するすると不思議な螺旋で蜷局を巻く包帯は、黒く硬質な糸で縫い合わされたビビの足首を優しく守り続けてきた白い蛇。ウタの手によって保護が解かれ、音もなく床に伏せた。あれだけグズグズになっていた患部は大分と治癒が進み、ぱっと見は紙で負った切り傷程度にまで回復している。

───ここまできてしまった。切り離せないまま。

触らせてくれない以上は自然治癒に頼りきりだった腹の傷も、疾うに皮膚が張り出血など少しもない。時間と共に綺麗になっていく肌、何か加工をしなくては、そう義務感に煽られて手を伸ばした事も幾度かあったけれど、出来なかった。たったの一度も。

ずくり、ずくりと胸が疼いて。胸が痛んで。

心を錆びたメスで切開され、子供に縫合を施され、そして糸を引き抜かれる。次の瞬間こそ傷口から涙の蒼い花弁が溢れるような、堪え難い螺旋の苦痛。

こんなものを高揚だと思っていた自分が確かにいた。たった数日前の事。

今ではただ、痛くて仕方がない。

「ここ、押さえてて。…そう。そのままね」

パチ、パチ、

短い間隔で切られる縫い合わせの糸。ビビが適当に選んだ頼りない糸とは違いウタが見繕ってきた縫合糸は、それなりに耳につく音を立てて丸い結び目を切り離され細い足首をスルスルと滑る。人魚座りをさせられたビビは言いつけ通り足枷を押さえながら大人しくその手元を見つめ、切り離された玉が何処かへ行ってしまう前に1匹ずつ捕まえて掌へ乗せた。

「…まだ歩き回っちゃダメだからね。…きちんと立てる練習だってしなくちゃならないし」

「?」

ピンセットで引き抜く短い糸。綺麗になった足首が枷で傷付かない様、また白蛇の包帯を巻き直した。

心の声を素直に言うならば、やりたくない。足が治ってしまえばビビは自由に歩き回り、きっとウタの元を離れて行く。やっと足が自由になった、やっと安全な場所へ逃げられる、と。

このペットに対して湧いた変な情は実に付き合いにくく、傷付ける事は胸が痛むけれど、だからと言って自由にもしたくない。ただ悶々とする心に生成色のガーゼを当てて、触れる足首から広がる温かさに少しの癒しを求めた。

「外には出してあげられないけど…今日はさ、少しお日様に当たろうよ。日の下で見てみたいんだ、ビビちゃんの瞳」

傾げられる首。唇に少しの動きが見えたが、相変わらずビビの声は聞こえない。何かを伝えようとするその唇に耳を寄せても、掠れた吐息が漏れるだけ。音を産まないその喉元で、拘束の首輪がちゃり、と声をあげた。すっかり出番をなくしたビビ語解読メモ、紡がれた言葉が知りたい。

ビビにクッションを持たせてからよいしょ、と横抱いた体は軽く、タオルケット越しでもじんわりと温かい。太陽みたいと何度も思う。揺れる足首がぽとりと落ちてしまいそうで怖くて、いつも締め切られたままの窓辺へゆっくりゆっくりと歩み寄った。どうやら欠損ももう、楽しめない様だ。

「ビビちゃん、クッションそこに置いて」

「?」

「抱っこしてるやつ、ポイって。…あ、通じた」

ウタと下のロッキングチェアを見比べて、おずおずとポイされた丸いクッション。捕まえた結び目のゴミと共に弾みもなくぽふ、と上手に収まる。その上にビビを座らせると、タオルケットに包まれたままのビビがゆらゆら揺れるロッキングチェアに困惑を見せ、眼前にあるウタの服へと掴まった。

芸を覚えた犬を褒める様にもさもさした髪は一滴の血液すら付いておらず、薄暗い部屋でも少ない光を反射する。その手を嫌がる事もなくただウタに掴まるビビに、なんだかほわっとして、とても胸が擽ったかった。

───もっとほかほかを、と。閉めたきりであった分厚いカーテンを開ける。

「!」

一気に射し込んだ太陽光にビビが顔を背け、タオルケットに隠れた片手で目をこすった。施設からの脱走中くらいにしか感じた事のない光はじんじんと沁みて中々目を開けず、少し開いては目を閉じ、少し開いてはまた目を閉じを繰り返す。

