“HySyのビビが体調不良だから”。

それだけの理由で一人きりの接客を任されるクローズの看板。C、L、O、S、E、とだけ書かれたこれは日本語も喋れず、英語も喋れず、そもそも声帯をもたず。あの日の窓辺、揺れるロッキングチェアにて出もしない声で歌っていたビビの様に静か。

出来る事と言えば、壊れてしまったマスクを片手に訪れたお客さんに、あるいは迷路の路地で偶然辿り着いたお客さんに、ただ申し訳なさそうなCLOSEをお知らせするだけ。声を持たない以上はなんの説明も提案も世間話も出来ない為、急ぎのマスクを屋上に投げ入れるのか、また今度来てみようと道を覚えつつ帰るのか、選択は全てお客さんに任せる他ない。その背中をCLOSEの文字で見送る他ない。

しとしと、思い出を降らす雨に濡れる申し訳なさ。お城の中ではマスク屋の店主が風邪っぴき疑惑が晴れつつある毛玉を可愛がっているから尚のこと。

今もまた、Cから始まるお知らせに残念そうな傘の絵柄を見送り、背中合わせのOPENを優しい雨から遠ざけた。



くしゃみの日、元気の日、くしゃみの日、元気の日。夜を明ければ表情を変える体調は気紛れな女の子に似て信頼出来ず、ウタは予約のお客さんにのみ数分程度の時間を割き、それ以外はずっとビビに寄り添っている。ずっと。

自営とはとても気儘であり、お客さんからのノックさえ耳を塞いでしまえば口煩く咎める者は皆無だ。幸いマスクはビビのそばでも作る事ができるし、クローズを確認して尚急ぎのお客さんはマスクを屋上に投げ入れてくれるため無駄になる時間は少しもない。

常と一つ歯車を違えても、物事はうまく回るもの。そばにビビが居るのなら。

予約を迎えるスタジオ内は湿った枯葉の裏を思わせる薄暗さで、開いた扉の隙間からしとしと、しとしと。囁く雨に、ぼんやりとあの日を思い出す。雨粒滑る白い手、生きたまま海に沈んだヘレナモルフォ――とても綺麗で。


今日よりもずっと聞き分けがない激しい雨の中で出逢い、鳥籠を抜けたビビを腕の中に連れ戻したのも雨の日だった。多くが悲しい音だと、憂鬱だと、あいにくの天気だと、そう嘆く俯きの日も二人にとったら思い出深い愛しい音色だ。「落ち着くね、」「ね。」幸せの雨に何度笑い合ったか分からない。

他人を、恋人を、仲間を、ビビを。誰かを本当の意味で、心の底から思いやる気持ちなんて知りもしなかったあの頃。足枷が擦れて痛むだろうからと足首に巻かれた思いやりの包帯を見て不思議に思っていた自分が、こうして寄り添う雨の日を見たら。さてなんと言うだろうか。

ほろろと背いては片頬で振り返る。そんな継ぎ接ぎの胸が焦がれたのは灰色が混ざった雨粒。受け止めようと両手を差し出しても掌で弾けた雫は脆く、無残な刻で肌色の水溜りとなった。ほろろ、散る色は悲しくて。それでも差し出し続ければ雨水は溜まるというもので、いつからかこの掌は幸せの雨を拾う逆さまの傘となった。

「努力は必ず報われる」などと、「気休めはやめろ」と鼻で笑われがちな言葉もバカには出来ないもの。雨粒だって一粒一粒大事に集めれば、ゆらゆらほろろ。翅に揺れる綺麗な鏡となるから。大事に集めれば。一粒一粒、大事に集めれば。どんぐりを拾うビビの様に。たった一粒のおやつを強請る、ビビの様に。


繰り返し思い出す雨の日は今でも鮮明な灰蒼色。優しい雨音に耳を傾けつつ――。

予約の子にマスクを渡したら世間話もそこそこに、陽が差さず薄暗い階段をしとしとと上った。足元の弱かったビビが何度も何度も転げたこの階段を抜け、ウタにしては早足で戻った毛玉の元。

