目も合わせられない、夜も眠れない、朝も眠れない、昼も眠れない、肌にすら触れられない。

視界の端でチラついていた感情の尻尾を捕まえてしまったウタは、灰色の太陽が居座る部屋では満足に身動きがとれずにいる。まさかこの尻尾を引き抜いて直視するわけにはいかず、何も知らないまま無傷で終わりたいと目を瞑り願う。

今ならまだ間に合うから。まだ気の所為だって、言えるから。

灰色を死体にするか、あの人間の元へ引き渡すか。考えれば選択肢なんて幾らでもある、ウタ自身が選べばいいだけ。

なのに───ただ惜しい。あの笑顔も、おかえりの一言も。

藍瓶の涙、糸車の唇、逆さまの心臓、墓碑銘の血、約束の銀糸。言葉遊びをしたって鳥籠を開けてあげる合言葉にはならず、ただ格子の胸に住まう灰色を表し海床へ沈む。蒼い海の中、白の砂へ辿り着いた言葉達は宝箱へ優しく寄り添うのに、その誰もが鍵を持っていないのだという。


心芽吹く春はひとりきりで沈み、冬になり損ねた蒼はただ温かい。

ただ、温かい。





ゆらゆら揺れるロッキングチェアは影を伸ばしては引っ込め、伸ばしては引っ込めを繰り返してビビと日向ぼっこを楽しんでいる。あの時のビビが余りにも心地好さそうだったからと、普段全く使う事のない気遣いで以て今日も日向ぼっこをさせてみた。

決してビビの肌には触れないよう袖を目一杯に引き伸ばしてその手を取り、そして窓辺のロッキングチェアまでゆっくり導く。両手を引かれてよたよたと歩くさなか、足元すら確認せずただウタを見上げるビビからは真っ白な信頼が垣間見えてウタとしてはとても複雑だった。

傷付ける素振りを見せれば素直に怯える、それなのに少し優しくするともう信頼を見せて懐いてくる。これの繰り返し。傷付けられる事のなくなった日々に花の事すらもう忘れているのではないかと思わせるその単純さは、薄情と呼んで良いのか正直と呼んで良いのかわからない。

寄せられる少しの信頼は重くて、擽ったくて、そしてやはり心臓が煩くて。離れたソファからチラチラと盗み見たビビの横顔にまた花弁が溢れ、むずむずする様な擽ったい不快感にピアスをカチリと噛んだ。

「 、 、 、」

ゆったりと動く唇は言葉の糸を紡いではいるが、少しの音もないそれは白い布に白い刺繍を乗せただけの御便り。日に翳しても、火に焼べても、託された言葉は浮かんでこない。

途切れる事のない声亡きお喋りは、まるで歌でもうたっている様。そう思える程に流れて遊ぶ唇は恐らく日本の言葉をなぞってはおらず、隔てる海を渡った異国の詞だろう。

─── 、 、


糸紡ぎの唇。もしかしたら本当に、ビビはお歌をうたっているのかもしれない。

「……あー」

もういやだ。居心地が悪い。自分の家なのに。

開け放たれた窓からそよそよ戦ぐ風に一層心地好さそうなビビは、居候にも関わらずのんびりと寛いでいる。ように見える。それもそうだ。誰だって蹴り転がされた部屋の隅っこよりは、優しく手を引かれた窓辺の方が心地好いはず。たとえ最低最悪の男がそばに居たって、隅っこと窓辺では大きな違いがあるだろう。

“最低最悪の男”。考えて憂鬱になる視線の先で、ふわふわと緩い癖っ毛が無邪気に揺れている。ぼーっと眺めているだけで熱くなる頬に忙しい心臓。冗談でも何でもなく居心地が悪い。

はあ、深い溜息に後押しされ、やっとの事で立ち上がった。

「…また今度にして。今日はおしまい」

「?」

ピッタリと閉じた窓の鍵をかけカーテンを閉めてしまえば、温かくぽかぽかしていた窓辺も全て、ビビが隅っこに転がった薄暗い部屋に戻ってしまう。感じる視線は徹底的に無視をして、背凭れに引っ掛けられていたタオルケットでビビを包んだ。

