭し難い靄を添える。無色とも言えないほど色は無くて、予め舌の上に用意していた“何か”をぺっと吐き出したかのような“すき”だ。

色即是空、空即是色。
色即ち是空なり、空即ち是色なり。

どうだろう。たったひとつの言葉にさえ執着する自分はどうだろう。ビビの顎を掴み、半ば振り仰がせる様にこちらを向かせたウタは、蒼の中に実る石榴を眺めながらひとつ瞬きを落とす。「?」ビビの“すき”を聞くたび、心の底ではこれが自分に向けられるものだったらいいのになと思っていた。花畑でそうしたように、空ろに石榴を重ね、胸に灯る偽りの蝋燭を楽しんだりもした。

餌を催促するウサギが黒豆のような目で見つめ、妙な事はするなよと釘を刺してくる。些かの苦しさからウタの手を掴もうとした白皙が、しかし触れる事無くかぼちゃの元に戻ったのは、かつての痛みを伴なった躾を蒼の色彩が思い出したからか。

もう一度ゆったりと瞬くビビの瞳に、先の様な怯えはない。

慣れてしまったのか記憶が薄れつつあるのか、まんまるの目目でジ、と見つめてくる蒼に怯えはない。怖がってくれても良かったのに、と思う反面、慣れてくれて良かったと凪ぐ心臓があって、先までは“慣れをリセットしたい”と考えていた自分をもう一度鼻で笑う。結局、可愛いビビを望んでいるだけだ。従順な時期を永遠として残したがる母親と何一つ変わらず、心臓の庭では今もエゴの木が育っている。

不思議そうに瞬く目の、灰が持ち上がる一瞬を愛おしく思うのは、硝子を嵌め込んだような形を愛でている訳ではなくて、蒼で希釈された石榴色を覗き込めるこの距離、この時計が、ウタにとってはどうしても愛おしく感じるから。心臓の燭台に灯る橙をふう、と吹き消す。余計な色を認識してしまわないように、手放し難くなってしまわないように。

「…へんなの。」

「?」

そうして紡いだ声は、ずっと凝視されていたビビからすれば随分な言葉だった。

しかし、今の“へんなの”に大した意味はないのだ。一瞬の間に口を衝いて出た言葉がこれであり、ビビのまぬけな表情や前髪の隙間から覗く麻呂眉を馬鹿にしたわけではない。決して。

ビビは日本語が分からないのだし、かえってややこしくなる為ウタも弁解せずにいるのだから、意図せず落ちた一言は時間の経過に自然と流されていく。きちんと理解出来ない事を踏まえて結果を見れば、詮ずるところは言っても言わなくても言葉として伝わらない訳だが、ただ一ついえるのは、そんな言葉も“ぼくのコト好き?”なんて口にするよりは余程マシで、時間の無駄にもならないという事。

ぱ、と手を放し自由にしてやると、けふけふ小さな咳を演じるビビがひとつ息をついた。「ごめんね。意地悪しちゃった」正しい言葉を手渡せないのは平常を保つ秒針の足音でもあり、凪いでは急く鼓動の啜り泣きでもある。この子は人だ、喰種だ、そう鋳型を固めてしまうと窮屈に眉を顰める破目になる為、犬や猫と接する気持ちでいる事もある程度は必要なのに、自分もけふけふやっていながら“だいじょうぶ?”と目で窺ってくる姿は、やはり灰被りの“女の子”としか石榴に映らない。

慰めるように鼻先を擦ってくるビビが雨曝しの蝋燭を灯し、ウタは両目を塞いで静かに吹き消す。ジ、と目を見つめては鼻先を擦り寄せ、またジ、と見つめては鼻先をくっ付けられて胸が擽ったいから、もうやめて、もうやめよう、とまあるい頭を抱き込んだ。蒼が悲しい色だなんて誰が決めたのだろう。何が楽しいのかケタケタ笑っているビビは、誰もが悲しい色だと憐れむ蒼を湛えていながらお日様みたいに温かい。

ふたりの間に潜り込んできたウサギと共に改めて抱き直すと、毛玉をふたつ抱えている今の状況に妙な気分になる。ビビが身体を捻った所為で転げたかぼちゃは鈍い音を立て床へ落ちたが、相変わらずひとり楽しそうな灰は一瞥の蒼すら向けなかった。

ビビのポケットに頭を突っ込み勝手にブロッコリーを食べているウサギは放っておくとして、ウタはバスケットの隣で立つ無口なペットボトルへ手を伸ばす。「落ちるよ、」身を乗り出しながらの忠告はきっと伝わっていないだろうし、言いつつ抱き支えてしまう為言うだけ無駄だ。何か言われた事に気付いたビビがお顔を上げてジ、と窺い、話を聞いてもらいやすくなっただけ。

月を跨ぐ程の間、食事をせずにいるビビであるが、ウタが促さないと僅かな水分もとってくれない。全てを管理されていたから自ずと行動を起こす事が少なく、今日も『ちゃんと飲んでね』と置いて行ったペットボトルは内容量が変わらないまま突っ立っていた。