「かたちむり、ないよ。お家…どうしたの?」

しっとり蒼く潤う窓辺で、ぽつんと佇む姿。もにゃもにゃした一生懸命なお喋りはウタの存在に気付かず、ただ背を向け続ける。しかし、寂しくはない。どうせまた小さなお友達でも見つけたのだろう。寂しくはない。日々のパッチワークが心臓を縫い繋いでいる。いつか見送る日がくるからと、涙に浮く胸で見つめた背中とは違う。

現に、ベッドへ置いてきたというのに窓辺で発見したという事はウタを追って抜け出したと見える。去る為の背中ではなく、追ってきた背中。ほんの少しだけ、道草をしているだけ。ほんの少しだけ、かたつむりと浮気をしているだけ。

寝室からここまでの間で転々と転がっているのはビビの落し物。ぬいぐるみや毛糸の玉を拾い集めてソファへ置き、静かに目を向けてみれば窓辺をゆうっくりとお散歩するナメクジが見えた。ビビの大好きなかたつむりとは違うけれど、心配そうな声を聞く限りではお家をなくしてしまった可哀想なかたつむりとでも思っているのだろう。後ろから覗き込むウタには、やはり気付かない。

「お家はどうしたの?」そう聞いているあたり、やはりあの日に重なった。ビビもビビであの日のウタを真似ているのかもしれない。雨の日、出逢った迷子、助けてあげないと。あの日のウタがそうしてくれたように。自分も、助けてもらったように。

真似ているのかもしれない。

どうしてだろう、雨の日は不思議だ。独占欲の部屋に閉じ込めきりのビビにさえ、こうして新しい出会いを運んで来るのだから。

お尻まですっぽり覆う灰色の髪はまるで毛玉。
あの頃よりきっと、少しだけ背が伸びた。
あの頃よりもっと、上手にお喋りが出来る様になった。
あの頃よりずっと、ずっと、笑ってくれる様になった。

幸せ。

「つくってあげる、ビビの…。
…まってて。」

ウタが後ろで見守っているとは知りもせず。くるりと振り向いたビビがちょうど鳩尾あたりにぺたっと頬をくっ付けた。女の子である自分とは違う硬い感触に、

「、?」

ぱちぱち、瞬く扇。やんわりと抱き留めた毛玉は不思議そうに鼻を押し付け、次いですんすんと利かせる。周りを見ずに動いてしまう悪い所は以前と変わりないかもしれない。振り返った先がウタであったから良いものの。

「ウタです。びっくりした?」

「とても、」

いつも守ってくれる匂いに安心が広がったのだろう。甘えた様にぐりぐり押し付けられる鼻が少しだけ擽ったい。

ビビに背中を向けられたナメクジはそれでもノロノロとお散歩を続け、ビビに背中を向けられた窓枠の中ではそれでもしとしとと雨が降る。ぎゅう、と閉じ込めた最愛はけたけたと幸せそうに笑ってくれて、何がおもしろいの、と同じ様に笑ったウタにもしとしと濡れた幸せが水溜って。

今この瞬間にも雨を疎んでいる子達がいるという事、世界は広しと言えどとても不思議だった。十人十色、千差万別。可笑しい事ではないけれど、ただ不思議。雨粒滑る雨の日でさえ、胸の太陽は灰色に灯るというのに。

指を差し込んで可愛がる髪は心なしか重く、たくさんのしとしとを楽しんだ事が伺える。ビビのくるくるした髪の先に幸せの木の実でも実っていそうな。そんな可愛らしい重さ。少し灰色掛かった橙の、美味しそうなまあるい木の実。ビビの実。――いつか実ったらいいな。そう願ってやまない。

「お家、ないって…かたちむり。」

見て、
そう指差すビビは不安そうな顔でウタとナメクジを見比べる。かたつむりには本来お家があって、自分にもHySyというお家があって、守ってくれるウタがいて、夏には涼しくて、冬には暖かい。でも、このかたつむりにはお家がない。それはとても可哀想なこと。どうにかして住所不定無職のかたつむりにお家をあげないと。