ゆっくり手を引いてやるだけの余裕がない、早くこの空間から出たい、ビビのそばから離れたい、落ち着きたい。ゴワゴワの生地越しにその身を抱き上げて、早々に寝室へと連れて行った。これはビビの人形、これはビビの人形、そう言い聞かせて。


コロン、と転がしたベッドの上、ビビがのそのそと身を起こしてウタを見やる。その視線も無視してクローゼットからジャケットを引っ張り出し、そして家の鍵を探すが、見当たらない。

えーなんでこんな時に、と一層ピアスをガリガリしながらあっちこっちひっくり返すが、やはり見つからない。昨日置いた場所にない。どこにもない。

「ねえビビちゃん、カギ知らない?行ってきますのチャリチャリ。…知らない?」

弱虫ビビをこの家に置いていく以上は鍵を開けっ放しにしていく事なんて出来ないという、ウタの知らない無意識の底に落ちた小さい鍵。何かを閉め、そして何かを開ける為の鍵。

あの唇はなぞるだけのお返事をしてくれたのかもしれないが、転がるぬいぐるみ達を足で退けながら無意味に落とした視線では、ひとつも読み取る事が出来ない。仲間を鍵代わりに置く事もしたくないし、かと言ってこの家にも居たくなくて。

どうしよう?もう一度ついた溜息に重なって、

───ちゃり。

鍵の擦れ合う音。

「…、」

やっと振り返ったベッドの上で、申し訳なさそうに縮こまったビビが枝豆のぬいぐるみを差し出した。

ぽと、その中から落ちる鍵。

探し物はどうやら、ビビが隠し持っていたらしい。もうなにも持ってないよ、そう示す様に中から豆が出され、ぱかっと開かれる緑の鞘。

豆、豆、鍵、鞘、
ひとつずつ並べられたそれがビビのごめんなさい。

「……はい」

鍵を知らないかと聞いたのは確かに自分であるが、なんと返せばいいのやら。

ありがとう? 隠したのはビビちゃんなのに?
えらい? 隠したのはビビちゃんなのに?

結局何も思い浮かばず、お返事はこれだけ。じ、っと見つめてくる視線が何よりも嫌で、イタズラを怒る気なんてまるで起こらない。というより怒っている時間なんてない。なんでそんな事をしたのか、考えている余裕すらない程早くこの場から去りたいから。ビビの目の前に置かれた鍵を取りに行く事すら辛い。

サッ、と指に引っ掛けた鍵、案の定それだけでほわっとなる。温かい様で擽ったい、このほわほわ。好きじゃない。嫌だ。好きじゃない。好きじゃない。耐え難い不快感。好きじゃない。言い聞かせてるだけだって、わかってる。

「、」

ウタがどこかへお出掛けすることを察したのだろう、ビビが顎を上げて喉を晒した。リングの揺れる首輪はウタの外出時に必ず鎖で繋いでいたから、今日もまた待っていますと従順に。

じりじりと灼ける頬。無意識の内に伸ばしていた手は首輪のリングを軽く弾き、そして彷徨いの後ビビの頬を親指で柔く撫でた。一瞬だけ。

柔らかくて、温かくて、言葉に出来ない不快感が胸に押し寄せる。針先に触れた人間の様に引き戻した手は、やはりもうビビの肌には触れない。タオルケット越しとか袖越しとか何かを挟まないと、とてもではないけれど無理。

ゆるゆると伸ばされたビビの手から逃げる様に、踵を返した。

「いい子でね、…いってきます」

頬以上に熱い指先、唇に当てる親指の腹。パッパッと手首を振ってポケットに突っ込む。どうしてあの灰色はこんなに温かいのだろう。

背中で聞いた無音の“いってらっしゃい”。


ああもう鎖すら繋げない。


紡ぐ歌とふたり鍵


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