「…。………うたぎ!」

「わあびっくりした」

ビビと過ごし始めて数度の月を超えた朝、今まで聞いたことがないほどの大声を聞いた。普段は驚かしても目目を大きくするだけに止まり、抑制されてきた悲鳴の糸でお口を縫い合わせてしまう臆病を思えば、なんだかとても、とても珍しい一瞬だった。

ふたりの眼前に鎮座している籠の中にはボルドーのブランケットが押し込められ、些かの怯えが滲むウサギとひよこを守るように包んでいる。時計の指差しは朝の8時。どうしてこんなに早起きをしてまで小動物を眺めているのかについては、秒針の遡りと共に僅かな説明を添えた方がよいかもしれない。


切羽詰まった様子で訪れた4区の仲間が「すいませんウタさん!今日だけ!今日だけウチの子を預かってほしいんすよ!」そう言って蠢くコンビニ袋を差し出したのは数十分前のこと。最悪、自らの首が飛んでも構わない覚悟で訪ねてきた彼は、もはや顔見知りと呼んでもいい白鳩との間で面倒な事態にある現状を早口に、そして申し訳なさそうな色で語った。

白鳩の群れにはたくさんの顔があり、睨み合った相手をひとつ殺せばもうひとつが振り向く。似たり寄ったりで面白みのない顔は判別に難しいのが事実だが、しかし、面白い事に喰種と白鳩の間でも堅牢な縁というのは芽生えるもので、「またお前か」「いや知らんし」お互いの面を、望まずして得た因縁の糸で結う者達は案外少なくない。見えぬ未来の話をするのなら、平子 丈とウタの関係もそれに近しいといえるだろうか。半分寝たまま話を聞くウタの腰元、隠された眼差しでジ、と様子を窺っているビビにまで「どうかこのとーり!」と頭を下げる彼は、知らぬ間に結びついていた面倒な縁を終わりにしたい、そう願っているらしかった。


「かわいいね」

「ね。」

寝癖でもっさりしたままの頭。お顔を洗った際の雫が曖昧に引っかかっている首筋。白黒チェス盤の床にしどけなく座り込んだビビが、ウタのお膝でまあるくなっているウサギをジ、と見つめる。本当は触りたくて触りたくて仕方がないのだろうが、怖気づいて握り合った手手は胸元へ引っ込んでおり、カラスの女性器にそうした様な針先の戯れは浮かんでいない。身の危険を一先ずとして大事なペットを寄越した彼はきっと、この4区で最も安全な場所がウタの懐であると知っていたのだろう。お預かりをした毛玉たちは粗雑なコンビニ袋から救出され、温かいバスケットの中で安全を保障されているのだから、まさに狙い通り。願い通り。

ビビにとって、ウタやイトリなど人型以外の生き物はどうしたって馴染みのない存在である。繁殖小屋でそれらとの触れ合いは与えられず、花の指が捲ってくれる絵本の中に曖昧な輪郭を認めたのみ。一般的な知識を持ち合わせていたのなら、例えば黒く塗りつぶされた“絵”が猫と呼ばれる生命体で、にゃあと鳴き、いっそ羨ましいほどの繁殖力で路地裏を埋め尽くす毛玉だと分かったのだろうが、余計な知識も外界への憧憬も必要なかったビビの頭には、幾度か目にした輪郭が実際に歩く生き物だと理解することが出来ないままだった。

おっかなびっくりお鼻を寄せてはすぐさま身を引いてしまうビビに、ウタは急かす色もなく気長な触れ合いを渡らせる。「なにの…どうして?」「撫でられると気持ちいいみたい。噛まないからへーきだよ。ほら」両手で持ったウサギをビビの頬に擦り付け、お鼻にこっつんこさせ、そうしてもう一度すりすりさせる戯れは、ビビの緊張のみならずウタの心まで和ませてしまうのだから不思議だ。そっと時間を落とし続ける砂時計の囁きを、日向の机に顔を伏せて聴く微睡の安らぎにも似ている。ただ毛玉と毛玉を擦り合わせているだけなのに、それなのに。

ウサさんパーカーを買ってあげれば嬉しそうな声色で『うたさんパーカ?』と唇をもにゃつかせ、なんでもない拍子に『うたぎ。』と呟いたりもしていたビビはきっと、ウサギのことを多少なりとも気に入っている筈だと思う。しかし、ひょっとしたら、なんて期待をしていた笑顔はなく、荒れたままの頬を大人しく可愛がられる何とも言えないお顔だけが映った。ジ、と大きな目目で観察をしているところからして、ウサギに会えた嬉しさよりも未知へ向く興味の方が勝っているのかもしれない。くしゅん、聞こえたくしゃみに喉で浅く笑い、ビビのお膝へウサギを置く。興味津々で瞳孔を絞っていてもなかなか手を出せないビビの髪に指を通しつつ、もう片手で委縮を見せるちいさな手を取った。