揺れの小さくなったロッキングチェア、それでもビビはウタの服を放さない。

立ったままお腹にビビを抱くとグリグリ押し付けられる額。温かいウタの影で少しずつ慣らそうと努める目がぱしぱしと瞬いた。

「すごい嫌がりよう。灰になっちゃったりしないよね?ヴァンパイアみたいにさ」

「…?」

映画でみる様なヴァンパイアは決まって太陽に焼かれて死ぬ。それは主人公と敵同士であったり、友人であったり、恋人であったり。

そういえば、と。踊り子とヴァンパイアのお話を思い出した。二人の関係はとどのつまり、敵同士でもなければ恋人でもなく、友人と呼ぶには顔を背け合っていてぎこちない間柄だったが、言葉に困る中途半端な内容だった割りには鮮明に覚えている。十字架の使者に追い詰められ灰になる間際、踊り子への恋心に気付いたヴァンパイアはそれでも口を閉ざしたまま粉と散った。愛の一言も伝える事なく。

あのヴァンパイアも確か、踊り子の足を殺して飼っていた。ただの食糧として。踊り子の方もそれを受け入れていたから、ハッピーエンドだと思っていたのに。結局はお約束通りヴァンパイアが灰になって終わり。

“踊り子にとっての足とは、必ずしも必要なものではない”。作中で語られたこの言葉は、いったい何を意味していたのだろう。

存在を確認する様に撫でた肌は灰になって崩れる事はなく、しっかりとした弾力を返しウタに無意識の安堵を齎す。白い肌には酷な程の日射しの中、やっと身を離したビビが窓の外へ目を向けた。まるで太陽に焦がれるかのように。

一度睫毛を伏せて、同じように眩しそうな目でウタを見上げる。瞳孔が細長く縮んだ瞳は灰蒼に極薄い緑の膜が張った様な、深海の日射し色だった。

ぱちり、ぱちり、
ゆっくりと瞬く。

「……青と、緑…ターコイズ?」

よく見せて、と覗き込んだウタが落とした少しの影に、緑色はサッと見えなくなる。ただ鮮烈な蒼。

「…変わるね、色味。海には例えたくないし…うーん…なんだろう…」

ヘレナモルフォかなあ。

本体そっちのけで夢中になって覗き込む芸術気質の頬を、観賞用のビビがやんわりと撫でた。正反対の赤い瞳を見つめて、不思議そうにもう一度瞬く。

ウタの高い鼻先が触れる距離はその赤も黒もよくよく見えて、楽しい。

施設にいたら見る事のなかった色、いつも薄暗い部屋でぼんやりと浮かんでいたウタの赤。施設にいたら一生感じる事のなかった太陽、眠気を誘うようなぽかぽかの日射し。繁殖小屋でいつも花瓶に挿さっていたお花は、真っ赤な太陽を浴びて育つのだと、花が言っていた。絵本に描かれる丸くて赤い太陽と、ぽかぽかされ徐々に花開くガーベラ。

ウタの赤も影を追いやる日射しも、綺麗で、温かくて、楽しい。

ビビはとても、楽しい。


緩んだ口元。灰色の睫毛が瞬いて、ふんにゃりと緩い笑顔が照らされた。

───、」


どくん、と。一瞬、何が起きたのかわからない程の鼓動。ビビが笑った。

なに、これ。

一拍遅れてぶわりと熱くなる頬に思わず甲を唇に当て踵を擦る。熱い。心臓が煩くて、まるで花弁でも溢れているかの様な、とにかく熱い。胸も頬も全部。

ぽかぽかと心地好さそうに瞬くビビからずっと目が離せず、いきなり湧いて出た暴力的な温かさに呼吸すら上手く吐き出せない。本当に、いきなりきた。

「う、わ…ぼく…待って、いま…笑ったの…?」

「?」

麗らかさに伏せていた睫毛が持ち上がり、ぱちりと目が合う。先程まで平然と合わせていた瞳なのにとてもではないが耐えられず、ビビの瞬きよりも余程不自然に逸らした目。視線の端にウタを追う手が見え、猫の首でも持つ様に服の袖だけを指先で摘まんで制し、そのまましゃがみ込んだ。

残された腕で頭を抱えても、より一層心臓は煩く聞こえどうしてもビビの足首に目が行く。そしてまた跳ね上がる鼓動。あまりに不安定な精神と下がる気配のない心拍数に目の前がゆらゆらと揺れた。

「…………吐きそう、」

わけが分からなくて、どうしようもできなくて、胸が苦しい。痛くはないけれど、苦しい。どきどきする。とにかくビビを視界に入れてはいけないと、相変わらず袖を摘まんで遠ざけたまま無理矢理に落とす視線。ぐにゃりと歪んだ床にあの笑顔が浮かんで、落ち着け落ち着けと唇のピアスをがりがりと噛んだ。

それなのに。

ぽふぽふとウタの頭を撫でるビビの自由な手。いつもウタがするように、もさりもさりと大雑把に撫でてはぽふぽふと弾ませる。

ひゅ、と死にかけの呼吸、今にも過労死しそうな心臓。


真っ赤に熱い頬をこしょこしょと擽られ、ウタはいよいよ腕に顔を突っ伏した。


足と蒼とビビと恋


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