人差し指の腹に当てた親指の爪。ピッとスライドをさせて皮膚を裂けば、治る一瞬の間で赤い血液が1玉だけ産まれた。ビビにとって馴染みのある色。見るだけでじんじんと熱を持つ感覚を思い出す。

「“痛い”。わかる?いたい」
「いたい?」
「そう、痛い」

日本語に不自由なビビが覚えなくてはならない言葉は多い。1つ簡潔に教えたなら、ウタは早々と教科書を捲る。

無遠慮な動作でお腹に近付く手を嫌がって、ビビは恐る恐る身を捻り背中を向けた。ここだけは触られたくない、言葉なきその意思表示。

「“いや”」
「や?」
「うん。嫌なら嫌って言っていいんだよ」
「やってって…?」
「いやって、言って、いいんだよ」
「……やって、て?」

丁寧に行動を伴って教える。今までビビが教えて貰えなかった言葉。

痛い。嫌。

ふたりで生きて行く上で、とても大切なもの。ビビが平和に暮らしていく上で決して欠かせない、大切な。

───ひとつずつ覚えていこうね。

その言葉にすら、理解の追い付かないビビは不思議そうに首を傾げた。

やってって?




足首を縫い合わせる糸を得る為、ビビの洋服はあちこち解かれてボロボロ。着れたものではないからとウタは自分の服を差し出したけれど、申し訳なさそうに縮こまって嫌がるビビは糸くずだらけの服を好んで着ている。

あの時イトリが買ってきてくれた服。今やほとんどが何処かしら糸を抜かれ、無傷なのは大事に大事に飾られている喪服の様なワンピースだけ。こうして着たがるところを見ると、自分で解いてしまったとはいえプレゼントとして貰った服だから大事に思っているのかもしれない。

仕方ないなあとウタが折れる形になり、結局は解れた服の上にウタのカーディガン、ゴワゴワのタオルケットでみのむし状態という形で落ち着いた。おでこにはもちろんピタ冷えろ。いつまで貼っていたらいいのかビビもウタもわからない為、とりあえず買ってきた3箱分は全部使い切ろうかとおでこの冷却を続行している。

温かい窓辺のロッキングチェア、柔らかく影を揺らすビビがおでこ冷却ゴワゴワみのむしのまま、

「ひとつ」

「いとつ。」

「ふたつ」

「うたつ。」

お喋りをする練習。掌でむにむにと包んだビビの両頬は柔らかく、暖色の灰色にほわっと温かい。むにーっと引き伸ばして、離して、またむにむにと包むと楽しそうに笑ってくれるから、ウタも嬉しくてついついじゃれ合いに流れてしまう。身を屈めて擦り合わせた鼻先、笑いあったままのお勉強は楽しい。

いざ教えようと構えると意味の説明がとても難しく、あまり多くを教えるよりは必要な事だけでいいかなと怠惰な妥協をした為、こうしてのんびりのんびりと歩みを進めている。言葉の勉強に対して嫌がる様子もみれないし、鈍間とはいえ順調である事には変わりない様だ。

むにょんと頬を引き伸ばされたビビの耳に、ガタンッと大きな音が聞こえる。

「、」

少しだけ関心が逸れてしまったよう。ガタガタと何かを運ぶ音や男性の怒鳴り声が聞こえる下の階にハテナを浮かべたビビが、ウタから軽く身を離して足元をじ、と見つめた。ずっと騒がしいままの下。時折こうして一際大きな音が聞こえ、不思議に首を傾げては先生のウタに咎められる。

今もまた、ビビの関心を引き戻そうとするウタがその両頬を包み直して上向かせ、愛らしく尖った唇をちゅっと啄ばんだ。

「キス。…わかるかなあ。それとも、ちゅうのがわかりやすい?」

「なに?」

「ちゅう」

そばにしゃがんで、ビビの指先にちゅう、と唇を遊ばせる。

───聞こえた?ちゅって音。

確認をさせる様に、もう一度。そのまま口に含んだ指先をもぐもぐと噛むウタを見て、ビビは一拍遅れで首を傾げた。

「…ちゅう?」

「うん、ちゅう。キスのことだよ。…やってみて?」

キスという行為にどのような意味があるのかは教えてあげない。女の子からしたらとても辛いことだろうが、ウタ自身が分からないままでいてほしいと願うから。だから、教えてあげない。どうせいつか知らない男が教えるよ、という捻くれた気持ちも少しある。秘密だけれど。