「あたかい。」

「うん。だって生きてるから。…ビビちゃんとぼくも一緒だよ。くっ付いてるとあったかいでしょ?」

「うん。」

ビビの手をウサギの背と自らの掌で挟むと、まだ子供のそれは爪までもが小さくて、小瓶に閉じ込められた貝殻みたいで───この先ずっと砂時計はひっくり返らず、ビビは大人になれないまま棺へ納められるに違いないと、自分が取り残されてしまうことを前提とした囁きを聞く。継ぎ接いだ心臓の縫い目、本当がたくさん隠された玩具箱の奥から。

「ビビちゃん毛だらけ」「?」雪花石膏の頬に引っかかっている毛をふうっと吹き飛ばす一瞬、柔らかく瞑る片睫毛が花畑の灰と重なり、ひとつの瞬きと共に見上げてくる蒼を一層弱弱しい灯火に見せた。ひとつ、もうひとつ瞬く秒針にはウサギに落とされてしまう目目がどうしても名残惜しくて、頭に添えていた手を滑らせ顎を掬い上げる。キスがしたいだとかウサギに嫉妬をしているだとか、別にそういうわけではない。もう少しだけと思った瞬きには手を出していた。だから、もう少しだけこうして居たい、のに、

「うたぎ。」

「…ん。うさぎさん」

「…、うたぎ。」

ビビはウタの両手を捕まえ、お膝でまあるくなっているウサギへ導く。まるで酸にでも触れたようだ、冷えにじんと響く指先は。もう少しだけと縋ったささやかな祈りさえ叶わないのだから、永遠なんて願うだけ無駄な話。描くだけ無駄な話。それをウタ自身が望んでいるのかは別として、思い通りにならない秒針は確かに掌を冷やす。手首を這い、やがて心臓へ。“さっきみたいにすりすりしてほしい”、そう伝える肩を竦めての頬擦りは寂しくて温かくて、どうしてだか、ごめんねと愛らしいの二言が浮かんだ。

「ねえビビちゃん。ウーパールーパーって、言える?」

「うーた…?」

「ウーパールーパー」

「うーたーるーたー。」

分厚いカーテンを開ければ温もりなんていくらでも得られるのに、この輪の中でしか感じられないと思い込んでいる慕情は井の中の蛙だ。遠ざけられた手でウサギを抱き上げビビの頬へ寄せる温かさ、そこにある僅かな悲しみが麻薬の枷になってカーテンを引けない。そっと時間を落とし続ける砂時計の囁きを、日向の机に顔を伏せて聴く微睡の安らぎにも似ている。閉じた瞼の裏で灰被った過去をなぞる微睡の安らぎに。

「全部ぼくになっちゃうんだ。でも、かわいいねそれ。もう一回聞かせて」「? うーたるった?」出逢う前のビビであったなら、ウサギを何と呼んだだろう。ウーパールーパーを何と呼んだだろう。毛玉のウサギで頬を可愛がってやりながら、消えかけの蝋燭みたいな淡さで瞬く。ビビにとって言い慣れた言葉がこれだっただけで、深い何かなんて欠片としてないのだろうが、それでも心臓が擽ったくて、誰よりも何よりも温かかった。

ウサギにも大分慣れてきたと思え、けたけた、やっと笑ってくれたビビの声に首を傾げて笑む。耳をぎゅっと握ろうとした手は接し方を分からずにいるままだけれど、ウサギを遠ざけるウタを見て目を屡叩いたビビは、ぶたれずともやってはいけない事だと理解したらしい。恐る恐る様子を窺いながらも自らの手手で抱きたがるビビに、「そっとね」お鼻をひくひくさせているウサギを手渡す。上手に胸へ招いてから寄せる頬は愛らしく、耳から背を撫でる手が唯々優しい。

そうして自由になった手でビビの頭を撫でると、ピィと心細い小鳥の鳴き声を聞いた。バスケットの中でずっとずっと寂しく鳴き続けていたひよこだ。今初めて鳴いたわけではないのに突如として裂かれる意識は、知っていながら知らないでいたロッキングチェアの恋と同じ。なんとなく存在を認めてはいたけれど、今の今になるまで意識の底に落ちてくることはなかった。ビビの灰被った毛先を誘いながら呼び声の方に向くウタの手は、意識の糸を引いてくるバスケットの底へ落ちてゆく。ほんの小さな体を掬い上げたなら、僅かな興味すら示してくれないビビの眼前に差し出すのみ。