ゆったりと瞬く目がそう語っている。不安に揺らぐ灰色の睫毛から、クラウンと、そしてピエロの優しい雫がぴちょんと落ちた気がした。

「他のコに取られちゃったのかもね…。ビビはどうするの?助けてあげるの?」

「うん。お家…つくってあげる。」

「毛糸で?」

「うん。ちっちゃいお家。」

ナメクジもかたつむりも厳しい冬は落ち葉のベッドで眠る。かたつむりは殻を取られたら生きていけない。ナメクジに毛糸のお家は必要ない。可哀想に見えたってこのナメクジも雨の日に幸せを感じる一匹。その現実を、ウタは教える気がこれっぽっちもなさそう。実際は事細かに教えた所で理解が追い付かないこと請け合いであり、心配そうな目を穏やかに細める事はないだろうけれど。

未だ大事に抱き込む腕の中、もぞもぞと反転したビビが背中にウタをくっ付けたままロッキングチェアまで歩み寄る。その姿こそ中々のかたつむりで、ウタこそがビビのお家そのもの。のっそりとした遅い歩みもまた、粘液を引いて歩くそれらによく似ていた。白黒の床をこっそり振り返るウタの目に当然ながらぬるぬるのアレは見当たらない。

揺れもなく静かなロッキングチェアは晴天も雨天も変わらずビビに従順で、滑る雨粒の影が少しだけ擽ったくても騒ぐ事なくおっとりと二人を見守る。あの日からずっと、見守り続けている。変わらずに。

そこに鎮座したまあるいゴワゴワタオルケットをビビがもさもさ揉み解している様子からして、どうやら暇潰しグッズはここに隠してある様だ。ゆらゆら揺れるチェアを押さえて覗き込むと、出る出るたくさんの小物。

「針とか入れてない?」

「うん。」

「…カッター出てきたよ」

「へいき。」

ビビは何を入れるか分からず見ているのがとても怖い。人の様に柔い肌には普通の針でさえぷっつりと刺さってしまう癖に、注意を怠りがちだから。いくら望んでも薄いお腹を抱いたまましゃがみ込み、もふっとした髪に頬を寄せて見守るけれど、ぞわぞわして、むずむずして、ビビの手がタオルケットに沈むのが怖くて、

もうやめて、と。1分も待てない内にその手を掴んでしまった。何が入っているかまるでわからないタオルケットから、すぽっと抜いた手を念入りに確認する。

「ウタ、へいき。」

「ビビが平気でもぼくがイヤ」

「?」

自分でできるよと身じろぐビビが、がぶっと首を噛まれて大人しくなるのは良く躾が通っている証拠。信頼関係が築けている証拠。

愛咬被害者で慣れっこのビビは臆する事なく甘えてキスを強請っているが、他の喰種が自分より力の強いウタにがぶっとされたら。きっと大人しくなるどころか、ひょっとして、もしかしたら、病院の診察台に乗せられた猫の様にガタガタ震え出すかもしれない。人間なんてもっと怖がる事だろう。なにせウタは見た目が怖い。見慣れてしまっているビビにとってはこれが普通で、これが愛おしくても。

ナメクジのお客様をお待たせしつつ、ビビの唇にも首と同じ様にかぷっと噛み付いて大人しくさせるウタは慣れたもの。荒れを知らないふっくらとした指の腹、意外と生命線の長い掌、青白くも滑らかな手の甲、うん、大丈夫。変な傷は見当たらない。ついでにすんすん、と鼻先を寄せたら、測定器を付ける為に彩りを落とした有りのままの爪がかりかりと鼻先を引っ掻いて戯れた。

指の先に針が刺さったくらい、いくら再生が遅いビビでもじきに治る。それなのに、こんなに過保護になって。人肉のアレルギーになったり、呼吸を忘れてもにっこり笑ったり、眠ったまま起きてくれなかったり、様々な虚弱は一層ウタを心配性にさせ、結果的にお互いの繋がりを深くしたように思う。