視線を受けながら開けたキャップを掌に隠し、ビビへボトルを渡す。
───と、

「イヤなの?」

ウタの裾に潜り込ませ、ないないと隠されてしまうお手手。

「、」

お口へ寄せても生意気に顔を背け、唇はム、と引き結ばれていて、態度全体が拒否を表している。単純に飲む気分ではないのだろう。最近ではこうした態度も珍しくはない。

しかし、それでも飲ませなくてはいけないウタはあっさり手を引いて、丸で囲う飲み口を自身の唇へと導いた。

「じゃあぼくがもらうね」

そうして美味しそうに飲まれてしまうとビビは穏やかではない。

「、」

徐々に減っていってしまう透明色を眺めながら不安そうに瞬く目目。
男性らしく硬い腹筋へくっ付けたままの手が爪を立てると、猫の戯れにも似たそれは小さな爪が擽ったくて、ウタは一度唇を離してふふ、と笑う。いらないと突っぱねたのはビビであるが、子供が人のおもちゃを欲しがる様にウタの飲むお水は輝いて見え、ついにはすんすん、とお鼻を啜って切なく訴えた。

これがビビの攻略法であり、ウタからすれば計算通り。そ、とボトルを差し出せば申し訳なさそうに受け取り、両手で大事に透明を包む。「お水、寒いにする?」甲で唇を拭いながら、要は“氷入れますか”と訊ねたウタに、ビビはしっかり意味を理解して「へいき。」と答え、自身の背中をウタの胸板へと預けた。

わざわざ背を向けるという事は横取りされたくない精神が芽生えたのだろうか。ビビは鈍くさくて警戒心の薄い喰種だ。もしそうなのだとしたら嬉しい半面、どこで身に着けたのか謎が残る。ウタはまだ教えていないし、喰うか喰われるかの世界なんて引き籠りビビには御伽の話であるし、ビビがボトルを仰ぐ間に数秒考えても思い当たる節はない。

「飲めてる?」

一応ボトルのお尻を支えてあげているウタが後ろから覗き込み、ジ、と静止するビビに問いを投げた。抵抗の薄い手手と共に飲み口を離させると、どうも唇はム、と閉じられている。撫で摩る事で開けさせた唇へ挿し込む指は温かでぷにっとした舌に出会い、案の定、ビビはお水を飲めてはいなかった。

「飲めてないよビビちゃん。きちんと唇は開かないと」

「、」

こうして甲斐甲斐しく世話を焼くウタを、一番近しい位置で眺めるイトリは“子育て”だという。今もお兄さんぶってボトルを取り上げ、自分の手で飲ませようとするウタの手付きはそれっぽくて、イトリの言葉を否定できる要素は一つとしてない。もっと言うのなら、部屋の隅には“楽しい子育て〜言う事をきかない三歳児編〜”という本が転がっている為、否定は出来ないのだ。

後ろから覗き込みながらボトルを支え、今度こそ飲めているらしいビビの喉元を掌で確認する。とてもゆったりな感覚で上下するさまが水の通り道を教えてくれるし、それだけで事は上手く運んでいると分かるのだが、稍もすると唇の端からぼたぼたと水が溢れ返り、ビビは水を飲む事すら下手くそだという事実を伝えた。上から降って来た雫をもろに受けたウサギは柔らかな毛を束にしている。こんな場所で雨に降られるとは思いもしなかっただろう。

袖口で適当に拭う唇は赤々しい。何度かこく、こく、と喉を落とす仕草を繰り返すのは、やはり固形の肉を受け入れなくなって暫くの胃には水すら厄介者なのかもしれない。キャップを閉めローテーブルへ預けたウタは後ろから頬を擦って励ます。無意識にお腹へ伸びた手を叱責してウサギへ向け、色の濃くなった毛を捩じって立たせた。なんとなく気は紛れるが、やはり本音はお腹が触りたい。

「へいき?」

「へいき。」

お腹触ったらがぶってする?───なんて訊けない。どうせ意味も理解せず頷くし、言葉を信じて触ろうものなら呼吸もままならなくなるまで泣かれるのだ。お出迎えは疎かになったのに、何故こうした事には慣れてくれないのだろう。またエゴの木が生い茂り、果てには蒼い林檎が実り始める。

もしもお腹を触れる日が来るとして、その時になってまで気に入らない面があったとしたら、やはり自分は一瞬でも慣れをリセットしたいと思うのだろうか。リセットは一括であり、選択は出来ない。せっかく積み上げた信頼も柔らかなお腹も全てを失うことになる。

こうした考えは自ら悲しみに舌を差し出すような渡りだが、お出迎えしてくれなくなったビビは嫌い、今もお腹を触らせてくれないビビは嫌い、と心の奥底で“慣れ”の右左を拒んでしまうのは、帰するところ、愛されてみたいだけだった。

だから、もし。
本当に、もし愛されるまで至った自分が何処かの世界にいるのなら、訊いてみたい。今もビビを白紙に戻したくなる時はあるのかと。

「ごちそうさまは?」

「ごちさま。」


そんな世界、ありそうもないけれど。


手繰る糸よ彼女を此方へ


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