「これはキライ?ひよこさん」

「ひおこ?」

ウサギに頬をくっ付けたまま唇をもにゃ付かせたビビ。ボト、と落としてしまったウサギをお膝で受け止めつつ、大きな目目でウタとひよこを見比べる。

「ひよこ。ふわふわだよ。触ってみて」

「うん。」

───今日起こった出来事とは、誰かの計算で組み立てられたものではないし、ましてやビビやウタが自ら招いたものでもない。ひよことウサギだって仲間が勝手に連れてきた毛玉であり、そこには飼主が同じという共通点くらいしかないはずだ。どう考えたってウサギとひよこは別の生き物で、名称も一文字として掠っていない。

「ひよこもぼくになっちゃうの?」

「ウタ、ひおこ。」

にも拘らず、金髪頭にひよこを乗せ嬉しそうに頷くビビはあらゆる全てをウタに繋げて見せ、自身の世界が誰の元で構成されつつあるのかを隠すことなく教える。ウタの髪色によく似たひよこ。一層猫背になってくすくす笑うウタに持ちあげたウサギを擦り寄せるビビは、先の自分が楽しく幸せに感じたようにウタから笑ってもらえる事がうれしくて、灰色の睫毛で蒼を細めながらもう一度「うた、ひおこ。」と口にした。

「ウーパールーパー」「うーたーるーた。」「うさぎ」「うたぎ。」「ひよこ」「ウタ、ひおこ。」ごく自然にウタの懐へ潜り込み、しつこい程ウサギを押し付けるビビは依然として笑みを湛えたままだ。頼りない腰を支えたり、なんならすっぽり抱き締めたりもしたいけれど、ビビが楽しそうにしているからやらない。きっと水を差してしまうし、それが原因でビビの花笑みが凪いでしまったら嫌だから。

落ちかけたひよこを掌で受け止め、ビビの鼻先に差し出す。くんくん、数度の挨拶の後に唇を寄せる様子には恐怖なんて滲んでいなくて、そこら辺の子供と変わらない年相応の無邪気さを見た。本来ならこれが普通なのだろう。頬へ手を伸ばせば吃驚して肩を竦める、そんな何者にも怯えている現状が可笑しいというだけの話。ウタはこの臆病を癒してあげなくてはならない。ウタはこの臆病を癒してあげたいと思っている。誰のそばでも幸せになれるように。与えてしまった苦しみの花を少しでも枯らせるように。

しかし───果たしてそれは、本当にビビの為になるのだろうか。空腹の毛蚕をそっと桑の葉に移す様な、飛び立つ意思をも退化させる両手の甲斐甲斐しさは厄介な事に誰の目にも罪として映らない。長きに渡る甲斐甲斐しい手が結果として蚕を短命で儚い白にしたというのに、誰も。誰一人として。

ウタだって、頭ではきちんと分かっているのだ。ビビの為を思って世話をしてあげても、ビビの為にはならないという事くらい。なにも人の手を借りてすら生きられなくなった蚕の様に、ビビをそうしたいわけではない。温かな高揚とわずかな罪悪の羊水が心地よく、差し出す手をどうしても切り落とせずにいるだけ。

「こっち向いて、」

「?」

ウサギの毛で擽ったい鼻をビビに寄せ、ほんの一瞬、こつんと触れさせる。なんの意味もなかった。キスがしたいだとかウサギに嫉妬をしているだとか、それらは一切。それでも温かかった。だから笑い合った。幸せだった。

───ふう、
過ぎた秒針の戯れを真似、ウタに引っ付く毛を吹いて見せるビビ。柔らかく片目を瞑ってしまうのは何故だろう。ごめんね、そう思いながらも愛おしい、心臓の縫い目ではそう思っていて、自分で自分の身を守れないちいさな命みっつが、どうしてだか切なくてどうしてだか永遠の砂時計に思えて。本能が底の底に隠された宝箱は行く末全てを知っているらしかった。

蚕から翅を奪ったのは誰か。蚕から口を奪ったのは誰か。いつか問い掛けられる時が来る。空腹の毛蚕にそっと桑の葉を口移す様な、あなたなしに生きていけないと首を振る愛執の未来で。それが分かっていたのなら、だあれも悩む必要なんてない。のに。

ね。振る、カラカラ、何かある

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