ウタの気持ちなど知りもせず、実践を促す言葉にこくん、と頷いたビビは、迷わずウタの手を取った。先程そうされたように、指先に口付けるつもりらしい。ちゅ、という音こそがキス、あるいはちゅうの事だと捉えてしまったようだ。

やはり正確に伝えるのは難しい。でも、この遠回りが何より楽しいと感じるのも事実。手放したら一生お話すら出来なかったわけで、それを考えれば今は本当に幸せな時間を過ごしていると思えるから。

言葉が通じない以上は細かい説明をしても無駄なため予想できた流れに指を絡めて制止すると、ウタは身を乗り出して自らの唇を指差した。とんとん、示す唇をビビの瞳がじっと見つめる。

「はい、どうぞ。ちゅってしてください」

そこにするの?そう問うように首を傾げるビビには、きちんと意味が通じているようにみえる。ぱちぱち、とゆっくり瞬く目に応えて笑んであげれば、恐る恐るビビの唇が重ねられた。

ふに。押し付けられるだけで、あの音は聞こえない。

「…?」

おかしいな、と僅かに困惑した様子のビビからもう一度唇を押し付けられる。でも、音は聞こえない。どうしようと緩く焦る様にもじもじと絡めあった指をもぞつかせて、3度目の正直とばかりに寄せられる唇。きっと、また音は聞こえない。

ふふ、小さく笑ったウタが唇を薄く開き、可哀想だからと重なる瞬間に合わせてちゅっと吸い上げてあげた。やっと聞こえたちゅうの音。

「!」

「わ、ビビちゃん上手。…ねえ、もう1回してみる?」

びっくりして目を大きくするビビに再度唇をとんとん、と示すと、疑いもせず、それでいてわくわくとした様子でやんわりくっ付けられる唇。同じ様にちゅうっと啄ばんであげると、騙しのキスなのにそれはそれは嬉しそうに笑ってくれるから。好きだなあと心を焦がしてその両頬を包み込んだ。

癖になるこの柔らかさ。むにむに。弄んで、また唇を寄せる。喜んでくっ付けてくれるビビはすっかりキスを理解して好きになった様だけれど、誰にでも唇を許してしまわない様に追い追い教えていかなければ。

あむあむと大好きなビビの唇で遊んで、お約束通りちゅっと離れる。舌を絡めあったわけではないから、お互いの糸すら引かずにあっさり別れてしまう唇は少しだけ寂しい。名残惜しんでべろりと舐めるとふっくら甘く、擽って離れた舌先とようやく繋がった透明な糸。ちゅ、もう一度啄ばんで糸を千切り、また聞こえた音に得意げなビビをぎゅう、と抱き締めた。

騙しているとはいえ、こうして触れ合う唇に胸がぞわぞわする。心に直接唇を這わされたみたいに、くすぐったい。

わしゃわしゃしてあげたいくらい好き。どうしようもなくなる。どうしたらいいんだろう。

抱き込んだビビにさすさすと擦られる横腹がこれまた擽ったくて背に腕を回させてみるけれど、ぎゅっとしがみ付かれて余計に擽ったさは増すばかり。お腹にぐりぐりされるおでこから、ピタ冷えろが剥がれてウタの服にぺたりとくっ付いた。

いつだったか、揺れるロッキングチェアに怖がっていた時もこうしてぐりぐりされたっけ。そう前の出来事でもないのに、とても懐かしく感じる。

ガタガタ、急かす様に騒がしい下の階。


理解してもらえないだろうけれど、でも。そろそろ伝えてもいいのかなあ。

そよそよと鉄格子を通る花色の風にまで急かされてしまったから、お話聞いて、と諭すように身を離し、先ほどまで遊びあっていた寂しがりの唇をゆったりと開いた。


「ビビちゃん。ぼくね、やめることにしたんだ。4区をまとめるの」

「?」

「マスク屋さんにでもなろうかなって。元々なりたくてなったワケじゃないし、それに…お留守番させるのも不安だしさ」

「なに?」

「うん…わかんないよね。でも…そのまま聞いてくれる?これからぼく、大事なこと言うから」

「…?」

「………あー待って、すっごく言いにくい。ちょっと…ごめん、ぎゅってさせて」

「?」

「……はい。あのね……ずっと言ってなかったけど…」

「へっぷし。」

「、」

「…へふ……へっくし。」

「…なに、それ。くしゃみ?」


もういいよ、ばか。

好き、好きなんです。
これが言いたかっただけ。

…伝わんなくてもいいから、そばにいさせて。


頷く小指、赤い糸


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