ふたり仲良く沈み込んだ蒼い海。

まだかなまだかなと待ち続けていた宝箱は、今も望んだ瞬間を迎えられずにいる。

想いを道連れにした男の話によれば、灰色がうっかり落っことしてしまった小さな鍵、それが何処へ行ったのかわからないのだそう。海床に刺さる言葉達を掻き分けて、柔らかい砂を散らして、周りを見渡して見ても、鈍色の鍵はみつからないのだとか。

こぽ、
早く開けて欲しくて気泡を揺らすけれど、のん気なふたりは笑い合ったまま墓標の言葉たちに身を寄せている。

───この中には大事な大事な愛があるというのに、変な子たち。

揺蕩う恋にそれでも幸せそうなふたりを見て、

愛情を隠し持つ宝箱は不思議そうに首を傾げた。





数日続いた喧騒も去った。

ウタとビビ以外、誰もいない。

一緒に土を入れて苗を押し込んだ植木鉢も、転がるブリキの如雨露も、薔薇と蝶の落書きをしたドラム缶も、未だ真っ新なブラックボードも、物言わずに二人の落ち着く空間として只々馴染んでいて。そよぐ風に心地よさそうに揺れる金色と銀色の毛先。

出会った時が酷い雨だったから。

連れ戻した時が酷い雨だったから。

なんなら今日も降ってくれてよかったのに、思いながらドラム缶の上にしゃがみ込んで仕上げていた壁の落書き。黒く乾いた平面の太陽が、雨を嫌ってどんよりと晴れた。

「みて。」

「?」

“みて”
ウタを真似て声を掛けて来たのは、大事な黒いワンピースを着て、さっきまであっちふらふら、こっちふらふらしていた毛玉。その手に握られたツンツンの葉っぱは、手を添え一緒に植木鉢へと植えたはずの苗、鉢男。

少し目を離した隙に鉢から引っこ抜いてしまった様で、ボトボトと土の内臓を落としながらドラム缶上のウタへと差し出された。

「えっとね、…なんて言ったらいいのかなあ…」

「?」

「うーん…わかんない。とりあえず戻す?それ」

壁に仕上げの一筋を刷毛で撫でドラム缶からぴょんと飛び降りたウタに、ビビは尚も苗を差し出す。なんの意図があるのかはよくわからないが、ゆったり控え目に差し出す。ただのプレゼントかもしれないし、他に何かあるのかもしれない。とにかくやらなければならないのは、可哀想なこれをもう一度土に植える事。面倒だからとすっ飛ばした説明も行動を見てなんとなく察してもらえたらとは思うが、たとえ理解して貰えなくてもこういうワケのわからないやり取りは中々に楽しい。

これから先何度繰り返していくのだろうと考えると、いつか来るはずの終わりなんて一生来ない様な気がした。一生来て欲しくないから、一生来ない様な気がした。

刷毛を放って苗を受け取ったウタが、転ばないでねと注意を促し植木鉢の元へビビの肩を抱き支えて歩む、けれど。もう興味の移ったビビは当然の様にのんびりと足を止め、ウタの腰で縛られたツナギの袖をゆるゆる引っ張って一人で遊んでいる。

部屋の隅にすっぽり入り込んでただ縮こまっていたあの時に比べたら、こういったビビの意思が少しでも見れる様になって素直に嬉しいと思う。色々な事に興味を示してくれて、本当に嬉しいと思う。

ほらいくよ、促せば従ってふらふら歩いてはくれるが、その間もずっと袖で遊び通し。ウタが苗を植え直しても見る事すらせず、しゃがんで土を弄るウタの頭をゆっくり撫でて、また袖を掬い引っ張った。自由に遊べる環境を初めて手にしたビビも、一つずつ自分なりの遊び方を見付けているようだ。多少、自分勝手ではあるけれど。

「…ぼくも大概だけどさ、ビビちゃんも結構ワガママだよね」

「なに?」

「んーん、なんでもない。ちゅって、して?」

「はい。」

ふに。
犬の芸と同じ、躾通りに押し付けられる唇。やはりふについたそれは何の音もしない為、気を利かせたウタがちゅうっと吸い上げるはめになる。今も。この行為に特別な感情など一つも抱いていないだろうビビは、聞こえたちゅうの音にさっさと唇を離して満足そうな顔で頷いた。ウタの気遣いがなければ失敗に終わってしまう事も知らずに。

───もしもビビが誰かにキスをしたとして。今と同じ様にキスをしたとして。いつも聞こえていた音が聞こえなくて、マヌケに焦る姿が一瞬だけ目に浮かんだ。なにも、気を利かせる男なんて自分だけではないのに。

それでも、その時が来ても。偏って教え込んだ“自分との常識”だけは棄てずに持っていてほしい。それはきっと、ビビを奪っていく男を赤黒く苦しめるはずだから。

選んだのは友人や恋人といった鋳型のない未来だけれど。流し込む温かい過去すらないけれど。

未来がどうであれ、これでいい。一緒にいられるなら。この先考えが変わったとしても、今はもう、これで。

ひょっとしたら訪れるのかもしれない未来なんかより、誰よりもそばにいられる今を蔑ろにするなんてきっとバカげている。

だから、これでいい。

「ねえ、ビビちゃん。こっち来て、明るいとこ」

ぽんぽん、
ツナギで無造作に拭った手を差し出せば、素直に手を繋いでくるビビを導いて柔らかい日の照らす場所へと連れて行く。足元すら見ずただウタを見上げて歩く様子は、いつぞやと一緒。この瞬間に歪みなく向けられる真白な信頼が過去の出来事を丸々無視している様で、ビビの単純さ薄情さ、なんと表すのが正解なのかよくわからない性格に毎度心の首を捻ってしまう。花の事も、痛かった事も、どうして一言として口にしないのか。今はまだ、ビビを計り知れなくて不思議。