かりかり、柔らかく引っ掻く爪は“心配しないで”、そうどこか咎める戯れで。

つい細めてしまう目は顎下を撫でられた猫のよう。

なんとなく、なんとなく。目も声もふにゃっとしてしまいそうな雰囲気が雨音を反射している。光みたいに不器用に、ただ真っ直ぐ。

「…ねえ、探してるのって鉤針?」

「かぎばり。」

「4号…?」

「4ごう。」

身を乗り出してすりすり頬擦ったビビの、その胸元。忍び込んだ手でふにふに遊びながら問えば毛玉はこくんと頷いた。内緒だよと人差し指を立てる様な掠れた声にビビの身も心無しか縮こまる。擽ったいのか、恥ずかしいのか、或いは内緒話のお約束か、忍んで竦めた肩は華奢で小さい。待ち草臥れたナメクジの尻尾より、ずっと弱そう。

「…うん、見つけた」

「みっけ?」

「みっけ。ほら、毛糸でかくれんぼしてる。…かわいいね」

「ね、」

あれだけもさもさしていたのに結局はタオルケットなんて全然関係ない。先程ウタが拾った毛糸の玉にすっぽりと隠してあった。黒く彩られた爪が指し示す先で、辛うじて見える鉤針の頭がキラリと主張していて。ここだよ、ここにいるよ、さっき貴女が隠したでしょう、ここだよ。そう言っているみたい。

毛糸の玉を大事に包み上げるビビは、ウタとかたつむりのまま。タオルケットの中から転げた苺の消しゴム、パッキングされたままの宇宙人のお肉、ウタのキーケースから泥棒したバイクの鍵、イトリから貰ったリップ。それらを何の意味もなくただ順々に眺めて、やっと辿り着くように可愛らしいナメクジへ目をやる。

体が冷えたらいけないからと寝室へ促しても名残惜しい目はただお客さんのナメクジへと。離れ難いと口程にモノを言ってしょんぼりする目は大層心配そうで、仕方ないなあとついたわざとらしい溜息がビビの頬を撫でた。

少し我儘した自覚があると見え、数度頭を撫でて身を離してしまうウタに申し訳なさそうなビビが胸元のネックレスを頼りない指でもじもじしている。かたつむりのそばで編み物をさせて欲しいこと、ここにはウタも居てほしいこと、悪気があって我儘をしているわけではないこと。

伝えたいけれど、言葉がわからない。――と、ビビの目は言う。きちんとウタには伝わっているのに翅の瞬きは可哀想なほどの困り顔で。頬に滑る雨の影はきっとかくれんぼした涙だ。拭ってあげたいと誰しもが手を伸ばす弱虫の頬。昔からそう。卑怯なこれは変わらない。

適当に羽織っていたパーカーを脱ぎ、縮こまっているビビをすっぽり包んで抱き上げてしまえば、ああ連行されちゃう、としょんぼりしたビビが諦めに睫毛を伏せたから。ちゅう、と戯れの唇をくっ付けたまま、ぬいぐるみや毛糸がコロコロ転がるソファへばっふりと倒れ込んだ。二人一緒、離れる事なく。

雨粒の影に撫でられている柔らかい頬を親指で拭い、鼻先へのキスで以ってここに居る事を許すウタへ、安心した様に緩んだ唇がそれはそれは柔らかいキスを贈った。はむはむとリングを啄む唇は嬉しさに染まり切ったありがとうを伝え、控え目な合唱にも似た雨音にちゅっとした音符を乗せる。

大事に持っていた鉤針入りの毛糸で頬をぽふぽふするのも、差し出した舌をがじがじと噛む鋭い犬歯も、しつこいほどの頬擦りも。伝えたい一言は結局ありがとうに尽き、全て一音残らずウタへと届いている事だろう。

少し冷んやりとする出逢いの日。

「お昼寝しそうで怖いね」そう笑うウタに、「ね。」同じ様に返すビビ。

しとしと、

縫い寄せの雨は、今も変わらず。


あの日の糸繰車

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