けほ、乾いた咳と共に開いた扉。一生懸命に呼吸をする様な、

――ひゅう、ひゅう、

音が聞こえる。酷く久しぶりに感じるビビの音。

人も喰種もしょっちゅう殺しているウタにとってはとても馴染みのある音で、これを聞いてああ過呼吸だとすぐに分かった。恐怖に急かされた呼吸は誰しも荒い。

ただ、少しだけ気になった。あれだけ痛めつけても花がいなくなった時も、ここまで荒い呼吸にはならなかったのにどうして今更。

ひとりだと安心して泣けるのかな。そういうもの?さあわかんない。

どっちにしろ自分が居ては気が休まらないだろうからと、寝室の扉へ伸ばしかけた手はポケットへ戻された。ずくり。弱虫の合わせ鏡。





深く凭れたソファの背。俯きに閉じた目はただ暗い。

扉の向こうから聞こえる呼吸は徐々に整っている様に思うが、代わりに
ぽす、…ぽす、という音が聞こえる。起き上がれずクッションにでも突っ伏しているのかもしれない。

静かな部屋でずっと苦しい呼吸に耳を傾ける。

けほ、

我慢の効かない空咳に深く息を吐いて、こんな時にまで疼く胸を撫でた。吸ってばかりでなかなか吐き出さない呼吸、無意識の同調に自分の呼吸まで速くなってしまいそうだったから。耳か、胸か、心か。時間が進む毎に苦しそうな喘ぎが反響する。殺し合いは楽しいし、この音を聴くのも嫌いではなかったのに。

最近は可笑しい事ばかり。

苦しくても死ねない可哀想な呼吸音はもう、寝室から聞こえるのか頭の中でだけ聞こえるのかわからなかった。言ってしまえば苦しもうが死んでしまおうがどうでもいい、筈なのに気分は沈む。憂鬱に。ずくりとした胸の高揚だけを残して。苦しい。

キィ、
ウタを呼ぶ寝室の蝶番が中途半端な所で漂っていた意識を胸に落とす。しん、と静まり返った部屋にはやはり、吐き出せない呼吸などもう聞こえていなかった。視線だけ向けた寝室、ビビがあの足で立っている。

「…、」

“お か え り”

そう、音はなくとも伝えた唇。ずくり。

「…ただいま」

痞えて震える呼吸が耳に届く。ウタの空咳に負けてしまう程小さな、ほんの小さな、可哀想なビビの呼吸。扉に寄り添っていてもよれる足元で、出会った時から嵌められている足枷が煩い音をたてた。

「どうしたの?寂しくなっちゃった?」

返事は返ってこない。掴まっていた扉から離れてよたりよたりと歩くビビには、引き擦るタオルケットも足枷も、全てが重そうに見える。手を貸すでもなくただ見守るウタの耳には憂鬱を煽る鎖の音しか聞こえず、弱々しいビビの呼吸は聞こえなくなった。まるで息を、していないみたいに。

ずくり。

無意識に止まっていた呼吸、ウタはまた意識をして無理に吐き出した。

よたりよたりと、ウタの元へ歩み寄るビビ。扉からソファまでは掴まる場所などなく、自分の足でしっかり立たなくてはならない。薄紫色のタオルケットを離さない様に抱いて不器用に歩くその足首は、きっとまた適当な糸で縫い合わされている事だろう。ウタの手によって何度も切り離された腱はその都度縫い合わされ、再生をしかけてはまた切り離される。きっと今日も。

分かっていてもちくちく縫い繋げる理由は?糸切り鋏の男にその足で近寄ってくる理由は?

――教えて、と。
問いを渡す様に差し出した手はビビの指を絡め取り、ぽふりと胸へ引き寄せた。温かい。

「、」

ふわふわと柔らかい銀糸ごと抱き込もう、そうして背に腕を回すとゆったり体を離されてしまう。胸に手をついて俯くビビの睫毛はただ長く、あれ?扇に広がる疑問。

どうして今、抱き締めようと思ったんだろう。優しい喰種のマスクを外してからというものの、ビビの事は乱暴に扱ってばかりだった。それなのに。

うーんと難しい顔で首を傾げるウタの膝から隣へと滑る様に降りたビビは、床に垂れ下がったタオルケットをのろい動作で全て引き上げる。もさもさと捏ねて探したタオルケットの端っこを両手で掴むと、ウタの体へゴシゴシとなすり付けた。

「?」

ごしごし、掴む場所を変えてはまた擦り付け、掴む場所を変えてはまた擦り付け、大きなタオルケットを満遍なくウタへとごしごしする。ひたすらに。

ビビが転がり込んで来るまではずっとウタが使っていた薄紫のタオルケット。イトリが買ってきたふわふわのブランケットよりもお気に入りな様で、今ではビビ専用になっている。いつもビビと一緒のタオルケットは所々に血液がこびり付きカピカピになっていた。

「……ビビちゃんて、面白いよね。ものを知らないのは分かるんだけどさ、それにしても…変なことばっかり。僕はこういう時、どうしたらいいの?ねぇ教えて?」

一生懸命に擦り付けるビビを覗き込むと怯えた様に目が逸らされ、そしてまた目が合った。

そういえば目を逸らしたら罰を与えてたっけ。ずくり。

目を合わせたまま恐る恐る続行されるごしごし。ウタの手をチラチラと窺う様子から、今日もまた傷付けられる覚悟をしているという事を悟った。

まるで狼と仔猫。蜘蛛と蝶。

「…、」

問いに答えることはなく、そっと離されたタオルケットは毛羽立ってゴワゴワ。ウタを時折確認しながらもさもさとタオルケットを丸めたビビは、ややして気に入る形になったのかソファの上へ丸くなって寝転んだ。ウタの腿へ背中をぴったりくっ付けて、心地良さそうにタオルケットに鼻を擦り付ける。血でカピカピになった、汚いタオルケットに。

「……もしかして、本当に寂しかったとか」


ねぇ、教えて。

縫い合わされた足首、切り離す事は出来なかった。


心弛びのストックホルム


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -