匂いがした。とても懐かしい匂い。いつかの繁殖小屋で花が持ってきた小瓶、濁った海水。

───“Danzig”の灰は海へと還るの。貴女の灰も、また

瓶の中に閉じ込められたそれへ鼻先を寄せ、一生懸命に覚えたあの匂い。記憶にないもっとずっと奥底で、何代も重ねた血だけが知っていた薄い薄い磯の香り。

それを、薄暗いウタの部屋。窓を叩く激しい雨音に混じって確かに感じた。熱く火照った身は重く、ぼやける視界は雨に濡れたガラスのよう。それでも縺れる様に近寄った窓辺で鼻を利かす。すんすん。

手でよけた分厚いカーテンの向こう側はビビの視界以上にぼやけていてよく見えない。浅く思い出すあの日の窓辺、そよそよと戦ぐ心地好い風。

───あの時のウタは確か、ここをこうして、こう、

「!」

よくわからないままに開けた鍵。ウタがした様に横へスライドさせた窓から、容赦のない糾弾に似た勢いの雨粒が入り込んだ。

窓を開けたら雨が入ってくる、ビビの知らなかったこと。雨でさえ施設からの脱走の時にしか感じたことのないビビには何が起こったのか理解できず、驚いた足が崩れるようにその場へとしゃがみ込む。見上げた窓からは乱暴な風と共に姦しい糾弾の雨粒が部屋の中へ飛び込んできて、とてもこわい。

こわい、けれど、一層強くなる記憶の匂い。

わけのわからないモノが降り注ぐ窓の向こうにはビビの知らない世界が広がっている。ひとりで出歩いた事なんてない。窓から一歩踏み出したら、どうなるのかすら分からない。

よじ登った窓、背中にはひとりきりのお部屋。

匂いの元へ行けば、やっとふたりになれる気がした。誰と。ウタと。ビビにとっての花と。





ビビを独り残した薄暗い部屋。居ると信じて疑わなかったビビはいなかった。開けられた窓からは激しい雨が入り込み、ビビの脱走経路を隠す事なく素直に申告している。

まともに歩く事すら儘ならないほど鈍臭いビビがこの窓からどうやって?覗いた下には着地に失敗した様な血痕はない。匂いもなく、雨に流されたわけでもない。

攫われた?しかし、鍵は内側から開けられている。窓が割られているわけでもない。常識のないアレの事、外から呼ばれて開けてしまったのかとも考えたが、そんな事をするくらいなら窓をぶち破る。そもそもビビの存在を知る者は限られており、ましてやウタの自宅となればなおさら可能性は薄いだろう。どこかの鴉を除いて、この4区でそのような事をするバカはいない。ビビはきっと、自分の足でウタの元から離れた。

だが、その前に。身を離していてもビビにはウタの目が向けられていたはず。ひとりぼっちの鳥籠へ誰も踏み入らない様、ウタの差し向けた監視が。にも関わらず、なぜビビは檻を抜けられたのか?

ただ、タイミングが悪かった。

監視の子から受けた連絡は、ウタの自宅周辺を白鳩が彷徨いているというもの。経路からして自宅のそばまで辿り着くのは時間の問題。足止めをするから始末をしに来てください、と。会話の内容からしてビビの事を探しているわけではない様だったが、ぞろぞろ連なりまるでツアー客の様な白鳩は、念の為、そして冷蔵庫の肥やしとする為、一羽残らず掃除をされた。

ほんの数十分程度。監視の目が離れたその隙に、ビビは脱走を成功させた事になる。図ったわけでもなんでもなく、ただ、タイミングが良かっただけ。

こんな大雨の日に、傘の存在なんて知りもしないあのビビが。弱虫の、あのビビが。今まで感じた事のない様な、心臓が押し潰される程の焦りに震える呼吸はか細くビビを呼ぶ。独りきりの部屋で寂しい灰色もウタを呼んでいた事、教えてくれる者は誰もいない。ただひとりぼっち。

ころりと転がる枝豆のぬいぐるみ。引きずられたまま床に伸びているビシャビシャのタオルケット。

逃げてしまった想い人を求め、弾かれる様に蒼の降り注ぐ外へと飛び出す。




視界すら奪われる大雨。ビビの弱い匂いを辿る事など不可能。ただの勘で駆けるウタの中で、ゴチャゴチャ考える頭と激しく痛む胸とがずっとずっと悲しい喧嘩をしていた。

必死になって探して居るけれど、見つけていったいどうするのか。保健所送りにする予定は?里親は?

手放す方向で考えを纏めていたのに、今自分自身がとっている行動が理解できない。このまま好きに行かせたらいいと考える頭を、一緒に居たいと想う胸が咎める。止まりかける足はそれでもビビを探して冷たい水溜りを蹴り、胸の声にだけ従わなければと苦しい足跡を産んだ。

連れ戻してどうするのかすら分からない。また暗い部屋に閉じ込めるのかすら分からない。ただ、一緒にいたい。本当は一緒にいたい。いや違う。そうではなくて、安心したい。無事な姿を見て、安心したい。安心したいだけ。安心したいだけ。

でも、やっぱり、一緒にいたい。

それなのに、

「なんで、…」

ぼくのそばから離れたの。

イヤになったんだ、きっと。痛い事をしたから。優しくしてあげられないから。最低最悪の男、帰ってこないから今の内に逃げてしまえ、と。嫌われたんだ。嫌われていたんだ。当たり前だ、分かってた。そんなの、分かってた。

ほら、実らない片想い。伝える前から背中を向けられ逃げられた。だから、知りたくなかったのに。だから、認めたくなかったのに。

止まりかける足。ビビを探せと叫ぶ胸にもう一度従い一歩を踏み出すそれは、何より残酷な事をしようとしている。勇気を持ってしまった弱虫を連れ戻そうと。希望を持って逃げ出したであろうその灰色を、連れ戻そうと。

もう一緒に居たくないと檻を出たのに追い掛けられる、そんなにツラい事があるだろうか。

花を奪った、声を奪った、穏やかな日を奪った、形成す可能性を奪った。こんな男の元に。

このままビビの運命を手放せば、喰種でも白鳩でもただの人間でも、必ず誰かの目に留まるだろう。心ある者にさえ出会えれば、足に嵌められたままの枷がきっと、きっとビビを保護へと導いてくれる。辛い仕打ちを受けた事、きっと察してもらえる。きっと、優しくしてもらえる。

それでも、

「一緒にいたいなんて…ワガママだよね、ぼく……ごめんね、」

視界の先に見つけた愛しいあの色へと、胸の声にだけ従い続けた正直な足が蒼い水溜りの鏡をぱしゃりと叩いた。


値札付きの雨粒


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