大人しく身を預けるビビとしては、ウタにされた事を綺麗さっぱり忘れているワケではない。ただ、酷い事をされない日が続くから一時的に忘れているだけ。花やウタと一緒にいるのが心地好くて、辛い事などわざわざ思い出さないだけ。ビビ自身が望んでここに居るだけ。それだけ。ただそれだけのこと。

温かいウタのそばでこそ、やっと呼吸ができるビビ。窓際で日向ぼっこをした時の様にゆったりと眠そうに瞬くその首元で、あの日からずっと在る最後の枷が日差しに揺れている。

目の前で注意を引く様にヒラヒラするウタの手をじ、と見つめる瞳は変わらず蒼い。尊く蒼い。

「よく見て、目は離さないで。いい?
───はい。これは何でしょう?」

「…?」

閉じたり開いたりまた閉じたり、手品をする様に不思議に動いたウタの手が摘まんでいたのは、じゃらりと煌めいて鈍いネックレス。太陽とHySyの文字が彫られたプレートはピンクゴールドで縁取られていて、Dリングが重く擦れる首輪よりずっと可愛らしい。

ゆらゆらするそれを捕まえてじっと眺めるビビが、数度瞬いては指で彫刻の凸凹をなぞり、何かの紋章の様なプレートの輪郭を辿る。ビビが知っている証明のドッグタグとは違う、ただのお洒落として作られたそれは新しい首輪。皮膚を傷付ける事もない、ただの独占を表す優しい首輪。

プレートにこっそりと埋め込まれた赫眼色の石榴石は明るい日差しを受けても頑固にどんよりと曇り、ビビと共にあった拘束の日々をまだ覚えている。それでもあえて、この石を使ったのは───方舟のカンテラとして使われていた灯の宝石だから。薄暗く濁った曇天の石ころでも、ビビの歩む先に安楽の期待を込めて。

「急拵えだけど…よく出来てるでしょ?気に入った?」

「、」

じーっと見入るビビはウタの声に耳一つとして傾けはしないけれど、むにむにと照れる唇がうんうんと頷いている。哀しい色が瞬く事に、リングの揺れる首輪を外そうと近寄ってきた手にはきちんと気が付いて、今までの様に従順に首を晒した。ウタが出掛ける際、鎖と首の輪とを繋ぐ為に仕込んだこの躾も、もう必要なんてないのにビビはまだ覚えていて。かちゃり、緩んで地に落ちる輪っか。

見繕った時はあんなに似合うと思った首輪も、撃ち落とされた何かの様な重々しい音をたてて、今となっては大事なビビにどこまでも不釣り合いだった。

ガーベラの様に柔らかいピンクゴールドの方が、余程ビビに似合う。

「…うん。いいね、こっちのが可愛い」

「ビビに。」

「そう。ビビちゃんにプレゼント。ウタのですって、新しい首輪だから…外しちゃダメだよ。……重い?こういうの」

アハ、軽く笑ったウタとは反対に、やはり話を理解できていないビビは胸元のプレートを物珍しそうに両手でもじもじ。どことなく嬉しそうに、どことなく照れくさそうに。施設の中で何一つ貰えなかったわけではないし、機会は少なかったとはいえ気遣いでのプレゼントは貰ったことがあるのに、なんだかとても新鮮な気分で嬉しい。

ウタの瞳と同じ色をした石ころも、温かい太陽の刻印も、そばにいるよと告げるピンクゴールドの縁取りも。すべて嬉しい。

ありがとう、
ごにょごにょっと小さく呟いたビビに、言葉を受け取ったウタが“どういたしまして”とお返しした。


植木鉢、落書きドラム缶、太陽の壁。そして、今この瞬間からビビの宝物となったネックレス。

これでやっと、HySyの色が完成したことになる。

「…できたらずっと、ここにいてね」

「?」

「乱暴なんてしないし、何より大事にする。誰からも意地悪されないように、ぼくが守ってあげるから。…だからさ、ビビちゃん」


───どうか末長く、よろしくお願いします

いつか訪れるかもしれない、一緒の終わりまで。

かくんっと頭を下げたウタを真似して下手くそなお辞儀をしたビビが、

“よしくおねがします”
いつかイトリへ言ったように、舌の回らない拙さで伝えた。裏に隠された言葉、一緒にいましょう末長く。

意思の疎通なんてまだ全然できない様なふたりだけれど、結局のところ一緒に居たい気持ちは同じ。安心するから近くに置いて欲しいビビと、いつまでも一緒に居たいウタ。

好きなんです、伝えた恋の言葉が一方通行で終わったって、ぎゅうっと抱き込んだ灰色がぽかぽかと温かかったから。これから先もきっと、そばに居るだけで幸せでいられる。

けど、やっぱり誰にも触られたくはないからと。ふわふわの髪をよけた真白い首筋に、独占欲の鬱血をぽちぽちと残した。

HySyの刻印、生々しい拘束の鬱血。ウタの名前がたくさん書かれた体にわざわざ触れる者なんていない。それなのに心配そうにしているウタは、今の何倍にも膨れ上がった独占欲がずっとずっと先まで続いていく事をまだ知らない。

言い換えれば、ずっとずっと先まで一緒にいられる事を、まだ知らない。


ウタの杞憂など露知らず、なんの痛みもない変な痣だらけにされたビビは誰の元へも行くつもりなく、ただ居心地よさそうに太陽のウタへとくっ付いた。


───よろしくお願い致します。

笑い合ったふたりの頬、花色の風が撫でる。


始まり花は赤糸り


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